フェリクスが鬱々としていたのは実に一日足らずのことだった。翌日の昼には広場に姿を見せ魔法の訓練を施し、仲間たちと働いた。
 当然のよう、その肩にはシェリがいる。昨日は真っ赤に泣き腫らしていた目も今日はいつもの色に戻っている。リオンの姿を見かけてはばつが悪そうにフェリクスの肩に顔を埋めた。
「おや、おはよう。シェリ。ご機嫌はいかが?」
 にこりと笑ってリオンが言う。それをちらりと見やってフェリクスが不機嫌そうに唇を引き結んだ。ほっとリオンは息をつく。どうやら機嫌は戻ったらしい、と。
「おはよう? どこが早いの。とっくに昼すぎてるじゃない。あなた、こんな時間まで寝てるの」
「いえいえ。今日は日の出とともに起きましたよ、もちろん。いやぁ、こんな健全な生活もあるんですねぇ」
 星花宮の生活が怠惰だったとは言わないが、いかんせん魔術師たちの住処だ。研究に熱中すると時間の感覚を忘れる人々ばかりなのでアリルカのよう日の出とともに起き出すなどと言うことはほとんどなかった。
「これが普通の生活ってやつだと思うけどね」
 フェリクスの言うことはもっともだった。だがリオンにはそれがおかしい。彼は決して土とともに生きてきた民ではない。それなのに当たり前面するのがおかしくてならなかった。
「……僕は基本的に早起きだったよ」
「カロルが寝ててもですか?」
「そうだよ。そうじゃなきゃ、勝てないじゃない。あの人のほうが強いんだから、僕は一生懸命練習しなきゃ、勝てないじゃない」
 修行時代のことを懐かしく思っているのだろうか。そうだとしてもフェリクスは態度には表さなかった。リオンも勝てたのか、とは聞かない。事実を知っていた。
「ま、それはそれでいいですけどね。このあとは何を?」
「午後の訓練は終わったから――あとは希望者に特訓」
 リオンは肩をすくめた。フェリクスが特訓と言うからにはとんでもない訓練が待ち構えていることだろう。
「反対する?」
「しませんよ。意欲があるのはいいことだ。ただし」
「なに」
「壊しちゃだめですよ、フェリクス」
「誰がそんなことするの。人手が足らないんだから、無茶はしないよ」
 足りてればいいのかと思いはするが、リオンは口を慎んだ。少なくともフェリクスが軽口を叩く程度には回復している。それを喜ぶ気持ちのほうが強かった。肩の上を覗き込めば、いたたまれないシェリが目をそらす。
「苛めないでよ。これを苛めていいのは、僕だけだから」
 そんなことを言ってフェリクスは体を引いた。ふっとリオンの口許がほころぶ。言葉とは裏腹なフェリクスの優しさ。シェリが気づかないはすがない。案の定顔を上げた銀の竜が甘えて鳴いた。と、その視線が動く。
「ふうん」
 リオンのことなど忘れた顔をしてフェリクスが歩き出す。つられてついていったリオンは視線で彼が目指す人を居竦ませた。決して逃げるな、と。
「お節介」
 呟いたのはリオンに対してだろう。が、フェリクスは怒りはしなかった。自分が黙ってそばに行けば相手が逃げるだろうと予測していたのだろう。
 フェリクスとリオンに見据えられて、イメルは逃げられなかった。イメルから少し離れた場所にいるミスティもまた。
 フェリクスが黙ってそばに行く。無言で肩を叩いた。シェリが片目をつぶって見せる。そしてミスティにも彼らは同じことをした。
「ほらね、言ったでしょ?」
 二人に向かってリオンが晴れやかに言った。一時の激情に駆られただけだと。フェリクスは詫びの言葉こそ言わなかったけれど、事実上、二人の弟子に詫びて見せたも同然だった。
 そのまま歩き去っていくフェリクスを、リオンは追わなかった。その必要はない、とわかっていた。ためらいがちなイメルとミスティが、戸惑いながら視線で説明を求めてくる。察しの悪い弟子たちにリオンは小さく溜息をついた。
 一方、去っていったフェリクスは意外なものを見つけていた。アリルカの民が働いているのはわかっている。当然だ。が、不思議なことにそうではない者が混じっている。
「炎の隼?」
 同じよう、不思議そうな目で人間たちを見やるシェリに聞かせるようなフェリクスの言葉だった。それに竜は首をかしげ、そして肩の上で器用に体を伸ばす。
「あなたに危害は加えさせないよ」
 ぽつりと言った声が、聞こえたのだろうか。腹を立てたに違いない視線がこちらに向く。一瞬にしてシェリが体を強張らせた。
「なんだと、あん?」
 のしのしと、容貌魁偉な男が歩いてくる。武器を手にしてはいなかったけれど、腰には剣がある。よもや抜きはしまいが、抜いたとしてもフェリクスはかまわなかった。それほど愚かならば、戦力にならない。放逐するだけのことだった。
「俺たち隼は、異種族がなんだってのにゃ動じねぇ。それを確約してアリルカに来てる」
「だから?」
 挑発的な態度を取るフェリクスをなだめるようシェリが鳴く。煩わしそうに肩をすくめた。それをどう解釈したのか炎の隼のデイジーは目を細めた。
