翌朝には、連合軍は姿を消していた。まず夜のうち、これ以上ラクルーサと行を共にすることに利を見出せなくなったミルテシア軍が密かに離脱した。
 その際、多少の混乱があったらしい。脱出するミルテシア軍をアリルカの夜襲と誤認したラクルーサ軍はわずかの間に恐慌に陥り、半ば自滅のようにして兵の脱走を許した。
 その混乱が収まったとき、ラクルーサの将はこれ以上の戦闘続行不可能を悟った。
 ありえないことだった。連合軍は五万と言う大勢。アリルカなど一蹴してシャルマークを切り取るつもりでいたものを。
 両国王や将の夢は一夜にして霧散した。蹌踉として帰途につく軍を、アリルカ軍は追わなかった。追えなかった、と言ったほうが正しい。
 さすがに疲労が激しかった。最後の気力を振り絞ったフェリクスとリオンが共同して念のためにと結界を張り休息についたときには、神人の子らですら大地に膝をついていたほど。
 それほどの戦いだった。それなのに、死者は一人も出さなかった。重傷者は確かにいた。それもすでに後方に送られ、命は取りとめるだろう。リオンの訓練が生きている。
 最も激しい傷を負ったのが、エラルダを守るデイジーだった。あの、春の陽射しのような柔らかさを持ったエラルダが血相を変えてデイジーを守っていた。
「逆じゃねぇか、これじゃ」
 肩を借りる、と言うよりもエラルダに抱えられるようにしてリオンの元につれてこられたデイジーは血の気を失っていた。失った血の気の分、出血が酷い。
「リオン、お願いです。どうか――!」
「はいはい。大丈夫ですか。ちょっと手を離して」
「でも!」
「あなたが離してくれなきゃ治療ができないんですってば」
 混乱の極みにあるエラルダをなだめるよりは他人の手を借りたほうが早いとばかりリオンは視線でフェリクスを呼ぶ。呼び出されたフェリクスもまた傷を負ってはいるが、彼は軽傷だ。
「ちょっと、エラルダ」
 呼び様、腹に拳を叩き込む。あっと呻いて、デイジーを抱える彼の手が緩んだ。その隙をついてリオンがデイジーを受け取る。
「さすが、私の銀の星仕込みです。素敵な拳ですねぇ」
「馬鹿なこと言ってないでさっさとやんなよ」
 疲れが酷すぎて、リオンの一挙手一投足が癇に障って仕方ない。普段から苛立たしい男であるのに、いまは耐えがたいほど苛立つ。
 ふ、と爽やかな風が吹いた気がした。それは風ではなかった。シェリの、鳴き声。
「なに。平気だよ。……ありがと」
 シェリは、いったいどうなっているのだろう。彼はこの体で魔法を使い続けた。常にフェリクスの傍らにあり、彼とファネルの援護をし続けた。
「疲れた?」
 問いながら、肩の上から抱き取った。少し、と言うよう首をかしげている真珠色のフェリクスの竜。わからないことが多すぎたけれど、一つだけ知っていた。この魂はあの男の欠片。それで、フェリクスには充分だった。
「お疲れ様」
 他の誰にも言わないことを言う。ファネルにすら言わなかった。彼もまた求めなかった。竜の甘えた鳴き声に、戦場の血が静まっていく。
 ほっと息をついたとき、デイジーの治療は終わっていた。半ば泣き叫んでいたエラルダが、今は照れくさそうにデイジーの世話を焼いている。微笑ましいと言うべきだろう。が、フェリクスの目には痛ましい。
「いずれ、先にいっちゃうのにね」
 デイジーが逝くのが早いか、それともエラルダの旅立ちのほうが早いか。ともに歩むことのできない二人を祝福する気になど、とてもなれない。
 が、周囲はそうは思わなかった。朝日が昇るなり、そのことが誰からともなく口伝えに伝わり、エラルダは非常に居心地の悪い思いをすることになったらしいが、かえってアリルカの結束力は高まった、と言える。炎の隼と言う傭兵隊が、真にアリルカの一員となった瞬間でもあった。
「さて。続けましょうか」
 すべての民の疲労は重い。当然のことだから、誰も言わない。続けるのも、当たり前だと思っている。たった一戦を終えただけだ。ここでやめてしまっては、なんのために挙兵したのかわからなくなる。
 そうしてアリルカは進軍を続けた。アルハイド戦史上、ありえない速さだった。着実に軍を進め、アリルカ軍がラクルーサの王都アントラルの城下に迫ったのは、連合軍の敗退より実に一ヶ月足らずのことだった。
 その間、アリルカは多少の兵数の変動を見た。最初に挙兵した者のうち、少数が帰らぬ人となった。それより多くが、負傷により後方に下がった。
 が、アリルカ軍は数を増していた。なにが起こったか。こういうことだった。アリルカ軍の挙動を遠くより眺めていた神人の子ら、そしてその子らが民となり、参戦していた。そして隼を知る傭兵仲間が、同じよう民となり、あるいは単なる協力者として、戦いに加わった。
 王都アントラルを囲んだアリルカ軍、その数二千。増えたとも言える。いまだ少数とも言える。いずれにせよ、現時点において世界最強の二千だった。
