腕の中、大粒の涙を零している銀の竜。見下ろしても詫びる言葉がなかった。あれほど嫌がっていたのに、置いていったのは、自分。 「……また、だね」 あのころのことを思い出す。良かれと思ってした事がいったいどれほどタイラントを傷つけたことか。正気を失うほど苦しめてしまった過去を思えばぞっとする。 「……ねぇ」 再び同じことを繰り返すのか。あのときのよう、この手に取り戻せるとは限らない。今のシェリが正気を失くせば、どのようなことが起こるのか。 ぎゅっと竜を抱きしめてフェリクスは淡々と足だけを進めていた。止まってしまったら、動けなくなる。それを知っているかのように。 「ごめん」 許してもらえるとは思っていない。どれだけ彼を苦しめれば自分は学ぶのだろう。もしもタイラントが生きていれば、きっとこう言うだろう。自分も同じだと。 「――あなたが、いない」 ここにいる。それでもいない。腕の中、温かいものが身じろいだ。はっとして腕を緩める。 「苦しかったよね。ごめんね」 抑揚の失せた声だった。シェリは驚いて彼を見上げ、そして目を瞬く。それからゆっくりと甘えた鳴き声を上げた。 「……何?」 戸惑うような、安堵するような彼の声。自分はここにいる、そう知らせるようシェリは何度も鳴いた。 「ちゃんといるってこと? 正気だよって、言ってるの? ……言ってるんだね、きっと。わかってる。聞こえる。――平気」 つらそうな顔など少しもしないくせ、シェリには伝わる。間違いなく、伝わってしまうとフェリクスは思う。わかって欲しいのかもしれない。 「聞こえない声が、聞こえるって、変だよね」 笑えるものならば、フェリクスは笑ったのかもしれない。シェリはいたたまれなくなって視線を外す。それでもすぐにまた彼を見上げた。 「そう言うの、普通は幻聴って言うんだけどね」 正気を失っているのはどちらなのだろう。聞こえるはずもない、音にならないタイラントの声が聞こえる。 彼の声を待ち望み、同じほど二度と聞きたくない。失ってしまった事実だけが痛いほど胸を焼く。だからこそフェリクスはシェリを放せなかった。 「あなたがいる限り、僕が聞いている声が幻聴だとは思わない。あなたの、声にならない声だと、信じてる。違うかな。信じてるんじゃないよね。僕は、知ってるだけだ。あなたの声だって、わかってるだけだ」 フェリクスは訥々と語っていた。相手はシェリだったのかもしれない。それとも死んでしまったタイラントだったのかもしれない。あるいは、双方を同じ魂として、語っていたのかもしれない。 「……ごめんね、一人ぼっちにして。でもね」 気が狂うほど、シェリは自分と離れているのを嫌がった。それに胸が温まるものを覚えた。最低だ、と思う。こんなにも大事なシェリを苦しめて、それが喜びにつながるなど。それでも、真実の思いだった。 「……僕も、寂しかった」 小さく呟くようフェリクスは言い、それから一度きつくシェリを抱きしめた。腕の中、甘えきった竜の声。 「こっち」 そっと真珠色の竜に頬ずりをして、フェリクスは竜を肩へと移した。投げ上げられるほど、平静に戻ってはいなかった。彼の態度にそれを悟ったのだろう、シェリもまた肩の上でじっとしてはいずに擦り寄ってくる。 「じっとしてないと落とすよ」 戯れめいた言葉。フェリクスがシェリを落とすはずがない。かつても、いまも。静かで安定した足運びでフェリクスは黙って歩いた。もう言葉は要らなかった。 自分の小屋の前まで来てもフェリクスはシェリに下りろとは言わなかった。リオンが見れば笑うだろう。肩に竜を乗せたままの不自由な姿勢でフェリクスは縄梯子を上る。 「離したくないものね」 答えるようシェリが鳴いては首に尻尾を絡ませる。離れたくなんかない、そう言うように。片手でするりとその背を撫でてフェリクスは縄梯子を上りきった。その体に警戒がある、とすでにシェリは悟っていた。 「それで。あなた、なんでここにいるの」 無人のはずの自分の小屋。留守の間ここにシェリが一人でいるのかと思えば気が気ではなかったフェリクスだった。 それでも他人がいるとは思ってもいなかったし、実際不快だった。なだめるよう鳴くシェリの背を軽く叩く。 「エラルダに、頼まれたんだが」 聞いていないのか、とでも言うよう首をかしげたのはファネルだった。フェリクスは普段から決して穏やかとは言いがたい表情をいっそう険しくさせる。 「聞いてない」 「まぁ、話している暇もなかったようだな、その態度なら」 どことなくなだめるような態度が癇に障った。そのようなことをしていいのは、シェリだけだ。思うそばから胸が苦しくなる。 「シェリだ」 原因はその肩の銀の竜だ、とファネルは言った。顎をしゃくって竜を指す仕種に傲慢なものを見たけれど、フェリクスはそれに対しては何も言わなかった。 闇エルフに謙虚を求めるほうが間違っている。それをフェリクスは知っている。自分もまた、彼らから生み出されたものなのだから。 そしてまた、知っている。ファネルは、その闇エルフにしては考えられないほど穏やかなのだと。少なくともすぐさま人間に切りかかったりはしない。