飛び去ったシェリの後姿を見つめるフェリクスに、誰もが何を言うこともできずにいた。打ち沈んだものを振り払うよう、リオンが声を上げる。
「それで、フェリクス? シェリに何を頼んだんです?」
 果敢だ、と言ってよかっただろう。弟子たちの眼差しが深い尊敬を浮かべる。エラルダは黙ってそれを見つめつつフェリクスの傷に思いを馳せていた。
「なに。あなた、馬鹿なの。それでも馬鹿のふりをしてるの。鬱陶しいよ。わからないはずがないでしょ。それでもカロルの弟子なの。いい加減にしなよ」
 畳み掛け、フェリクスがようやく振り返る。その目に浮かんだものは、あるいは感謝だったのだろうか、エラルダにはわからない。
「見当はつきますけどね。見当がつくだけで、シェリがどうやってるのか理論のほうがさっぱりで」
「同感。それは僕にもわからないよ」
「フェリクス師、リオン師。あの――」
「馬鹿ですか」
「愚か者」
 二人声を揃えてやっとのことで質問を発した弟子を罵る。エラルダはそっと笑ったけれど、弟子たちは皆同じよう情けない顔をしている。
「あいつに、なにやらせるか本気でわからないの。わかんないんだったら……あぁほんと、こういうときにメロール師が言ってた言葉が実感できるね」
「メロール師? なに言ってたんです?」
「言ってたじゃない。馬鹿の相手してると最後の旅に出たくなるって」
「……そうは言いませんでしたよ」
「内容は一緒でしょ」
 ばっさりと切り捨てたフェリクスにリオンが先ほどの弟子たちのよう、情けない表情を浮かべたところを見ればどうやらそれはメロール・カロリナを評した言葉であるのだろう、とエラルダは気づく。心の中でだけ、笑った。
 フェリクスにとって星花宮とはどのような場所だったのだろう。かつては、幸福の場所だったのかもしれない、そうエラルダは思う。師がいて、弟子を導き。そして今となってはそこは、彼の伴侶が惨殺された場所。
「それで。ほんとにわかんないの」
 じろり、とフェリクスが弟子を見回す。ふ、とエラルダは気づく。彼が苛立っている理由。殺気だった様。
 シェリがその肩にいない。知らず呟きそうになったエラルダは、殺気を感じた。咄嗟にフェリクスを見やる。彼はこちらを見てはいなかった。
「どうしました、エラルダ?」
 にこやかな笑みのまま、リオンは言う。その目を覗いてエラルダは唇を引き締めて首を振る。彼の目にはいまだ殺気があった。
「なんでもないです。魔法のことを、……考えていて」
「そうですか。何かあったら言っていいですよ。あなたもいまでは我々の弟子と言ってもまぁ、差し支えないと思いますし」
 にこにことしながらそのようなことを言ってのけるリオンと言う人間が、急に恐ろしいものに思えた。そしてエラルダはもう一度唇を引き締める。悪いのは、自分のほうだった、と。不用意に、フェリクスを傷つける者をリオンは許さないだろう。彼自身の意思ではなく、おそらく彼の伴侶であったメロール・カロリナの意思として。
「フェリクス師。思うに、風の魔法では」
「……あのね、そんなことは考えるまでもなくわかってるでしょ。他には」
「現状を考えるに、物音を聞きつけるような魔法を?」
「はっきり言って盗聴だね」
 弟子の言葉にフェリクスがうなずく。それを見やってエラルダが首をかしげた。
「なに、エラルダ」
「いえ、その。盗聴とは」
「いまここにミルテシアの代表がいる。イーサウはまぁ……一応は同盟相手だからね、おいといてもいいんだけど。イーサウが一枚岩である保証はないし。こっちもかな。とりあえずここには情報源になり得る人たちがいくらでもいる」
「本人たちが知らない間に、ですけどね」
「知らせる必要はないでしょ」
「それは、倫理的に問題がありませんか?」
 どうやら彼らは代表たちの密話をこっそりと聞いてしまおう、と言う心積もりらしい。
「ないとは言わない。とは言え、アリルカは絶対数で勝てないからね」
「それに、エラルダ。こういう言い方はなんですが、どの国もやってることです。彼らは密偵を使い、我々は魔法を使う。それだけの差ですね」
「人間の国がやっているからと言って……」
「納得できない?」
「しにくいことではあります」
「気持ちはね、わからないでもない。僕だって彼らの真似なんかしたくはない。ただ、戦争には負けられない。絶対に。そのためにはなにが必要か」
「情報、ですね」
「そう。だから、やってる」
 フェリクスの言葉がエラルダに染みこむまで、わずかに時が必要だった。そしてエラルダはうなずく。
「あなたは……優しいかただ」
 やりたくないことならば、他人にはさせない。自分たちが被ろう。フェリクスはそう明言したに等しかった。
「なにを……馬鹿な。あなた、頭のほうは、平気?」
 うろたえたフェリクスがそれ以上言う間もなかった。ちょうどシェリが戻ってきた。一直線に宙を駆ける真珠色の竜はまるで光の軌跡。
「お帰り。首尾は。そう。巧くいったんだ。さすがだね」
