小さな声で竜が鳴いた。哀しげな、何かを訴えるような声。けれどエヴァグリンはその声に聞き覚えはない。当然だ。彼女が知っていたのは、人間のタイラント。竜の姿を知りはしない。
「この氷竜は、あの男の魂の、最後のひとかけら――」
 伸ばした腕に、竜が降りてくる。それを抱き取りフェリクスはエヴァグリンを見据えた。誰も口を開けない。黙って彼を見ているよりない。
「あなたは、知らない。もうかれこれ百年近くも前のことになるんだね……。知ってるのは、今となってはリオンだけかな。僕らが、出逢ったとき、あの男はドラゴンの姿に変えられていた。不思議だよ。元々風の属性を持っていた男なのに、あのときは氷竜だった。どうしてだろうね。今でも、とても不思議だ」
 一度フェリクスが目を閉じた。思い出を見ているのだろうか。懐かしい、愛しい過去を見ているのだろうか。たった一人きりでそこに立つフェリクスを彼らは呆然と眺めていた。
「僕はあのドラゴンを可愛がってたよ。よく笑って、よく歌って。いい加減で大雑把。言葉の定義もまともにできない嘘くさい吟遊詩人。――それが、あの男だ」
 抗議するよう竜が鳴く。その背を撫でて、けれどフェリクスは竜を見ていない。
「ごめんね。でも、本当のことだよね。あなた、そういう男だった。僕はそんなあなたでも……。こんなことは、他人の前で言うことじゃないね。あなたは知ってるわけだし」
 ようやく視線が竜に落ちる。色違いの目に涙を浮かべている竜に、フェリクスは少し驚いたようだった。
「ごめん」
 本気じゃないんだ。本気だけれど、でも。小さな声で言う彼に竜が首を振る。わかっている、そう言った気がした。
「あのドラゴンの姿を、僕が好んでいたのを、覚えてたんだろうね、この馬鹿は」
 竜を見つつ、フェリクスは呟く。声は、エヴァグリンにだけ聞かせているようでもあり、民のすべてに、そしてミルテシアの人間に聞かせているようでもあった。
「最期の瞬間。僕の目の前で、あいつは自分の魂を引き裂いた」
 押し潰した悲鳴は誰のものか。飲み込みきれなかった声が、響いた。エラルダは見ていられなくて目をそらす。すぐに、戻した。
「僕が一人にならないように。一人きりで泣いたりしないように。お笑い種だね。僕が泣くだなんて、冗談じゃない」
 言いながら、彼はじっと竜を抱いていた。だからエラルダは思う。タイラントの判断は、間違いではなかったのだと。正しくはなかったかもしれない。それでも間違いではない。
「あの男の魂は、引き裂かれた。砕け散って、消滅した。この世界から、消えてなくなった。だから、二度と世界の歌い手は、現れない」
「……今までの、世界の歌い手がすべて同一人物……いえ、同じ魂だと、あなたは言うのですか。フェリクス」
「違うかもね。でも、人間の魂は生まれ変わって、この世に現れる。言い伝えなんかじゃないよ。リオンが、見てる」
「はい。見てますね。エイシャの神官は、本質を見ますから。そしてエイシャの神官でこんなに長生きなのは私がはじめてですから」
「同じ魂を、見た、と?」
「えぇ。偶然覚えていた本質、あなたにわかるように言えば魂と言ってもいいですけど。根本の部分は変わらず、違う存在として違う体に宿っているのを見ました。ですから――」
「世界の歌い手は、現れない。あなた、あいつがただの吟遊詩人だと、思ってたの。あんな魂は、そうはない。どこまでも卑俗で、限りなく綺麗なものを持った、男だった。僕には本質だの魂だのはわからない。でも、あんな男はそうそういないのは、知ってる。この世界が生んだ世界の歌い手。その魂がごろごろあるはずがない。この世界は、その歌い手を失った」
 神人の子らが、顔を見合わせていた。彼らは小声で言葉を交わしている。世界を寿ぐ歓喜の歌。人間には、定命の子らには聞こえない歌。それを歌う魂の存在。
「そんなことは、僕にはどうでもいいことでは、あるんだけどね」
「フェリクス?」
「考えてごらん、エヴァグリン。人間は、生まれ変わって何度でもこの世に生を受ける。僕も、これでも一応は定命の身だからね。人間ではなくとも。またこの世に生まれることも、あるだろう。二度と、生まれてきたくなんかないけどね。そのとき、僕はあの男に再会はできない。何度生まれても、何度死んでも。僕はあの男を失ったままだ」
 小さく鳴く竜を、ぎゅっと抱きしめればかすかな温もりがした。氷竜のくせに、ぬるま湯でも熱いと言って喚くくせに、喚いたくせに、竜の体は温かかった。
「あの男の魂は、完膚なきまでに壊れた。二度と、あの魂は元には戻らないだろうね。僕の前で、あいつ自身がやったとしても、その原因は、誰にあるの。僕の前で、あいつが自分の魂を破壊しなきゃならなかったのは、誰のせいなの。答えなよ、エヴァグリン」
「それは――」
「なに。はっきり言いなよ。神官も保証してる。僕は、真実だけを語っている。さぁ、ラクルーサ第一王女エヴァグリン。あいつが死んだのは、誰のせいなの」
「父の、したことなのでしょうか。いいえ、私には信じられない!」
「信じるかどうかなんて、そっちの都合じゃない。僕には事実だ。あなたにとって事実かどうか、そんなこと知ったことじゃない」