自暴自棄にもなっていない。憎悪をあからさまにもしていない。だからこそいっそう深いのだとしても。 「これが、なに」 手つきだけは優しくシェリを肩から下ろした。ファネルに語りながらフェリクスはシェリを見ている。凝視に耐えかねたのだろう、気まずそうに竜が視線をそらした。 「そっぽ向かない。こっち見る。さぁ、理由を話してもらおうか。どうしてこの人がここにいるの。まさかこの期に及んでこんなことを言う羽目になるとはね。この僕が、あなたの浮気をなじる日が来るとは思ってもいなかったよ」 昔だったならその言葉は楽しげに言われたことだろう。今のフェリクスは無表情に言い放つ。顔色を変えたファネルが何を言うより先、シェリが抗議の声を上げた。 「言い訳があるんだったら聞いてあげるよ。確かに僕はあなたを置いてけぼりにしたよ。寂しかったのは、わかってる。僕よりわかってる存在はないだろうね」 自分も同じだったのだから。言葉にしなかった声など、誰にでも聞き取ることができただろう。半エルフと同じ血を持つファネルは、仄かに顔を赤らめた。 「だからと言って、他人をここに引っ張り込むって、どういう了見? 言い訳ができるんだったらして見せれば。聞くだけは聞いてあげる」 おろおろと鳴き続けているシェリを見ているのが、少しばかり哀れになってきてファネルは片手を上げた。まるで発言を求める弟子のような態度で、フェリクスはちらりと彼を見やる。 「いいか?」 「どうぞ。でも、先に言っておく。僕はいま言い訳を聞いてるところ。これも必死で釈明をしてる」 「詳細がわかるのか」 「……大体のところがわかればいいんだよ。別に。それで。充分だもの」 消えかける言葉をフェリクスは全身で繋ぎとめていた。シェリならばいい。リオンでもまだ許せる。それ以外の他人に弱みを見せるなど、耐えられない。 「ならばシェリに加勢をしよう。どれほど言い訳をしようが、決して本人が言わないだろうことを知っている」 そういう言い方で、ファネルはフェリクスを懐柔した。手玉に取られている、と感じなかったわけではなかったけれど、フェリクスはあえて、乗った。 「年の功、だね。人を乗せるのが巧いよ、あなた」 皮肉な言いぶりにファネルは肩をすくめるだけで答えに代えた。シェリが小さく鳴き、その甘えた声にフェリクスはようやく室内へと足を踏み入れる。 苛立ちもそのままに無造作な魔法を放ち、一瞬でやかんの水を湯に変えた。乱暴に茶の葉を放り込み、煮出してしまう。 「どうぞ」 そんなものをとりあえずは客と言い得るファネルに勧めておいてフェリクスは別にカップに注いだ茶に、またも魔法を放った。 「ほら」 氷の魔法でぬるいを通り越して冷たくなった茶を、竜の前に置いてやる。テーブルの上に放り出されたシェリは、笑ったのだろうか。上げた鳴き声はこの上なく甘かった。 「旨いな」 「舌、おかしいの。どうかしてるんじゃない」 「そうか?」 乱暴に淹れた当人が呆れて言うのに、ファネルは気にした風もなく茶を口に運ぶ。その表情は真実美味だと感じているようだった。 「香草の茶だろう? ならば煮出すのが当然と言う気もするが」 それだけで嫌な顔をしたフェリクスを見て、ファネルはそれ以上の言葉を慎んだ。疲労を軽くし、心を安らがせる香草を使っている、とは言わなかった。ましてシェリのためだろうとも。 「エラルダは、気づいていたようだな」 「なにを」 「シェリが、私を嫌ってはいないらしいことに」 「むしろ懐いてるって言ってもいいと思うけどね」 すっかりシェリはアリルカに馴染んでいた。誰からも可愛がられ、愛されている。だがシェリが肩に止まるのは、その心を許すのはフェリクスのみ。 誰にでも愛想よく振舞っている、とは言いすぎだろう。だがシェリがしていることはそれに他ならない。フェリクスが誰にでも冷たいよう、シェリは誰にでも愛想がいい。同じことだった。 「そのせいだろう。ここで一人で泣いている声だけが聞こえていても、エラルダにはどうしようもなかったらしい。なぜか、私に頼んできた」 「……そう」 「だから、断じて浮気などではない」 フェリクスはファネルを見つめた。大真面目に言っているその表情に酷い疲労を感じる。今更冗談だ、と言っても通じるとはとても思えず、肩をすくめるだけで答えなかった。 「泣いて泣いて泣き続けて、このままではお前が戻ったときに見るのは竜の干物じゃないかと思ったが、泣き止ませることができなかった」 冗談めかした言い方に、実はからかわれているのではないか、先ほどもいまも。それを質そうとしたときファネルは言葉を続けていた。 「私には、聞こえない。が、あれは楽器なのか? シェリに勧めてみた。あの水盤に、涙を溜めればいいと。お前が戻ったとき、どんな音が出るのか聞かせればいいと」 フェリクスが作ったあの水の竪琴を見やりながらファネルはそう言った。音が聞こえはしない。そう言ったけれど、楽器だということは理解している。不思議だった。 「……そんなこと言ったら、一発で泣きやむね」 そうだろう、と問うように首をかしげれば、ファネルが少し笑ってうなずいた。 |