魔力をあれほど暴走させたわりに、体調は悪くはなかった。酷くはない、と言い換えたほうが正しいが、決して悪くはないのも事実。
「ねぇ。なにしたの」
 ようやく肩の上に戻って嬉しげなシェリに尋ねるともなく言えばあからさまにそっぽを向かれた。だから、フェリクスには自明のことだった。
「詫びればいいの。感謝すればいいの」
 途端に竜の抗議の声。どちらも必要ではないと言ってくれる。それがありがたくて、けれど何も言えなかった。だからこそ。
「ねぇ」
 そっと、枯れてしまったありったけの感情を指に乗せ、その背を撫でる。くつろいで嬉しそうな竜の声。以前ならば微笑んだだろうな、とフェリクスは思う。いまも、少しだけ思う。思うけれど、表情の動かし方を忘れてしまった。
「だめだね。別に、いいか。僕は、僕だものね」
 呟き声に竜は答えない。それが何よりの肯定に思えた。きっぱりと首を振り、フェリクスは施療院を後にする。
 神人の子らは怪我の治療と言うことをほとんど必要としなかったけれど、その子らは違う。おかげでアリルカにもいまは施療院がある。初めて利用することになった機会がこれではさすがに情けない、とフェリクスも思わないでもなかった。
「みっともないね」
 己を恥じるフェリクスに、だが民は優しかった。誰もが彼を案じ、慮っている。あからさまではない。むしろ控え目ですらある。
「まぁ、居心地は、悪くないかな」
 そんな言葉でしか感謝を表せない自分が、嫌になりそうになる。それでも、それしか言葉がなかった。
 彼がいたならば。彼を失っていなかったならば。自分は人間性の最上の部分を失わなかっただろう。最も善き部分を殺したのは、人間だ。フェリクスは思う。
「だから、戦うよ」
 好きじゃないけど、人殺しは。シェリには、彼の心の声が聞こえたかもしれない。無意味な殺戮をフェリクスが嫌っているなど、今となっては誰も信じまい。そもそも有意義ですら殺害を認めないような人だったのだと、誰が信じようか。フェリクスの耳に、甘えた竜の鳴き声が届いた。が、フェリクスは体を強張らせた。
「なにしてるの」
 声には明白な殺気があった。肩の上、シェリが緊張を隠さない。目の前に、マルサドの神官を背後に従えたエヴァグリンが立っていた。
「あなたに……」
「ねぇ。詫びたいとか言わないよね。僕は、あなたが持ってきた竪琴が、どうなったかは、聞かない。聞かなくても、わかってる」
 きゅ、と竜の声がした。切ないような、なだめるような竜の声。そっと首に絡んだ尻尾に指を滑らせた。
「あの男の愛器は、この世から消えたんだよね。あなたのせいでね」
「それは――」
「答えないでね、エヴァグリン姫。僕はあいつの竪琴がどっかにあるって思ってたい。希望じゃない。妄想の類だ。僕のここは――」
 青ざめた姫を見据えながらフェリクスは己の胸を指差す。いっそ優しいと言っていいほどの口調が、エヴァグリンを怯えさせていた。
「なにがあったか、知ってる。理解してる。あなたのせいだ。その上で、僕に何が言いたいの。僕の前に今更どうやってその顔を見せられるの。さすが王家のお姫様だね。厚かましいってことを知らないらしい」
 淡々とした嘲笑。表情すら変えずにフェリクスは言ってのける。そう、マルサドの神官は思ったことだろう。
「やはり、それでも。なにを言われようとも、お詫びを言いたいと思います」
「愚かだね」
「フェリクス!」
「あなたは詫びたいだけじゃない。心から悪いと思ってるなら、僕の意を汲んだら? 僕はあなたに消えて欲しい。さっさとここからいなくなって。僕の前から消えて」
「あなたは謝意を受け取ると言うことを知らないのですか」
「受け取るって事は、許すことだよ、お姫様。僕はあなたを許す気はさらさらない。さぁ、消えて」
 話はここまでだと言わんばかりのフェリクスの肩、竜が声を上げた。いぶかしげに眉を顰め、そして彼は溜息をつく。
「……こいつが、許せって言ってる。僕の本意ではないけど。僕はこいつに泣かれたくないからね、あなたに忠告をしよう。それがこいつの意思だからね。僕の意思じゃない。忘れないで。いいね」
 いまからなにを言おうとも、自分の本意ではないのだとここまで念を押すフェリクスを、エヴァグリンこそ理解できないと言いたげに見ていた。
「その前に。マルサドの神官」
「なにか」
「あなたは、エヴァグリンを守る気があるの」
 その問いに、神官は皮肉に笑った。フェリクスをではない。自らを嘲るような笑みをフェリクスは誤解しなかった。それに少しばかり驚きつつ彼は言う。
「姫を、定めし者にはできなかったが、そのつもりで守る気はある」
 守護の権利と義務が生ずるマルサド神の神官にだけ与えられる、ある種の権利。かつてのサイリル王子がアレクサンダー王を守護したよう、彼は姫を守りたかったと言った。
「そう。じゃあ、帰ったら気をつけるんだね。エヴァグリンはここアリルカを訪れたことで、王の鍾愛を失ったと思ったほうがいい。第一王女の称号も失くすかもしれない」
 言うまでもなく、第一王女とは王の長女を指す称号ではない。王家の、最も重んぜられる姫に贈られる称号だ。エヴァグリンは最も王位に近い場所にいるがゆえに、それを与えられている。それをどう感じるのか彼女は毅然と顔を上げて言った。
