連合軍が続々とシャルマーク国内に入りつつある、という報がきている。フェリクスは慌てず、リオンは民の逸る気持ちをなだめて周っていた。
「偵騎を出そうか」
 デイジーもやはり、血の滾るのを覚えているのだろう。リオンに迫っているつもりではないだろうが、上気した顔が少し恐ろしげだ。
「うーん、そうですねぇ。どうします、フェリクス」
「必要ないけど。やりたかったらやってもいいよ」
「ちょっと待てや。偵察が要らねぇってことはないだろうが」
「要るよ? それはこっちでやってるから。どうやってるか? 決まってるじゃない。魔法でやってるんだよ。おかげで僕もリオンもくたくただ」
「――と言うほど疲れてはいませんけど、私。あなた、鍛練不足じゃないですか」
「黙れ。リオン。修辞と言うものを理解しなよ」
 わかってるのに、と小声で情けなさそうに呟いたリオンにデイジーは肩を落とす。この二人と話していると妙な疲労を覚える自分は常識人だ、とつくづく思う。
「まぁ、そういうわけなので、あなたが自分の手勢で確かめたかったらどうぞ、と言うことです」
「わざわざ無駄はしたくねぇな」
 ぼそりと言ってデイジーは引いた。引いた、と言うよりこれ以上疲れたくなかった。
 炎の隼を束ねるデイジーですらその有様だ。戦いに慣れていない民たちの熱気は高まり尽くしてしまいそうな勢いで、これでは戦闘が始まる前に気力が尽きてしまう、とリオンは民の間を経巡ってはなだめているわけだった。
「フェリクス、ちょっといいですか」
 フェリクスもリオンに同調するわけではなかったけれど、こんなことで負けたくはない。だからまた彼も民の間を歩いていた。
 リオンのよう、何かを話すわけではない。肩にシェリを止まらせて黙って歩いているだけだ。それでも民はその落ち着いた歩みぶりを目にして冷静さを取り戻していく。エラルダが彼を呼び止めたのはそんな時だった。
「なに?」
 問題が起こったのか、と言外に問えば首を振られる。その佇まいから無駄を悟ったフェリクスはそれ以上の問いを発せず彼に従う。
「また会議?」
 訝しげに眉を顰めたのは、彼が議事堂に至る小道を上りはじめたときだった。わずかに首だけを振り向けたエラルダは照れくさそうに笑ったものの、けれどやはり何も言わなかった。
 道を上りきったフェリクスの足が、止まった。かすかに顰められた目が驚きを語る。シェリが嬉しそうに鳴いていた。
 議事堂の前、と言うよりもそのほとりの湖のそば、民の主だった者が集まっていた。どの顔も誇らしげで、熱意にあふれている。
「ちょっと。なにがはじまるの」
 少しばかり唇をすぼめたのは、自分だけがこれを知らされていなかった、と拗ねているせいか。他の誰にもその真意がわからなかったとしても、シェリにはわかっただろう。
「なんでしょうねぇ。驚きました、私」
 カラクルが迎えにいっていたのだろう、リオンは彼をそばに置いたまま民を眺め渡してそう言った。その口調に驚きはない。
「本当に?」
 欺かれている気がしてそう言ったけれど、リオンとはこういう男だ、とも知っている。なぜとなく溜息が出た。それをシェリが笑ったのだろう、高らかな声だった。
「フェリクス、リオン。実は隠し事をしていました」
 エラルダが前に進み出て、軽く礼をする。その態度に悪意はない、とフェリクスは見て取った。隠し事、と言うのもたいしたことではないだろう。
「この議事堂を清掃していたとき、といいますか、片づけをしていたときといいますか。いずれにせよ中をはじめてきちんと調査したときに珍しいものを発見したんです」
 ちらりと背後を振り返り、エラルダは民に合図をした。進み出た二人の手には、布に包まれた何か大振りのものが抱えられている。
「あなたがたに、受け取って欲しいのです」
 その言葉とともに、布が取り去られた。リオンが実に珍しく息を飲む。フェリクスもまた、驚いていた。
「鎧? 僕とリオンに?」
「あなたがたは、先陣を切って進むことになるのでしょう? 最も戦闘の激しい場所にあなたがたはいることになる。身を守るものを、つけていただきたいのです」
「鎧、か――」
「すでにご覧になったよう、これは神人の遺品です。真の銀でできていますから、そう重くはないです。魔術師のあなたでも、まとうことはできると思うのですが……」
 エラルダの言ったよう、確かに鎧は真の銀の輝きを持っていた。そこはかとなく透徹で、硬質な輝きかと思いきや、一転して温かい。通常の銀に比べて遥かに硬く、そして軽い。
「こんな貴重なものがねぇ。今でもあるとは思ってもいませんでした。私たちに、ですか? ありがたいですけど」
 言葉を切ったリオンがちらりとフェリクスを見やる。それを受けて続けるのは業腹だが、フェリクスにも言いたいことはあった。
「だったら、エラルダがつけて。あなたは総指揮官だ。本陣の最も目立つところで旗頭やってもらうんだ。リオンは自分の武装があるだろうし、僕もなんとかなる。要らないよ」
