跳ね飛ばされたシェリが宙で悲鳴を上げる。フェリクスの名を呼んでいるように聞こえた。暴走は、止まらない。
「なんて愚かなんだ、あなたは! シェリ!」
 リオンの叫びにシェリが飛んでくる。エヴァグリンが恐ろしげに体をすくめ、神官がその身を庇った。が、彼らはそんなものを見てはいなかった。
「すみません。頼みます」
 竜を呼ぶ、悲鳴じみたリオンの声。フェリクスのそばには誰も近づけない。ファネルが苦痛に顔を顰めていた。
「いったい何を――」
「壊すんですよ、粉々に! 跡形なく!」
「え――」
「誰がやったって、フェリクスは後で怒ります。だから、本人にやってもらうよりない。あなたが、彼の愛器を壊させる原因なんです。わきまえなさい!」
 リオンに、そのような口調で叱られたことなど、エヴァグリンに覚えはなかった。彼はいつもおっとりと礼儀正しく、星花宮の魔術師には珍しい人物、と思っていたのに。それに彼の焦燥を知る。
 竜が、鳴いた。愛器に対する、詫びだったのか。それとも別れの言辞か。空を仰ぎ、高らかに鳴く。不意に風が起こった。
「あ」
 ぴしりぴしりと音を立て、竪琴の弦が弾け飛ぶ。思わず差し伸べたエヴァグリンの手を、背後から神官が捕らえた。
「殿下。危険です」
 また、風が起こる。竪琴の、腕木が飛んだ。宙を舞って、微塵に砕けていく。竜の色違いの目が、それを見つめていた。
「ごめんなさい、シェリ。あとは私が。ファネル。まだですか!」
 言い捨てて、リオンが口の中で詠唱する。舞い上がる土埃の中、大地が陥没した。吸い込まれる竪琴の残骸。
「無理を言うな! どうやって止めろと。お前がやれ!」
「できるものならやってます! 私がやったら、あとで殺されちゃいます、私」
「お前な!」
「ぶった切ろうがぶん殴ろうが好きにしてください。死ななきゃ治療は私がします!」
「無茶苦茶を言う!」
 罵りながら一歩ずつ、ファネルはフェリクスに近づいていた。彼の喉からいまだ悲鳴はもれ続けている。無表情に、どこも見定めずに。竜が鳴いた。
「長引くとフェリクスが持ちません! 頼みます、ファネル!」
 舌打ちを一つ。意を決したファネルが腰の剣を抜いた。抜き身で顔を庇うよう、さらにフェリクスに近づいた。
「リオン……。彼は、どうなってしまうのですか。なぜ、こんな……」
「言ったでしょうに。あなたが原因です。あなたが、彼の竪琴を持ってきたりするから」
「でも。大切なものでしょう。違うのですか。手元に、置いておきたいと思わないのですか。私なら、そう思います。ですから」
「そう思えるくらいならフェリクスは復讐しようなんて思いません」
 苦闘するファネルを心配げに見つめつつ、リオンは言った。続々と民が集まってくる。人間に対する敵意に、炎の隼たちが居心地悪そうにしていた。それをエラルダがなだめている。
「フェリクスは、彼の遺品を何一つ持ち出していません。見るのがつらすぎるから。手元に置くだなんて、とんでもない。……フェリクスは、彼の遺体すら、葬っていない」
「遺体、ですか?」
「星花宮にありますよ、まだ。どうせあの離宮は閉鎖されているんでしょう? そうでなくとも、動かせるはずはないですけどね」
 淡々と語るリオンの口調に、真実を見た。確かに、星花宮は閉鎖されている。魔術師がいなくなったからだ、とエヴァグリンは聞いていた。その中に、あのタイラントの遺体があるとは。
「あなたがどう思おうと、それはあなたの勝手です。ただ、あなたの常識で、彼らを量ってはいけません。フェリクスにとって彼は、たった一人の大切な人です。私にとってカロルがそうであるように」
 リオンはそう言って自らの手を握りこんだ。何かを掴んだように彼女には見えたけれど、リオンが何を掴んだのかはわからなかった。リオンの視線が指に落ち、そこにある指輪を認めてかすかに微笑んだ。
「彼の愛器に手を触れるなど、それだけでも無礼です。まして殺人者に等しいあなたが、彼の竪琴を持ってくるなんて、暴挙と言うより愚かです。愚かと言うより、死にたいのかと思うくらいです」
「私が――」
「殺したのでなくとも、同じことです。フェリクスにとっては。彼にとって王国の人間はすべて、彼を殺した人間です」
 悲鳴が上がった。暴走するフェリクスと、彼に近づくファネルを取り巻く人々の間から。
「まずいな……」
 リオンが険しい顔をした。近づくだけでファネルの剥き出しの頬が、首筋が、音を立てて切れていく。巻き上がる風に血の色が混じった。
「ファネル、手伝いが要るようでしたら――」
「いい。私がやる。なんとか――」
 なるだろう、あるいはできるだろう。言いかけたファネルが仰け反った。風に押されて体勢が崩れたところを、フェリクスの魔力に襲われた。魔法ではない、生の魔力の塊。半ば魔法的存在である神人の子らですら、耐え難いほどの圧倒的な力。
「育ちすぎだ!」