 会話にならない会話を終えてフェリクスは湖のほとりに腰を下ろした。
「フェリクス。今更ですが、お願いがあります」
「なに。さっさと言って」
「声だけじゃ、判別しがたいです」
「面倒くさいなぁ、もう。仕方ない」
 むつりとしてフェリクスは口の中で何事かを言う。そして湖に手を差し伸べた。
 と――。その水面がほんのわずかの間だけ、光った気がした。気のせいかと思うほどの短い間の末、湖には何かがあった。
「はい、こんなもんでどう?」
「連動してます?」
「してなかったら役に立たないじゃない」
 なんでもないことのよう言うフェリクスに弟子たちが溜息をついたから、きっとそれは高度な魔法のなのだ、とエラルダは見当をつけた。なにが起こっているか、本質的に半ばは魔法的存在であるはずの神人の子たるエラルダにも、さっぱりわからない。
「これは学習して覚える魔法だからね。あなたがただって、鍵語言葉魔法は使えないでしょ、習わなきゃ」
 エラルダの感情を察してフェリクスが言った。不思議なものだった。彼は感情をなくしてしまったよう振舞うくせ、他人の心のうちを察することはできる。
「あぁ、映りましたね」
 リオンがさりげない調子で湖へと注意を促した。
見ればそこには先ほどのミルテシアの使節、確か大臣だと言っていた人物が映っている。
「凄い……」
「鮮明だ」
 弟子たちが口々に言って覗き込むのを邪魔そうにリオンがかき分け、自分が覗く。それからうなずいた。
「よろしく、シェリ」
 甘えた竜の声は、返事だったのだろう。突然に、声が聞こえだした。慌てたのはエラルダ一人で、後は全員が湖に注目している。
「あぁ……」
 連動しているか、と言うのはそういう意味だったのか、とエラルダはやっとのことで飲み込んだ。シェリがかけた音を伝える魔法、そしてフェリクスがかけた姿を映す水鏡の呪文。それらが連なって発動し、どんな密偵にも探ることが不可能な情報源となる。
 ――あれは、喪章だったのかね。氷帝が腕に何かを巻いていたように思うが。
 ――閣下。喪章でしたら、黒紐がともに巻かれるものでは。
 ――だからこそ、何かの意図を感じるというものだ。
 ――それは、例の……?
 ――ラクルーサ王自らが、暗殺者を放ったというのは、どうやら噂ではないらしいな。
 ――閣下。お慎みを。
「うん。話題の的ですね、フェリクス」
「意図してはいなかったけど、予想のうちだね」
「心ゆくまで疑って欲しいものです。彼らにひびが入ればこっちのものだ」
「そんなにうまくいく?」
「行かなくって元々と思っていればいいんです。策略って物は数撃てばいいんですよ。どれかが当たればめっけもの、です」
 弟子が、肩を落とした。げんなりとしているのはこれが普段のリオンだからか、それとも呆気にとられているだけか。エラルダに区別はつかなかったけれど、彼がただの優しげな神官でないことだけは、身に染みてよくわかった。
 フェリクスは肩をすくめるだけでそれについては何も言わず、シェリをちらりと見やっては水鏡を動かしていく。水鏡に映るものが様々に姿を変えた。
「イーサウは、いまのところ信用できる同盟相手ですね」
 一通りイーサウの代表たちを見た後リオンがばつの悪い顔で言ったのは、彼もまたどことなく決まりの悪い思いをしているせいか。
「イーサウはいいんですが。ミルテシアの貴族、名前はわからないですけど、あなたと私がラクルーサの反逆者だって言ってたの、いたでしょう?」
「あぁ、いたね。もう一度見る?」
「いいです。覚えてますから。あの人、たぶんラクルーサの密偵です」
 断言するリオンに弟子たちだけでなくフェリクスまでもが訝しげな顔をした。
「言葉の内容もそうでしたけど、ラクルーサと繋がってる節がありすぎです。こんな形で覗き見られてるとは思ってないでしょうけど、油断でしたね」
 そう言ってリオンは唇の端を吊り上げて笑った。精悍で、やはり神官だとは思いにくい。
「大収穫ですよ、フェリクス」
「そう?」
「つまりね、私が言いたいのは、アリルカの状態はラクルーサにも筒抜けってことです。大当たりでしたねぇ」
「それは……!」
「エラルダ、忘れないで。僕たちは見せたいんだ。現状、僕らががどういう状況にあるのか、ラクルーサには特によく知って欲しい。幸いだったね。でかした、リオン」
「お手柄だったのは、シェリですよ。ね?」
 フェリクスの腕の中に抱えられた竜が、気恥ずかしそうに身をよじる。滅多に見ることのできない照れた竜の身悶えに弟子たちが小さく笑った。
 そのときだった。映したまま放置されていた水鏡に、何かが映る。人影だ。エラルダが察知したときには、リオンとフェリクスが立ち上がっている。ともに、立ち上がったのではなかった。リオンが駆け出そうとするフェリクスを止めようとして、かなわなかった。




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