王都アントラルの高く堅固な城壁を背後に、一万五千の軍隊が展開していた。通常ならば開かれている街への門も、いまは堅く閉ざされている。 「あれは、王旗か?」 軍勢が増えようとも常に傍らにあるファネルが首をかしげて旗を指す。すでにアリルカ軍も配置についている。 「そう」 フェリクスは短く答えた。国王軍の最も奥深く、青地に純白の牡鹿が二頭、戦う姿を染め抜いた王旗がはためいている。 「出てきてるね。思ったとおりだ」 「そうなのか?」 「自尊心の塊みたいな王だよ。自国の軍隊が負けたのが信じられないでいる。自分の目の届かないとこで戦ってるから、手を抜いたんだと思ってる。だから、自分が出てくる。わかりやすいね」 「よく知ってるな」 「当然じゃない。生まれる前から知ってるんだ、僕は」 見た目こそいまだ青年のフェリクスではあるが、長い年月を過ごしてきている。むしろそのようなことを神人の血を引くファネルが問うことのほうが、不思議だった。 「いまごろ、金切り声でも上げてるかもね」 癇症な、悪い意味で子供のような王だった。自分がすべての力を持たなければ、気がすまない王だった。 「愚かだよね。僕ら星花宮の魔術師は、ラクルーサ王家の臣下だったのにね。臣下の力は、自分の力。当たり前のことじゃない、人間の王国では? それなのに、僕らの力を自分のものにしたがった」 「どういう意味だ?」 「魔法を自分の物にしたかったの。だったら努力すればよかったのにね。努力もなしに、力だけが欲しかった。自分のものにできないなら、滅ぼしたい。なんて、安直」 嘲う口調ながら相変わらず温度の感じられないフェリクスの声音だった。ラクルーサ王のその心の持ち方がタイラントを殺したのだと思えば、もっと怒り狂ってもいいはずだ、とファネルは思う。そして怒りの激しさゆえに、フェリクスは淡々としているのだと今更ながらにぞっとする。 「ねぇ」 いつものよう、肩の上にいるシェリの背をフェリクスはそっと撫でた。とてもこれから決戦が始まるとは思えない優しさだった。 「ちょっと頼みがあるんだけど。いい? リオンに伝言して。最初の一撃は、カロルへの敬意を表す。そう言ってくれればいい。お願い」 それにファネルが訝しげな顔をしたけれど、フェリクスは説明する気がないのだろう。ラクルーサの陣営をじっと見ている。 「フェリクス。それってちょっと激しすぎませんかねぇ」 どこからともなくリオンの声がして、ファネルはぎょっとする。彼の姿はないのに、声だけが聞こえた。 「なに。ちょっと、ねぇ。伝えてくれればいいって言ったじゃない」 シェリに向かって文句を言いつつ、フェリクスは驚いてはいなかった。竜は伝言をするより直接話したほうがいい、と判断したのだろう。声を相互に伝えるよう、魔法をかけていた。 「激しすぎるって言うけど。ちょうどいいじゃない?」 「どこがです?」 アリルカ軍の反対にいるはずのリオンと易々とフェリクスは会話をしていた。初戦の布陣から、変わっていない。リオンが左翼、フェリクスが右翼の将を務めている。 「あれ見なよ」 仕種が見えるわけではないのだろうけれど、リオンにはそれで通じたのだろう。ははぁ、とのんびりした声が聞こえてファネルは少し、頭痛を感じる。 フェリクスが示していたのは、ラクルーサの陣だった。ごく普通の陣形、と言うには多少用心をした陣、と言うべきだろうか。先陣を務める歩兵は全員が大型の盾を構えている。そしてその背後にはちらちらと馬留めの柵が見え隠れしていた。 「こちらの大半が騎馬だから、と言うことでしょうねぇ」 「だから、あれをとっとと壊したい。それでずいぶん楽だよ」 「楽なのは、脱落者が出るからですか。それとも陣が壊れるからですか」 「そんなこと言わなきゃわからないような弟弟子を持った覚えはない」 「魔術師なんですけどねぇ、私。別に戦士ってわけじゃないんですけど。でも言いたいことはわかってます。じゃ、それで行きましょう。同調しますか」 「しなくていい。そっちでも一発撃って」 「それはまた……派手に行きますねぇ」 「最後の戦いでしょ。派手に行こう派手に」 「ラクルーサ王の誇りを打ち砕く一撃、と言うわけですか。了解しました。では後ほど。ご苦労様、シェリ。ありがとう」 その言葉が合図だったのだろう。以後リオンの声は聞こえなくなった。シェリが得意げに鳴き声を上げ、肩の上からフェリクスを覗き込む。 「器用なことができるようになったよね。実戦は何よりの訓練って、リオンだったら言いそうだけど」 言いつつシェリの尻尾をするりと撫でれば、どことなく甘えた声を竜が漏らした。 「フェリクス」 「説明してもいいけど。すぐに始まるよ。見てたほうが早いんじゃない?」 騎馬の上からフェリクスが前方を示した。ざっと、大地を踏みしめる音がする。ラクルーサの先陣が歩みを進めていた。 「さぁ、はじめようか」 首だけを振り向け、フェリクスは配下の準備が整っていることを確認した。