正に、壊走だった。連合軍の将兵は、誰一人としてこのような状態を予想してはいなかっただろう。エラルダもまた、同じだった。一瞬にして前軍が壊れたのを唖然として見た。
「エラルダ。指揮を」
 デイジーの厳しい声に促され、正気づく。はっとして本陣を前に進めた。このままでは左右の翼と距離が開きすぎる。それほどまでに凄まじい突撃だった。
 フェリクスは一人、ファネルを従えただけで突き進んでいた。肩から振り落とされたシェリがすぐそばを飛んでいる。
「フェリクス! 後続がついてきていない。少し落とせ!」
「うるさいよ、いいんだ。平気!」
「平気じゃないだろうが!」
 罵りながらもファネルだけは決して離されなかった。すでにその剣は敵兵の血で汚れている。できる限り死者を少なく、そう考えているフェリクスではあったけれど、相手に猶予を与えられるほど余裕はない。彼をアリルカの将と見て取った騎兵が群がっていた。
「死にたくなかったら、どけ」
 冷静さを失わないフェリクスの声。そこから何かを感じ取ることができるほど、敵兵は平静ではない。目をぎらつかせた兵士を一瞥し、フェリクスは魔法を放つ。
「だから、どけって言ってるじゃない」
 瞬く間にその場から敵兵が消えた。なにが起こったのかわからない間に戦闘力を奪われた彼らは大地を這って呻きを上げた。
「行くよ、ファネル」
 ファネルももう止めなかった。その無駄を悟った。ちらりと背後を振り返る。遅れた後続が砂煙を蹴立てて迫ってきていた。
「よし」
 また、敵兵が群がりつつある。いくら倒してもきりがない。こちらの小勢が響いていた。が、フェリクスはそのようなもの、気にも留めない。
「遅い!」
 魔術師たちを怒鳴りつけ、いつ詠唱したのかもわからないほどの速さで魔法を発動させる。敵を撃ち、味方を援護する。
「フェリクス!」
 彼の視線が外れた隙を狙って突っ込んできた敵兵を、一薙ぎで切り払う。
「ファネル。きりがない。手!」
「なに?」
「いいから、手!」
 馬を寄せてきたフェリクスに、咄嗟に手を出した。なにが起こったのか、わずかに視界が揺らぐ。目を見開いた。
「おい」
「敵を叩くなら頭からってね」
 転移魔法。この状況下でそれをするか、と後続の配下たちの遠い呻き声が耳に届いた。慌てて彼の肩に戻っていたのだろう、シェリもその場についてきている。竜と顔を見合わせてファネルは溜息をついた。
「ぼーっとしてたら置いてくから」
 冷たく言い放ち、言い返そうとしたときにはフェリクスは詠唱を始めていた。
「なんてやつだ!」
 呆気に取られていた連合軍の兵士たち。どこから現れたのかわからないこの魔術師が、敵なのは間違いない。
 慌てて剣を構えるもの、盾を立てるもの。いずれも戦意は明らか。舌打ちを一つして、ファネルも剣を構える。フェリクスの詠唱時間を稼ぎ出すために。
 不意に突風が起こった。なぜか、理由はわからない。が、ファネルにはわかった。
「お前か、シェリ?」
 竜が放った風属性の魔法。敵兵がばたばたと倒れていく。戦闘力を奪われてはいない。体の平衡を失っただけ。それでも充分だった。ちらりとフェリクスの視線が竜に向けられる。
「ありがと」
 笑みの影もなかった。いつもどおりの無表情。それでもフェリクスの声には温度があった。高らかに鳴くシェリの声と同時に魔法の発動。
「凍え万物の精気を奪い尽くせ。永久の眠りよ、バシェイザ<氷爆>」
 いつの間に出現させたのだろうか、フェリクスの手には彼の氷の剣があった。発動と同時に剣を振る。魔法に向かって叩きつけるというに相応しい勢い。
「なにを――」
「こんなもんこの距離でぶつけたら全部死んじゃう。それは避けたい」
「呆れたな……」
 魔法剣で、魔法を叩き切っていた。細かく潰された冷気の魔法が連合軍に襲い掛かる。それでも威力だけは落とさなかった。左軍を突き抜け、中軍を超え、その向こうまで突き抜けよとばかりに。
「ファネル!」
 フェリクスの手が伸びてくる。またもや転移かと思いきや、ただ強い力で引き寄せただけ。なにを、と思う間もなく爆音。
「考えることまで一緒とはね!」
 砂埃に塗れた顔をフェリクスは拭う。吹き飛ばされそうだったのだろうか、シェリはその腕に抱きかかえられていた。
「なにが」
「いまの? リオンの魔法だよ。僕と一緒。忌々しいね。向こうから軍を寸断する形で撃った……と言うことは」
 ちらり、背後を振り返った。転移などとても恐ろしくてできない配下たちが追いついてくる。それまでにも戦い続けているのだろう、疲労の色は濃い。
「続け!」
 フェリクスが剣を掲げた。なにを考えるまもなく配下が従う。ファネルだけが思考力を失わずに唖然とした。
「おい、フェリクス。そっちは――!」
「敵軍のまっさなか。死にたくなかったらこなくていいよ」
「そう言うわけにいくか!」
 フェリクスは左軍から中軍を抜ける形で突進しようとしていた。暴挙としか言いようがないだろう。通常ならば。だがしかし。