 アントラルの住人にも、恐れが広がっていた。連合軍が完膚なきまでに叩き潰されたことを、すでに彼らは知っている。
 ラクルーサ王は当然、隠蔽しようとした。そのようなこと、できるはずもなかった。出兵した者は大半が、一般市民なのだ。誰かの父から、あるいは兄から。息子から、口々に戦いの様子が伝わっていく。
「勝てない――」
 異種族と、魔術師の強壮さをその身を以って知った。恐ろしい、と言うべきか。否、彼らは恐れるより早く手を出してはいけないものに触れたのだと知った。
 そのようなものになぜあえて戦いを挑んだのか。シャルマークが欲しかったせいだ、との噂だった。
「あんなところ、誰が欲しいものか。欲しがるやつらにくれてやればよかったんだ」
 大穴が塞がったのは遥かなる過去。それでもいまだに異形・魔物の類が頻出する地域を獲得してどうするのだろう。そこに行かされることになるかもしれない、民は怯えて王を恨んだ。そしてもう一つの噂話が王への冷眼をあおっていた。
「……世界の歌い手が」
「殺された?」
「王が、暗殺したらしい」
 小声でかわされる噂話の出所はわからない。それでいて、密かな集まりを持つと誰からともなくそれを口にした。
 世界の歌い手。それは国王のよう尊く仰がれる存在ではない。それは黒衣の魔導師のよう、恐れられる者ではない。
 人々はただ、世界の歌い手を慕っていた。日々の生活に追われながら、貧困に苦しみながら。あるいは王侯貴族が貧者の生活など気にもかけない豪奢を尽くしながら。
 彼の歌を耳にする。その瞬間だけ、世界を知る。貧困の中に喜びを見出し、希望を手に握り締めることができる。豪奢の中に倦怠を見出し、他者への哀れみを思い出す。
 世界が世界としてあるべき姿を思い出す。人とはどのようなものなのか、わかった気がする。難しいことなど、いずれにせよどうでもよかった。人々はただ、世界の歌い手タイラントを愛していた。その彼が。
「暗殺?」
 忌まわしい方法でその命を奪われた、と噂は言う。王が認めるわけもなく、彼の命を奪ったものが喧伝するはずもない。
 どこから流れ出したものか、一向に知れない。けれど、人々がタイラントの姿を見なくなったのもまた、事実だった。
 そしてここにアリルカ軍を目の当たりにすることになった。そこに関連性を見たものもごく少数はいた。
 多くはただ、王がどのような態度を取るのかじっと息を凝らして待っていた。最後の出兵をするのか。それとも。
「異種族に、降伏するのか」
「いやか? でもよ――」
「向こうに、氷帝がいるって?」
 タイラントの名とともに必ず語られてきたフェリクス。タイラントを慕う人々でも、彼のことは遠巻きにしていた。
 フェリクスが、異種族だから。闇エルフの子だから。その彼がアリルカの将として立ったのは、ある意味では当然かもしれない。
「前のエイシャ総司教様もいるらしいって話だが」
 フェリクスの存在より、そちらのほうが王国の住人には衝撃だった。彼は紛れもない純粋の人間。そのリオンがアリルカにいる。助力ではない、将としてフェリクスとともに戦っている、と言う。
 それが、悪寒を呼び覚ました。どのような神に仕えるものであれ、神官は尊い。その神官が、アリルカの民として戦っている、王国に戦いを挑んでいる。
 それはすなわち、アリルカの戦いの正当性を証明するものではないのか。ざわざわとした心を抱え、少しのまとまりも作れないまま彼らはアリルカを城下に見た。
「少数だな」
 あれが、連合軍の大群を破ったのだ。そのときにはもっと少ない兵で戦っていたという。心底からぞっとした。
「なに――」
 そしてラクルーサ王国の臣民は心の底から震えることになる。
「出兵?」
「まさか!」
「王命が出たらしい」
「嘘だろ!」
 戦時下ながら、わずかに開かれている居酒屋で男たちが顔色を青ざめさせるとともに、城の近衛兵が雪崩れ込む。
「国王陛下の命である。直ちに出頭せよ」
 口々に騒ぎながら連れて行かれる男たちの背後で、どれほどの女が泣くのだろう。どれほどの子供たちが孤児となるのだろう。
 震えながらアリルカ軍を思う彼らは知らなかった。事実上、死者は驚くほどに少ないということを。アリルカは、確かにありえないほどの攻撃力を以って軍勢を叩き潰してきた。
 それでいて、死者が少ないというのはどういうことなのか。現在まで報告は王城には届いていない。それがフェリクスの心配りだとは、誰も思わなかった。
 ただ、アリルカの民だけが彼の努力の凄まじさを知っていた。殺してしまえばもっとずっと楽に維持できる魔法を、彼はあえて多大な努力で制御し続けてきた。
 それを見る弟子たちの眼差しから、凄まじさが感じられる。自分たちにはできない、と彼らの目が語っている。師を崇敬する彼らの目より、神人の子らの目は遥かに温かかった。




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