「私は、私です。どこにいようとも、称号があろうともなかろうとも」
「甘いね。第一王女の称号を失ったあなたを、北の塔に幽閉するくらいはやりかねないよ、あの王は。あなたの父親だけど」
 北の塔、と聞いた瞬間に神官が顔色を変える。まさか、と言う思いと確かにと感じる心が入り乱れ、彼の動揺を誘っていた。
「北の、塔……」
「重罪人が入るのは、知ってるよね。貴人の重罪人だけど。罪名は主に反逆罪だったかな。あなたは、そこに入れられる可能性があるってことだ。それを、こいつが忠告してる。気をつけるんだね」
「フェリクス、待って!」
「まだ何かあるの。僕は忙しいんだけど。用事があるんだから、さっさと言って」
「あなたは――」
「だから、なに」
「……父に、反逆する気はなかったと聞きました。父が、悪かったのでしょう。それも、私は信じます。ですから! 私がもし父を説得することができたら――」
「そう言うのを、無駄な努力っていうの、知らないの。結局こいつのことは王と星花宮、いや、魔術師って言ったほうが正しいね。双方の全面抗争の切欠でしかない。そこに異種族の争いが絡んで、もう僕にはどうしようもない。どうする気もないけどね。あなた、僕らに、アリルカ共和国に全面降伏できるの。できないでしょ。人間の王国の、王家の姫として、それはできないでしょ。だから、僕らは戦うことになる。あなたはとりあえず王家のお姫様だし、次に会うのは戦場だとは言えないけど、つまりそういうことだよ。わかった?」
 静かなフェリクスの口調だった。決してお前を許しはしない、そう言ったのと同じ人物の声とはとても思えない。それだけに、彼の怒りの強さ深さが窺えて、エヴァグリンは言葉を失くす。無言でうなだれた彼女に一瞥をくれ、フェリクスは背を向けた。
「……これでよかったの」
 遠くに歩み去ってから、ようやくフェリクスはシェリに小さく言った。
「そう。あなたがよかったなら、それでいいんだ。僕は、それでいいよ。別に、嫌がってない。平気。大丈夫だよ、本当に」
 喜びつつ、嫌なことをさせたのではないかと案じる竜の声と体温。フェリクスは心のどこかが緩むのを感じる。ほっと息をついた。
「用事? ファネルだよ。あなた、どこにいるか知らない?」
 肩の上の問いに答えれば、シェリが勢いよく飛び立った。不意に竜の体温を失くしてフェリクスは咄嗟に手を伸ばす。
「あ――」
 そのことに、自分で驚いた。たったこれだけ。竜の体温に、慰めを見出している、そんな自分に。それを嗤うこともできなかった。シェリはそんなフェリクスに気づいたのだろうか。少なくとも脇目もふらず彼を誘導した。
「あぁ……。邪魔かな」
 隼の一団がそこにいた。ファネルと、その仲間たちは彼らに武器の扱いを習っているらしい。訓練と言うよりは遊びめいて見えるのは、隼の楽しげな笑い声があるせいだろう。
「ファネル。あとでちょっといい? 時間ができてからでいいから」
 木陰から声をかければ、さっと歓声が上がった。ファネルの仲間たちと、そして隼たちと。両方がフェリクスの回復を喜んでいる。それにかすかな胸の痛みを覚え、フェリクスはそれがなににきざすものかわからなかった。
「あとでなくともかまわないが。隼には遊んでもらっていただけだ。訓練と言うわけでもない」
「そう? じゃあ、ちょっと」
 用事がある。確かにフェリクスはそう言った。自分でそれを忘れてはいない。施療院で目覚めてから、まずファネルに会わなければ、と思ったことも確かだ。だが、こうしてみると何を話していいのかわからなかった。無言で自分の小屋に足を進めるフェリクスの隣をファネルもまた黙って歩く。肩に戻ったシェリが楽しそうに鳴いていた。
「私がやろう。かまわなければ?」
 小屋に戻るなり、手持ち無沙汰だと言わんばかりに茶の仕度をしようとしたフェリクスを制してファネルが言う。抗うことでもなかったから頼んだものの、よけいに身の置き所がなくなった。
「ねぇ……。あなた、なんであんなことしたの」
 ゆっくりと、ファネルの淹れた茶を口にする。温かくて、よい香りがした。
「あんなこと?」
「僕を切ればよかったじゃない。認めるのは癪だけど、当代随一の神聖呪文の使い手がそこにいたんだ。致命傷でも治療したはずだよ、リオンは。そうすればよかったのに。どうして」
「それがいやだったからだ、と言うのでは理由にならないか。そう言った気がするが」
 だからその理由の意味が聞きたいのだと、ようやくフェリクスは自分の真意を悟る。そして唇を引き結んだ。
「……あなた、やりたいことがあるって言ったよね。アリルカを独立させてから。それって何?」
「ずいぶん質問ばかりだな。困ったな。まぁ……そうだな。その質問には、戦いに勝ってから答える、と言うことにしておこうか」
 はぐらかしたファネルをフェリクスは睨みつけはしなかった。茶を飲み干したファネルが辞去しても、無言で座っていた。最後まで、礼も詫びも言わなかった自分をただ、見つめていた。




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