リオンとの会話を聞いていたはずだ、彼らは。フェリクスの一撃が済むまでに、自らの準備を終えるだろう。 「開け天空の門――」 フェリクスと同時に自分たちの魔法の詠唱準備に入った魔術師たちの顔色が変わる。ぞっと師を見つめ、そして慌てて詠唱を続けた。そして同時に左翼でもリオンが同じ呪文に入っていた。 「星界の彼方より飛来せよ虚無の炎、イル・ケオに顕現し我が敵を撃て」 轟々と、魔力が天空で渦巻いていた。いまだかつて目にしたことのないものに、ラクルーサの歩兵が足を止める。恐怖に駆られて算を乱す者はいない。さすがに国王直属軍、と言えた。もっとも、歩兵は徴兵された市民で構成されている。すぐさま壊走することになるだろう、いままでと同じく。 「イルサゾート<虚炎業爆>」 互いに聞こえるはずのない声。それでいて、声はぴたりと重なった。上空で渦巻く魔力が、収束していく。光球が二つ。あたかも新しい太陽が産まれ出たかのよう輝く。それが一瞬のうちに消えた。 消えた、と見えたのは誤りだ、と魔術師たちは知っている。目で見ることが不可能なほど小さな点にまでなった光が、不意に拡散した。 足を止めることのなかったラクルーサ軍が、ざわめいた。圧倒的な光量に、我が目を覆って呻き声を漏らす。 無論、それで終りではなかった。光に押されるようにして体勢を崩した歩兵の背後、凄まじい音がした。彼らは振り返る。そして、光に潰されて見えにくい目が捉えたもの。 「……流星?」 ファネルは呆気にとられてそれを見ていた。今フェリクスに問うことはできない。彼は呪文の維持で精一杯だった。 放つだけならば、容易い。だがそれをしては死者が出すぎる。むしろ、この一撃ですべてが片付いてしまう。全滅と言う結果を以って。 だからフェリクスは威力はそのままに、直撃を避けるよう魔法を操っている。無論それでも死者は出るだろう。だが直撃しては生者はいなくなる。 馬留めの柵など、持つわけがなかった。あっという間に陣形は崩され、壊滅寸前。敵の将が浮き足立った兵を励ましているのを見たわけでもないが、その隙をつくようにしてフェリクスは魔法を解放する。 「続け」 今まで維持に苦闘していた声か、これが。いつの間にか彼の手には愛剣がある。詠唱の瞬間を見た者はいなかった。はっとして馬を駆る彼に続く。 左翼からもまた、騎馬の集団が飛び出していた。デイジー率いる炎の隼だった。軽騎兵とでも言うべき彼らは、魔術師に劣らず軽い。そして魔術師より巧みに騎馬戦闘をこなす。 左右の翼から突出した二隊が、歩兵を避けるよう迂回する。それをみすみす見過ごすような歩兵ではない。だが、アリルカにはリオンがいた。 「その身の形を変じよ、アレイド<地異>」 彼らに向かって敵兵が動くのを見澄ましたリオンの魔法。突如として、敵兵は足を止めた。止めざるを得なかった。 「巧いね」 疾駆しながらフェリクスは呟く。珍しくリオンを褒めてしまったことに気づいたのだろう、直後に顔を歪めた。 敵兵の足を止めたもの、それは土の壁だった。ただの壁ではある。が、あまりにも一瞬でその場に現れた。ラクルーサの歩兵と、アリルカの二隊の間を遮るようにして。 「な――」 驚きが、立ち直る暇もなかった。彼らの前、高々と聳え立つ壁が崩れていく。彼らに向かって。まるで土の雪崩だった。あっという間に出現し、崩れていくそれから逃れる術はない。今度こそ恐慌に陥った歩兵は、その場で崩れた。三々五々逃げていく歩兵など、フェリクスもデイジーも相手にしていない。 「目指すは、本陣」 「フェリクス!」 「なに。ファネル。忙しい」 呟きつつもフェリクスは魔法を放っている。恐ろしいまでの精度だった。 「このまま突っ込むのか!」 「デイジーが突破口を開ける。はず。リオンがそう伝えてると思うけど?」 「待て。話し合っては、いないのか!」 「そんな暇があったと思うの。思いつきだもの、ただの」 何か、聞いてはいけないことを聞いたような気がして、ファネルは黙々と剣を振るった。歩兵隊が壊走したからと言って、まったく兵がいないわけではない。すぐさま剣身が血で汚れた。 デイジーが開ける、と言うより事実上すでに突破口は開いていた。フェリクスとリオンが放った魔法が、敵陣をぐずぐずに壊している。 そこを目指して隼が突入した。錐でこじ開けるよう、敵陣を開いていく。縦横無尽に駆け回る彼らの姿を目で捉え、フェリクスはその背中を追う。 ありえないことばかりが起こっていた。たかが二隊に、ラクルーサ国王軍は正面突破を許した。数で言えば、四百に満たないだろう。少数と言うもおこがましい。 そしてラクルーサの将と騎士が体勢をなんとか立て直したとき、フェリクス率いるアリルカ右翼は敵左翼をほぼ戦闘不能に追い込み、デイジーと合流を果たしたときには、背面展開を済ませていた。 たかが、二千の兵にここまで鮮やかに突破をされた。そして二千の兵に挟撃されることになったラクルーサ軍は、兵も騎士も将も国王すらもが蒼白になっていた。 |