「そう言われると思ってはいたんですが。だめですか」
 しゅん、とエラルダが首を垂れた。民まで心細そうにしている。はたとフェリクスは気づいた。ここにいる者はすべて神人の子だった。定命の身の儚さを、知っている者たちばかり。戦闘で、二人が倒れることを案じている者ばかり。
 不意に肩の上でシェリが鳴く。小さな、余人に聞こえる声ではない。フェリクスにだけ届く竜の声。それがなにを語ったのだろう。
「……僕は、そんなに簡単に死ぬ気はないんだけど」
 いまのところ、と心の中で付け加えればシェリに咎められた。
「それでも危険はできうる限り排除するべきではないでしょうか」
「エラルダのほうが危ないって、わかってるの」
「私はそう簡単には死にません。あなたがたは違う」
「……リオン。決めていいよ」
「押し付けますねぇ。困ったな。とっても光栄です、本当に。神人の武装をすることになるとは思ってもいませんでしたからねぇ。まぁ、一世一代の大勝負ですし。ちょっと華麗に装うのも一興かと。その程度の気持ちでお借りしましょうか」
 ね、とフェリクスを見やってリオンは言った。その態度を見るにつけ、どうにもはじめからエラルダとリオンの間で話はついていたのではないか、と思えて仕方ない。ふっと視線を巡らせてファネルを見つけた。彼は笑いをこらえかねているような顔で視線をどこかに飛ばしている。それがフェリクスに確信を与えた。
「……リオン、あとで覚えてろよ。いいよ、借りる。身にそぐわない気がするけどね」
 フェリクスの受諾に喜んだのは民ばかりではなかった。これ以上ない歓喜を体中で示したのはシェリ。思えばこの竜もまた、フェリクスが非命に倒れることを案じていた。
「よかった。どうしてもいやだと言われたらどうしようかと……。せっかくみんなが見つけて磨いたものなので。あの、よかったら……」
「いまつけて見せろって? それは嫌。どうせすぐつけることになるんだ。そのときいくらでも見れるでしょ」
 すげなく言ってフェリクスは鎧を受け取る。思わず腕が泳いだ。あまりにも軽い。想像していたよりずっと軽量だった。これならば充分につけたまま戦うことが可能だ、とフェリクスはうなずく。すぐ隣でリオンも同じようなことを、こちらは口に出して言っている。民への配慮もあるのだろう。
 フェリクスは黙って背を返し、鎧を抱えたまま自分の小屋へと戻った。おそらく数日中にアリルカを発つことになるだろう。そうなれば、しばらくの間はゆっくりとすることもできない。
「望んですることだけどね」
 小屋の中、シェリを抱きかかえていた。せっかくの神人の鎧は部屋の片隅に放り出されたままだ。これを見れば磨いたという民は落胆することになるだろう。シェリの視線にフェリクスはそんな思いを見て取った。
「いいよ、誰もこないし。きても追い返す」
 だからかまわない、そう嘯いて、それでも多少は気が咎めたのか、きちんと壁に立てかけた。
「ねぇ」
 呼びかけにシェリが顔を上げる。腕の中で身をよじり、伸び上がってフェリクスを覗き込む。色違いの目に、何が映っているのか知りたくて、知りたくない。
「あなたの、復讐戦が始まるね。無駄なのは、わかってるんだ。これが終わったからって気が済むわけでもない。僕の手が汚れるだけって、わかってる」
 まだ言い募ろうとしたフェリクスの口を、シェリが塞いだ。硬い竜の唇。細い舌に唇を舐められた。フェリクスは身のうちを貫いた虚ろを直視することを恐れ、体を強張らせる。悪戯に彼がよくしていたくちづけを、思い出したくなかった。
「いまは、だめ」
 首筋に頭を擦り付けてきたシェリを離せば、不満そうな唸り声。竜のそれが少しも恐ろしく聞こえないのはフェリクスだけだった。
「戦闘前にするのは慎むべきだね。心身が充実してちゃ、気が鈍る。帰ってきたら、そのときに。楽しみにしてれば?」
 茶化した言い振りに、シェリは疑わしそうな目をした。フェリクスが語るのは一面の事実ではあるだろう。だが彼が言いたかったのは、そのことではあるまい。
「僕は、死なない。よくカロルが言ってたよね。僕は死にたがりだって。今ほど生きていたいと思うことはないよ。ラクルーサ王の首獲るまでは、絶対死なない」
 そのあとは、とシェリは視線で尋ねた。フェリクスは目をそらした。視線の先に追いすがってくる竜を避け続け、フェリクスはついに目を閉じる。
「……あなたがいない」
 閉ざしたまま、呟く。閉じてしまったのは目だけではなかった。彼の心が、否、存在そのものが。不意にシェリが吼えた。
「なに」
 はっとするほどの鋭さを持った竜の怒号。小さな体であっても小屋が震えるほどの声だった。
「……平気。大丈夫。死なないよ、できるだけ。頑張るよ。だから。ねぇ」
 腕の中に再びシェリを抱きかかえ、その背に顔を埋めてフェリクスは呟き続ける。シェリにではなく、自分に聞かせ続けるように。




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