 いつの間にか切れてしまった口の中に溜まる血を吐き出して、ファネルは再度フェリクスに近づく。彼の目の焦点があっていない。顔色が、徐々に青白さを増している。定命の定めの子らには、耐え切れる魔力ではない。それをフェリクスは暴走させている。時間がない、リオンに言われるまでもなかった。
「フェリクス!」
 叫んでも、風に飛ばされ届かない。聞こえても、彼の心に届かない。
「前言撤回する。手伝え、シェリ!」
「ファネル! いけない、シェリには――」
「声を、届かせろ。それだけでいい。できるだろう、お前には」
 剣で顔を庇いつつ、ファネルの目はシェリを見ていた。リオンなど、眼中にない。色違いの目が、決意をこめてうなずいた。
「シェリ!」
 甲高い、竜の声。普段聞き慣れた彼に甘えるそれではなかった。攻撃的で、正に竜の咆哮。
「フェリクス! シェリが、お前の伴侶の魂の欠片が、見ているぞ。あれが見えないのか。お前を案じる彼の目が見えないのか。聞け、フェリクス!」
 シェリの叫びとともに、ファネルが声を荒らげた。フェリクスは止まらない。いっそう茫洋とした目をして、悲鳴を上げ続けた。
「無理、か――」
 皮肉な笑みを口許に刻み、ファネルは剣を立てた。シェリの声ならば、シェリの名ならば、彼に届くかと思ったものを。
「すまんな、フェリクス」
 痛い思いをさせる。小さく呟いてファネルは突進した。風に弾かれる。再度突っ込む。あと一歩。フェリクスの肩に手が届く。
 彼の、肩。シェリの居場所。思った途端、剣が鈍った。他人が彼の愛器に触れてはならないよう、彼の肩もまた。
「フェリクス!」
 届くはずがない、声を限りに叫んでも。それでも叫ばずにいられなかった。思い切り剣を振りかぶる。突き立てた。上がる、血飛沫。リオンの悲鳴じみた叫び声。
「ファネル!」
 自らの腹に剣を突き立て、ファネルはフェリクスの腕を掴んだ。
「……熱い」
「フェリクス!」
「血の、匂い」
 悲鳴が、止まっているのに気づいたのは誰が最初だったろうか。それでもいまだ渦巻き続ける風にフェリクスの声が聞こえたのはファネル一人だった。
「なに……。誰……」
「シェリが、見ている。心配している。止めろ、フェリクス。落ち着け。もう……大丈夫だ」
 何が大丈夫なのか、言っているファネルにもわからなかった。どくどくと流れ続ける大量の血に、さすがに目がくらんだ。
「……ファネル? なに。どうしたの。その、怪我。僕?」
「原因はお前だな」
 小さく笑ってファネルは体勢を崩した。咄嗟にフェリクスが抱きとめる。自分より大きな神人の子の体を支えかねて、よろめいた。
「剣……」
 柄に触れる瞬間、フェリクスの手が震えた気がした。それでも一気に引き抜く。思い切りのよさに、ファネルの喉が苦痛の声を漏らした。
「どうして。ファネル。なんで、あなた」
「勝手にやったことだ。お前に剣を向けるなど、冗談ではない。それだけは、したくない」
「だからって!」
 少しずつ、フェリクスが還ってきた。正気を取り戻す目の中、苦悩がある。ゆっくりと首を振れば、素直な黒髪が頬の辺りで揺れた。
「血の匂いでもすれば、正気に返るだろうかと思ってな」
「いっそう狂ったらどうするつもりだったの。あなた、死ぬよ。神人の子らでも、首飛ばされれば、死ぬんでしょ」
「そのときはそのときだな。あとの事はリオン任せだ」
「無責任な!」
 吐き捨てて、けれどフェリクスはファネルを抱きしめた。礼の言葉も詫びの言葉もない。肩先で、ぐったりとしたファネルが笑った。
「ちょっと。こんなとこで死なないでよ。後味悪いじゃない。リオン!」
 呼んでみて、いまだ風が収まっていないのをフェリクスは知った。何度か瞬いて、驚いたよう魔力を収束させる。
「仕方ないね、これじゃ」
 あとのことはあとのこと。こんな有様になってしまった魔力の塊を放置してはおけなかった。一言呟いて、腕を振りぬく。
「あ……」
 エヴァグリンの声が聞こえたけれど、無視をした。天に向かって立ち上がっていく風。局地的かつ被害をもたらさない竜巻の形にして魔力を解放した。途端にくらりと眩暈がする。
「フェリクス。ファネル。平気ですか」
「平気に見えるんだったら目医者に行け」
「減らず口が叩けるんだったら、命に別状はないです。よかったよかった。はい、いいですよ、あとはなんとかします、私。心ゆくまで気を失ってください」
「うるさいな……。いいよ、任せる。でも、これだけは……。ねぇ、来て」
 力なくシェリを呼び寄せ、一心不乱に飛んできた竜をファネルとともに抱きしめる。小声で詫びた。それから頼みごとをした。そしてフェリクスはくたりと気を失う。血の気を失ったフェリクスの腕からもがいて抜け出したシェリが何をしたものか。ファネルの出血は止まり、傷口は塞がりつつあった。




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