疾走するフェリクスの肩に止まり続けられなかったシェリが一声鳴いて飛び立つ。一瞬だけ、詫びるよう竜を見た。けれど彼は止まらない。
「フェリクス。お待ちなさい!」
 リオンの声など、聞こえない。フェリクスは彼を待つふりすらせずに走り続けた。驚いたよう、人々がフェリクスを振り返る。何事か、と尋ねた声も聞こえた。一瞥もせず、走り抜けた。
「待てと言ってるでしょうに!」
 珍しいリオンの罵声。かすかにフェリクスの唇の端が吊り上る。笑ったのではなかった。自嘲でもなかった。何か、と問われても彼にはわからない。一刻も早く、広場に向かうことしか考えていなかった。
「フェリクス!」
 広場に入る寸前、リオンが追いついてきた。背後から掴まれた腕を無言で振り払う。
「フェリクス。ちょっとでいいから、待ってください」
 あのリオンが呼吸を乱していた。そのことに驚いてフェリクスは止まる気などなかったにもかかわらず、足を止めていた。
「何を、するつもりです」
 それほど凄まじい勢いで自分は走ったのか、と今更ながら思う。神官であり、戦士でもあるリオンが息を乱すほど。武器を取っての立合いでは、まず勝てたことのないリオンが。
「……何って」
「広場にいって、彼女にあって、何をするつもりですか、と聞いているんです」
「別に、何もしない」
「だったら、なんでこんな勢いで走るんですか、あなたって人は。まったく」
「……何しにきたのか、聞きたくないの」
「それは聞きたいですよ。ですから一緒に行きましょう。ほら、エラルダも追いついてきた」
 リオンが首だけを振り向けた先に、顔色を変えたエラルダがいる。フェリクスは唇を引き締めて、動揺した自分を恥じた。
「あなた、言ったでしょう? 優雅に猛々しくお迎えするって。招待した覚えはないですが、お客様に違いはない。ですから――」
「わかった。うるさい。ごちゃごちゃ言わないで。おいで」
 淡々と、いつも以上に熱のない口調。差し伸べた腕に、心配そうなシェリが降りてくる。するりと肩に納まって、彼の首に尻尾を巻いた。
「行くよ」
 ちらりとエラルダに視線を向け、同行を許す。うなずいて彼はリオンの隣に並んだ。
 広場は、戸惑いに満ちていた。確かに迷いの森は解かれている。だから事実上、招かれていない者がアリルカに入ってくることは、可能だ。が、そのような者がいるとは誰も考えていなかった。
「なにをしにきた」
 混乱の中、静かなフェリクスの声が響く。さして大きな声でなかったにもかかわらず、それは遠くまで聞こえた。
「フェリクス――」
 声が、答えた。混乱の源。招かれていない客。
「なにをしにきた。ラクルーサ第一王女、エヴァグリン」
 冷たい声に、エヴァグリンと呼ばれた女がわずかに怯む。年のころは十五、六。王家の姫、それも第一王女となれば充分に政治にかかわる年齢だ。
 まして、とリオンはフェリクスの背中を見つめつつ思う。ラクルーサ王は子供に恵まれていない。王妃との間に生まれたのはエヴァグリン一人だけ。側室に男児がいるが、いまだ十歳になるかならないか。このまま行けば次代は女王を戴くことになるだろう。
「あなたが、父に、ラクルーサに反逆した、と聞きました。なぜですか。なぜそのようなことを。父はあなたがた魔術師を重んじていたはずです。なぜ……」
 きゅっと唇を閉じたエヴァグリンに、フェリクスは笑い出したくなった。笑いたい、嘲ってやりたい。それなのに、凝り固まった感情はぴくりとも動かなかった。
「重んじていた? どこが? 彼は、我々を排除したくてたまらなかった。人間の王国に、魔法は要らないと考えていた。自分の意のままにならない力があってはならないと考えていた。……実に、愚かだ」
「だから、反逆したのですか。そんなことは許されないことです」
「それを質しにきた、と言うところかな、エヴァグリン姫」
 無表情のまま、フェリクスは嘲弄した。彼が公式の場以外で姫、と呼んだことはかつてない。エヴァグリンはその意図がわからないほど愚かな娘ではなかった。
「王の名代として――」
「そんなはずはないね、お姫様。我々アリルカは、ラクルーサ王より正式の拒絶を受け取っている」
「ですから、非公式に」
「それもない。非公式なら非公式なりに、この時期を選ぶはずはない。それに第一王女の御付がその神官一人って言うのも解せないね。ここに来たのは、あなたの独断だ。なぜだ。何をしにきた」
 エヴァグリンの背後に控えていた従者が顔色を変えた。神官服を着てはいない。それでも彼には一目で正体を見抜かれた。
「私は……」
「殿下。このような場所では。どなたか、ぜひとも席を作っていただきたい」
「必要ない。我々はエヴァグリンを招いてはいない。闖入者だ。それに……彼女の意図を民は聞きたがっている」
 フェリクスが視線を巡らせる。広場には、民が遠巻きに佇んでいた。そしてちらほらと、その陰に隠れるようにしてミルテシアやイーサウの代表たちが。
「好都合ですねぇ」