「事実は常に一つでしょう!」
「だったら、考えれば。神官は僕が嘘をついていないことを知っている。僕はすべて語った。だったら、事実は一つじゃないの」
 追い詰めているつもりなどフェリクスにはないのだろう。淡々と語られる言葉が心に、否、魂に突き刺さっているなど、思ってもいないのだろう。彼には、他人を斟酌する気持ちなど、もうないのだろう。そうさせたのは、誰か。エヴァグリンは考える。彼の、言ったとおりに。
「父が……。ラクルーサ王が」
 顔を覆った彼女にフェリクスは何も言わなかった。彼にとっては自明のことを他人がなぜここまで受け入れることができないのか、訝しんですらいなかった。
「彼が……世界の歌い手が。どうしたら、償えますか。私に、何ができるのでしょう。父は王としての務めゆえに、そのようなことをしたのだと、思います。ならば私は」
「国王が暗殺者を使うような務め? 馬鹿な。僕ら星花宮の魔術師は、形の上ではラクルーサの臣下だった。不都合だったら王は僕らに死ね、と言える立場だった。なぜ言わなかった? 王は知っていたからだ。自分の望みが正しいものじゃない、受け入れられるものじゃないってことを。王は僕らが嫌いなだけだ。魔術師が、嫌いなだけだ。それで死ねって言ったって、誰が死ぬ? だから、暗殺者を放った。そんなことも、わからないの。それとも、わかりたくないの」
「わかりたくないんだと、思います。私の、父ですから。何をしようと、王は私の父なんです!」
「だから、何? それを言うならね、エヴァグリン姫。あなたがたにとっては世界の歌い手だったあの男は、僕のたった一人の伴侶だった。いやだね、こんなこと。あいつが生きてたときにはこんなこと、言ったことないのに」
 言えなかった後悔か。フェリクスの顔が歪む。それでも無表情よりずっと人間らしく見えた。
「……あなたの、大切な方が奪われた。それは、認めます。それをしたのが父だとも、認めます。ならば私の命を差し上げましょう。それで、あなたの――」
「それが第一王女の務めだとでも?」
「はい」
 きっぱりと言うエヴァグリンをリオンは惜しいと思う。彼女が王位にあったのならば、タイラントが死ぬことはなかっただろう。ラクルーサは、益々の発展をしただろう。
「器が違いますねぇ」
 呟いた声は誰にも聞きとがめられることなく、フェリクスと姫の間にだけ緊張感が高まっていく。
「あなたを殺してどうするの。気が晴れる? 馬鹿な。死を望むなら、ラクルーサ王の死を」
 嘲笑まがいの口調ながら、フェリクスの声音に熱意は欠片もなかった。じっと竜がエヴァグリンを見据える。
「父は――」
「あなたが王の首を持ってきても、無駄だからね、お姫様」
「なぜ、フェリクス! 私はそのようなことは、考えていません。でも……」
「わからない? あなたはここに来ることで、すでに王を裏切った。あなたが刃を向けても、王は驚かないだろう。……そうだね、せっかくだもの。王子は、いくつになったっけ、リオン」
「確か十歳くらいじゃなかったでしたっけ」
 フェリクスが何を望んでいるのかリオンはわかっていた。だからあっさりと答える。慌ててフェリクスの意図を誤解したエラルダが袖を引いた。強く袖を握るエラルダに微笑みを向け、リオンは無言で首を振る。
「そう、ちょうどいい。王は遅くにできた王子を、可愛がってたね。あの王子に父王の首を取ってこさせたら、考えてもいい」
 いっそにこやかな笑みとともに語られたならば、こんなに寂しい気持ちにはならなかっただろう。エラルダはいたたまれない目で彼を見る。
「そんな、むごすぎます!」
「できない? なら――」
 エヴァグリンの喉元を掴んで引き寄せた。気圧されたよう、若い王女は抗わなかった。
「あの男を、返せ」
 息を飲む静かさ。フェリクスの声だけが、後に響いて消えていった。
「王の首か、あの男か。僕の望みはそれだけだ」
「そんな。無理なことばかりあなたは言う。私にはできないことばかり」
「ならば黙って見ているがいい。ラクルーサの、人間の王国の崩壊を見ているがいい。あの男を失った僕にとって、世界は無意味だ」
 言葉が叩きつけられたなら、どれほど気が休まることだろう。激しく罵られる安易というものをはじめてエヴァグリンは理解した。
「……せめて、これを。フェリクス」
 憔悴した顔色も露に従者代わりの神官を振り返り、大振りの荷物を受け取った。無造作に受け取り中身を取り出す。荷物が、地に落ちた。
「な――」
 フェリクスが、無表情のまま悲鳴を上げた。目を見開いたまま、どこでもない場所を見つめ、腕の中の竜の存在さえ忘れ果て。
「ファネル! 彼を止めてください!」
 血相を変えたリオンの眼前で、フェリクスが空を振り仰いだ。不意に、風が渦を巻く。気温が下がった。舞い上がる土埃。フェリクスを中心にした魔力の暴走。大地の上、世界の歌い手の愛器、タイラントの竪琴が落ちていた。




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