「向こうにリオンがいる。同じことを考えてる」
 馬を駆りながらフェリクスは言う。まさか、と思ったファネルだったがすぐさま結果を見ることになった。
「信じがたい……」
「この際、常識にはさようならを言っておいたら?」
「茶化すな」
「そうでもしなきゃ、やってらんないよ」
 実際、そうなのだろう。大きな攻撃魔法をフェリクスは使い続けている。よくぞ定命の身でこれほどのことができるものだ、とファネルは感嘆を隠さない。そのぶん彼の体が案じられた。もっとも、言って聞く相手でもない。だからこそ自分はここにいる。そうシェリを見上げれば竜もまた思いを感じ取ったかのよう、うなずいた。
「フェリクス、交代です!」
「意外と左軍の将は手強いよ。うまくやんな」
「それは楽しみ。では健闘を祈ります」
「うるさい、さっさと行け!」
 馳せ違う馬の背にあっての会話だった。軽やかに駆けていくリオンの姿にファネルは天を仰ぎたくなってくる。フェリクスはまだしもわかる。神人の血を引いている。が、彼は人間のはず。
「鍛錬の差ってやつだね。行くよ、ファネル。ぼんやり疑問に耽るのは後にして」
「すまない」
 シェリが、笑った気がした。見やれば視線をそらされる。それもどことなく彼の遊びのようで心が浮き立ってくる。
「気合、入れなおしていくよ」
「あぁ。早く終わらせよう」
「疲れたの。らしくないね」
 神人の子らにしては疲労が早い、とフェリクスは言う。からかわれているのだか本気なのだか判然としない。シェリを見ればすぐにわかった。遊ばれていた。
 フェリクスとリオンの魔法でほぼ全軍が壊滅状態だった。信じがたいことに、たった二人の魔術師によって、五万の軍勢がそこまで追い込まれていた。いかに配下の手があるとは言え、ほとんど彼らの手柄と言っていい。それを誇るでもなくフェリクスは次の戦いに勤しむ。
「ラクルーサ側だね。ありがたい」
 リオンと入れ違うようにしてフェリクスが向かったのは連合軍の右軍。そこにはラクルーサの将兵がいる。だからこそ、フェリクスは叫んだ。
「氷帝の前に立つ勇者はいるか!」
 星花宮の魔術師。氷帝カロリナ・フェリクス。その名をラクルーサ兵で知らない者はいなかった。だからこそ取った手段。すぐそばにいたファネルには彼の顔の苦さが見て取れる。
 好きでしていることではない、魔法による死者をできうる限り減らすため。フェリクスは己の名声を利用した。
 彼の背後、次々と配下の魔術師たちが集まってくる。フェリクスから未熟者扱いされる彼らであってもラクルーサ兵にとっては恐ろしい魔術師だった。
 一瞬、敵兵の足が止まった。敵の将が、兵を励ます遠い声。恩賞を約束し、逃げれば厳罰がと脅し。だが眼前の恐怖は何より上回る。
 停滞。それから誰かが、あ、と声を上げた。ぽかんとした気の抜けた声。将が機敏であったなら、瞬時のためらいもなく兵は切り捨てられていただろう。それほど士気を損なわせるものだった。将の打つ手が遅れる。
 見る間に雪崩をうって、壊走した。敵の将まで、その雪崩に飲み込まれたかのよう消えていく。数少ない、逃げ場を失った者たちが決死の覚悟、と言うよりは自棄になってフェリクスに襲い掛かる。
「無駄だよ」
 あえて冷たく言い、フェリクスは剣を一振りした。魂の芯まで凍りつきそうな凍気。ぴたりと兵の足が止まる。止めたくてしたことではない。動けなかった。
「寝てな」
 鼻で笑ったかのような言葉。それでもフェリクスの表情は変わらない。むしろ、温情。この場で戦闘不能となっていれば死ぬことはないと。
「リオン、どうしてる?」
 そのようなことなど忘れた顔をしてフェリクスはシェリに問いかけた。首を振って渋い顔をする竜など、ファネルははじめて見る。
「そう。じゃあ恩着せがましく手伝いにいってやろうか」
 フェリクスの唇が吊り上る。それが笑みであるならば、意地の悪い顔だったことだろう。だが動いたのは、口許だけ。
「苦戦中か?」
「と言うほどでもないんじゃない? さっきのミルテシア将は下したみたいだし。駆け戻るのも面倒だけどね」
 その実、疲労が深いのだろう、とファネルは思う。それを言って聞く相手でもない。できるだけ手助けはしたいと願ってはいるのだが、事実上あまり役に立っているとは言いがたい。
「ファネル。ありがたいと思ってはいるからね」
「そうか?」
「あなたの剣があるだけで、けっこう助かってる」
 沈んだ気持ちを引き立てるようなフェリクスの言葉に苦笑して、ファネルは一度自分の頬を両手で叩いた。
「よし。いくか」
 入りなおした気合とともにフェリクスを見つめる。彼の代わりにシェリが答えた。混乱する戦場の向こう側、大地に流された血よりもなお赤い陽が沖天から西へと傾きつつあった。




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