明朝。しんと静まり返った戦場が、かえってこれからの戦いの激しさを予感させた。もっとも、そう思ったのはアリルカの民だけだっただろう。連合軍側は小勢と侮りきっているのか兵気に弛みがあった。 「フェリクス」 すでに全員が騎乗していた。あとは両軍の無言の呼吸を読んで開戦を待つだけ。エラルダはそっと馬を彼のそばに寄せた。 「なに」 神人の鎧が、旭に煌いていた。真の銀の透徹な鎖鎧は、どれほど遠くからでも彼の所在を教えるだろう。 「ひとつ、嫌なことを言っておこうと思うんです」 今更なにを言うか、とばかりフェリクスがそれこそ嫌な顔をした。銀の鎖鎧の肩の上、風変わりな装飾のよう、シェリが止まっている。 「もしもあなたが戦死をしたら――」 わずかにエラルダは言いよどんだ。これから戦いに向かう相手に言うことではない、わかっていても、いまを逃しては言えなかった。 「アリルカの英雄として祭り上げます。それを心得ておいてください」 「ちょっと、エラルダ」 「死んだら、絶対そうしますから」 フェリクスの意見など聞く耳持たない、とばかりにこりと笑って彼は言う。あからさまな溜息をついてフェリクスは彼をねめつけた。 「そう言う馬鹿なことをあなたに吹き込んだのは――」 言って首を巡らせる。視線の通る場所にいた民が揃って目をそらしていく。笑って受けたのは一人だけ。 「リオン。お前か」 戦争前に一戦が始まってしまいそうな声だった。それを気にも留めずリオンは笑った。 「いやだなぁ。信用ないんですね、私」 「あるわけないじゃない。どうしたらあなたを信用するなんて愚かなことができるの。方法があるんだったら僕に教えなよ。いいからね。聞きたくないから。信用なんか、絶対しないから」 畳み掛けてむつり、と口をつぐんだ。自分でも言い募れば募るだけ、別の何かを示唆しているような、そんな風に思えてしまったせいかもしれない。 「そこまで言います? 別にいいですけど。ちなみに。エラルダに吹き込んだのは私じゃないです。信用しなくってもいいですけどー」 拗ねて見せてリオンはそっぽを向く。フェリクスが喧嘩腰で進み出そうになるのを、シェリが慌てて止めていた。 「そんな態度を愛でるほど、僕は変態じゃないんだけど」 「カロルはこんな私を可愛いって言ってましたけど?」 「だから、あんな変態と僕を一緒にするな! つくづく男の趣味が最低だよ」 「あなたにだけは言われたくないんですけど?」 にっこり笑って嫌味を言うリオンにフェリクスは険のある目を向けた。いままでも和やかだったとは言いがたい目をしていたのに、周囲の気温が下がったかと錯覚するほど。 「ちょっと、いいか?」 笑顔のリオンと凶相のフェリクスが嫌味の応酬をしだしたところに介入を試みる猛者がいた。エラルダは感嘆の思いを隠さず彼を見やる。 「なに、ファネル。用事ならさっさと。いま僕はとても忙しい」 「では簡潔に。エラルダに吹き込んだのは私だが」 「……ふうん。そう。ファネル。もしかして」 「念のために言っておくと自殺願望はない。以前ならばともかく、いまはきれいさっぱり死ぬ気がなくなった。不思議なものだな。これから五万の軍勢と戦うというのに」 エラルダが、はっと顔色を変えた。アリルカの民、それも半エルフと呼ばれた人々が、ファネルを見ている。 闇エルフの、ファネルを。殺したいのか、殺されたいから殺すのか、その区別すら判然とせず悪に堕した者。 そのファネルが、そのようなことを言う。民の熱気が静かに増した。滾るのではなく、ひたひたと満ちていく。 「……帰ってから、ゆっくり話をしようか。ファネル」 「あぁ、そうしよう。そろそろ」 「はじまりそうだね。エラルダ?」 二人の示唆を受け、エラルダがこくりとうなずく。片手を高々と上げた。 「総員、戦闘準備」 引き締まった熱気が、三つの軍に分かれていく。たった六百。総勢で、六百でしかない。対する連合軍は五万の大軍。怒涛の前の小石に等しい。それでも。 「勝つよ」 背後を振り返りもせず、フェリクスが配下の魔術師たちに向け、言った。 「さて、一仕事しましょうか」 リオンは首だけ振り向けて笑顔を振りまく。頼もしい両翼の指揮官に、エラルダはうなずいて見せ、傍らのデイジーを見つめた。 「勝てるって言うんだから、勝つでしょうよ」 「そう、思いますか」 「まぁ、ねぇ。俺たち隼は常識的な傭兵隊なんで、勝てるわけないと思っちゃいますがね。でも、あいつらが勝つって言うなら、勝てる。そんな気もしますよ」 信頼、と言うことかもしれない。それを露にするのが照れくさいのかもしれない。その容貌魁偉な傭兵隊長を、エラルダは頼もしく思う。不意の笑顔に、デイジーがそっぽを向いた。 「お。