「火蜥蜴か? どうにもそうは見えねぇけどな。別にそんなこたぁどうでもいいんだよ。俺たちは玄人だ。隼は契約を守る。守らないかも知れねぇって疑われるだけで侮辱だ」
「あなたの心のうちなんか知ったことじゃないね。僕にはこれを守る義務がある。それ以上に権利がある。昨日、あなたがたはこれが飛んでくるのを見たはずだ」
 それに危険を感じなかったのか、フェリクスはそう問う。感じなかったのならば、傭兵としては失格だ、とも。
「危ねぇとは思ったさ。だがな、あんた。氷帝さんよ、そのシェリとかって火蜥蜴の変種だかなんだかが、俺たちにとって危ないもんじゃねぇことも、理解してる。こっちが危害を加えられるってわけでもねぇのに剣振り回して退治するってか? 王国の人間と一緒にしてほしかないね」
 フェリクスの鼻先に指を突きつけんばかりにしてデイジーはまくし立てた。そのあまりの剣幕にさすがのフェリクスが一瞬呆気に取られるほど。
「わかったから、それやめてくれない?」
 逆手で突きつけられた指先を払えばデイジーが鼻息を荒くする。もっとも、これはフェリクスには逆効果だった。
「……不本意だけど。リオンはいい目をしてるよ」
 隼を雇ったことは間違いではないとフェリクスは言う。その指揮官を遠まわしに褒める。得がたい人材を得た、と。
「けっ。気色悪いな、あんたにそんなこと言われると」
 鼻で笑ったデイジーだから、フェリクスは通じたことを知る。無表情のまま軽く肩をすくめた。デイジーが、おそらくはリオンに竜の正体すら聞かされているはずなのに知らないふりをして見せたことも、自分の部下たちのために憤慨して見せたのも自明だった。そして口にした限りは守ることも、同じくらい明らかだった。
「それで。何してるの」
 隼は、傭兵だ。昨日のうちに話がついたのだろう、現在はアリルカの国を守る迷いの森の外側、南側の草原地帯に野営をしていると聞いた。そちらの境を責任もって守るとのことで南側の迷い道を開放したのだろう。だからと言って、なぜここにいるかがわからない。まして働いているなど。
「見てわかんねぇか。働いてんだよ、せっせとな」
「それくらいは見ればわかるの。だから、どうして働いてるのかを聞いてるの。あなたの頭の中につまってるのは何、ちゃんと脳みそ入ってるの。質問の意図くらい察しなよ、頭悪いな」
「なんだと!」
 拳を振り上げたデイジーに向かってシェリが飛び立ち、けれどフェリクスのほうを向いて鳴きたてる。まるで君が悪いと責めてでもいるようだった。
「いいから。気にしないの。デイジーはこんなことくらいで怒ったりしないよ。たぶんね」
「怒りゃしねぇよ。癇に障るがな。それと」
「なに」
「デイズアイ、だ。いい加減に覚えやがれ」
「わかったよ、デイジー」
「てめぇ……」
 怒りを押し殺して拳を握るデイジーを、シェリが笑った。竜の笑い声がわかるはずもないのにデイジーは少しばかり意外そうに目を細める。
「ねぇ。デイジー。あなた、その図体でもしかしてちっちゃな獣が好きとか言わないよね」
「言ったら悪いか!」
「悪いよ。気色悪い」
「なんだと、てめぇ!」
 今にも殴りかかろうとするデイジーを、ようやくのことで正気づいた部下たちが止める。自分たちの指揮官がこんな細い体の魔術師に拳を振るうとは思ってはいないが、万が一と言うこともある。
「隊長、よしなさいって」
「あんたに殴られたら折れちまうよ!」
 口々に言う部下に諌められたから致し方なく、そうとでも言いそうな顔をしてデイジーは拳をおろした。
「ふうん。意外と人望もあるんだね」
 やっとのことで鎮火させたはずが、また油をまかれた。部下たちがフェリクスに冷たい目を向ける。
「人望がなかったら隊長なんか任せるかよ」
「もっともだね。よかったね、デイジー。可愛い名前なのに人望があって」
「それは関係ねぇだろうが! ちょっとこい、こら。いっぺん締めんぞ」
「やれるもんならやってみたら。いい気晴らしになるかもしれないし」
「てめぇなぁ……」
 言うまでもなかった。フェリクスが自分の気晴らしになる、と言っていた。デイジーには負けないと彼は言う。
「だって、頭悪いじゃない? あなた、僕の質問に答えてないもの。そんなすぐ忘れる頭でどうやって戦えるのか不思議だよ」
「働いちゃ、悪いか、あん?」
 かっかとするデイジーだが、意外なことにこの状況を楽しんでいた。この淡々とした口の悪い魔術師との会話が、思ったより面白い。
「悪いとは言ってない。なんでって聞いてるの。戦うのが商売でしょ」
「おうよ。だからこそ暇でよ」
「あぁ……なるほどね。力が有り余ってるから貸してやろうってこと。そっちの気晴らしにもなるしこっちの利益にもなる。ありがたいね」
 どこまで本当だかわからない口調だった。フェリクスは首をかしげてシェリに頬ずりをする。だからシェリにはわかったのかもしれない。少しだけ不安そうな顔をした。




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