 小さくリオンが言ってフェリクスを見る。聞こえた、とばかりフェリクスは彼を睨んだ。それにリオンはにこりと笑う。
「あなたが、と言いますけれどね。エヴァグリン姫。反逆した、と言われているのはフェリクス一人ですか?」
「えぇ。そうです。リオンは彼を追っていっただけだ、と聞いていますが」
「なるほど。政治判断と言うやつですねぇ。私を敵にまわしたとなればエイシャ神殿が黙ってはいないでしょうし」
「では……!」
「フェリクスが反逆したのならば私も同じこと。もっとも、その種はラクルーサ王が蒔いたものですが」
「……リオン。頼みがある。そちらの神官も」
「あぁ、誠実の呪文ですか? 私はいいですよ。そちらは?」
「……かまわないが」
 なぜだ、と問うような目をした神官に向けてリオンはにこやかに言った。
「大変信じにくい事実というものが明らかになると思うんですよ、エヴァグリン姫にとっては。ですから、我々の神の名の元、決して虚偽が口にされることはない、つまりすべてが真実だ、と言う証明を最初にしておきたいと言うことです」
「私は、何も恐れません」
「そうですか。それは幸いです。では?」
 まるで信じていないくせにリオンはそのようなことを実に信頼あふれる口調で言う。半ば呆れた顔をしてエラルダは彼を見やった。
「最愛の我が女神、青春のエイシャの御名にかけて誓う」
「猛き戦神マルサドの御名にかけて誓う」
 互いが、武器を取った。それを見つつフェリクスはやはりマルサドの神官だったか、と思っている。ラクルーサで王家の近くにいるならば、当然のことだった。
 どこからともなく取り出された武器に、一瞬だけマルサドの神官は動揺を見せたもののすぐさま表情を引き締める。目と目が見かわされた。
「我ら両名、神々の御名にかけて欺瞞なきことを誓う」
 ハルバードと剣を逆手に持って打ち合わせる神官たちに、気を飲まれたよう民が目を丸くする。涼しい金属の音がしただけで、なにも起こらなかった。
「結構ですよ、もうこれで虚偽は口にできません」
「何も、起こらなかったようですが」
「魔法と言うものがすべて派手だというのは大きな勘違いと思い込み、愚か者の思考です」
 もしかしたらリオンは怒っているのかもしれない、と今更エラルダは気づく。普段と変わらない温顔のせいで気づくのが遅れた。あまりにも辛辣すぎる口調に、背筋が冷える。
「あの男は、殺された」
 ぽつり、とフェリクスが言った。何かをリオンに言い返そうとしていたエヴァグリンが息を飲む。
「あの男と言うのは、タイ――」
「名前を聞きたくない。僕にとっては、あの男はあの男だ。名前を言わなきゃ話ができないって言うなら、せめて世界の歌い手と言ってもらおうか」
「……世界の、歌い手が、亡くなったのは、知っています。けれど、殺されたですって。誰にですか。そんなことは父が許しません。あなたは殺人者を知っているのですか、フェリクス。知っているなら!」
「知っているよ、もちろん」
「ならば――!」
「あなたの父だ、エヴァグリン姫。ラクルーサ王が放った暗殺者によって、あの男は殺された。卑劣極まりない。仮にも一国の王が、暗殺者を使うか。それほどまでに僕ら魔術師を消したかったのか。放逐すればよかった。それも怖かった。僕らの力が他に渡ることを王は恐れた。自分が認めていない魔法の力を、他人が手にすることを恐れた。結果、僕らを殺そうとした。最初に殺されるのは、僕のはずだった。……あの男がいなければ、そうなっていた。あの馬鹿は――僕を庇って死んだ」
「嘘です、そんなこと」
「神官に聞けば? 僕が嘘をついているかどうか、彼にはわかる」
「……真実を語っています、殿下」
「そんな……」
 苦渋に満ちた神官の声に、エヴァグリンが言葉を失う。無言で首を振ることしかできなかった。
「彼は、殺されたのですか」
「そう言っている。世界の歌い手は、ラクルーサ王に殺された」
 姫の目が神官を見据える。神官は黙ってうなずいた。真実に違いはない。何度繰り返そうとも間違いではないと。
「王の罪は重いよ。この世界から、世界の歌い手を奪った。世界の美醜をともにあるがままに歌い寿ぐ者。二度とアルハイド大陸に世界の歌い手は現れない」
「それは。そんなことは。いえ……」
「なぜそんなことが言えるか、不思議に思っているね、お姫様。僕は知っているだけだ。二度と世界の歌い手が現れないことを。その魂が消えたことを」
 悲しい声がした。エヴァグリンは目を瞬いてその声の聞こえた場所を探る。フェリクスの、肩に小さな獣が乗っていた。
「ようやくこれに目が留まったね。これは、あの男の魂の欠片。世界の歌い手の、魂の破片。最後の一つだ」
 フェリクスの肩から見つめてくる真珠色の生き物、小さな竜か火蜥蜴か。エヴァグリンは眼差しを交わして気づく。確かに見覚えがあった。その、色違いの目には。




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