きましたぜ。はじまった」 そらした目の、視界の端にずらりと並んだ兵士が映った。一糸乱れぬ、とは言いがたいたるんだ行軍。アリルカの両翼は動かない。 それを恐れのあまり動けない、とでも思ったのだろうか、敵の足が速くなる。両翼はまだ、動かない。 「矢の距離だ」 ぽつり、デイジーが告げる。エラルダに教えたつもりだろう。言葉が聞こえたわけでもあるまいに、連合軍側はその位置につくなり、一斉に矢を放った。 「我こそは愛しきエイシャの盾」 静かなアリルカ軍に、リオンの声が優しく響いた。正に、柔らかな神官の声としか思えないもの。 「あ」 驚きは、誰のものか。あるいは連合軍の兵士こそが最も驚いていたかもしれない。アリルカの元、矢は一矢たりとも届かなかった。 「さぁ、はじめますよ。ついてくるんですよ。遅れたら追いてっちゃいますからね」 甚だ気合に欠ける言葉を投げかけ、リオンが飛び出した。舌打ちをして、フェリクスが馬を駆る。二人に続いて、魔術師とその護衛者たちが。両翼あわせても四百に欠ける小数だった。 だが、その哀れなほどの小勢が連合軍を驚愕の中に叩き落す。馬の背で、器用に体勢を整えたフェリクスとリオン。次第に離れていく二人が、それでいて呼吸を合わせたよう詠唱に入る。 「留まれ異界の風、来たれ水ならぬ水。我が呼ぶ、永久の凍気」 フェリクスの詠唱に、背後に従う彼の高弟が顔色を変えた。呪文の詠唱は、尋常ではない集中力を必要とする。 そもそもが、移動しながら、騎馬の上で魔法を使うということ自体、非常に高度なことだ。その上彼は高速詠唱法を使用している。 「なんて人だ……!」 呆気にとられ、自らの責務を忘れかけた。慌てて彼も詠唱に入る。フェリクスほど高度ではなく、けれど確実な呪文を。その間に、フェリクスの魔法が完成していた。 「荒れよ狂えよ世界に満ちよ、シェリルトゥ<氷烈>」 大気が、一瞬止まったかのような錯覚。すぐさま連合軍は異変を悟る、と言うわけにはいかなかった。魔術師を嫌った人間の王たちは、魔法の専門家を国から放逐していた。彼らに、魔法に対する対抗手段はない。 「致命的だね」 この世界に魔法と言う攻撃手段がある以上、いやでも付き合っていくのが賢明と言うものだ、フェリクスはそう思う。が、それを教えてやる気も手を貸してやる義理もない。かくなる上は徹底的に叩き潰すまで。 フェリクスの魔法が、連合軍の前軍を襲った。弓矢を取る、歩兵で構成された彼らは、呆気に取られて上を見ていた。 「霰……か?」 言葉が実体となったかのよう、魔法が効力を示す。気づいたときには、逃げられない。天空から飛来する氷の礫。否、つららと言ってもまだぬるい。まさしくそれは無数に飛来する氷の槍だった。悲鳴が、喉から絞り出されそうになり、そして止まる。 「滾れ蕩けよ大地の坩堝。煮え沸きかえれ基の鋼。古の刻を吐け」 反対の翼で、リオンもまた詠唱を進めていた。フェリクスの配下が青ざめたよう、彼の配下も顔色をなくしている。 「こんなところで使いますか、普通!」 「リオン師が普通だと思ってた自分が、馬鹿だった……」 呻き声にリオンは振り返り、にっこり笑う。一時的に詠唱を中断した。 「馬鹿なこと言ってると、的にしますよ。さっさと働きなさい。お仕事があるでしょうに。幾らでも」 「は――!」 途端に背筋を伸ばした配下に一瞥をくれ、リオンは再び詠唱を続ける。馬の背とは思えない、安定した詠唱だった。 「怒りの如く、サレイカラ<地裂流炎>」 まるで、それはリオンのように。彼の癖なのだろう、いつの間にか手に現していたハルバードを横薙ぎに払う。そしてそれを振り下ろした。 と――。天空から降り注ぐ氷の槍にこらえきれない悲鳴を上げかけていた兵士の足元が、崩れた。突如として、としか言いようがない。 今度こそ、声が上がった。悲鳴ではない。恐怖のそれ。あまりの恐怖に、声なき声が戦場を圧して響き渡る。 それを押さえつけるよう、大地が割れた。割れた大地が火を噴いた。天から降る氷の槍に貫かれ、割れた大地の火に飲まれ。 一瞬にして、連合軍の前軍は壊滅した。唖然とする暇もなかった。相手に回復の隙を与えては、アリルカに勝ち目はない。 「働け、弟子ども」 氷系、最大の呪文を使っておいて息一つ乱さないフェリクスの叱咤に配下が身震いをする。そして次々に魔法を撃った。 「くるよ」 フェリクスは、連合軍の左軍を相手取っている。ミルテシア兵で構成されたそれは、壊滅するのも早いだろうと思っていたが、抵抗はラクルーサより早かった。 「いい将がいるね」 だが、それも今日この日まで。日没までには。そう自らを煽り立て、フェリクスは駆ける。その傍ら、ぴったりとファネルがついていた。 |