突然のことだった。デイジーは一瞬にしてリオンに騙された可能性を考える。辺りを見回すまでもない。自分だけではなく隊の全員が吐き気に呻いていた。
「リオン、フェリクス!」
 激しい眩暈と戦うデイジーの耳に響く声。なんて綺麗な声なんだろう、とぼんやり思う。気づけば大地に膝をついていた。
「エラルダ。馬を頼みます。よかったですねぇ、下馬を促しておいて」
「当たり前じゃない。こうならなかったらそっちのほうが驚きだよ」
 リオンとフェリクスが会話をしている。崩れそうになる膝をなんとかこらえてデイジーは立ち上がった。
「おや、さすがですね。回復が早い」
「おい――」
「予告しておくこともできたんですけど、怯えられるとやりにくいんで。事後承諾になっちゃいましたけど、転移に慣れてないとこういうことが起こるんですよ」
 実にのほほん、とリオンが言った。呆れ返って言葉もない。いつの間にか騙されたとの思いはなくなっている。そちらのほうが、驚きだった。
「ここ、どこだよ?」
 見回しても当然見覚えのある土地ではなかった。豊かと言い得るほど長い草が風になびく見るからにいい土地だった。
「我々の国、ですよ」
 悪戯っぽく言ってリオンが片目をつぶった。転移魔法によって自分が遠くに運ばれる。これ以上驚くことなどないだろうと思っていたのにデイジーは顔から顎が落ちそうになる。
「アリルカ?」
「はい。正確にはあっちに森が見えるでしょう? あの森の中に大半が住んでますけどね。でもここも我々の土地の一部です。あなたがた、大勢いますからねぇ。馬もいますし。こっちのほうがいいかな、と思って」
 にこにことするリオンから目をそらせばフェリクスは淡々とその場に佇んでいるだけだった。おかげでリオンが嘘をついたりいい加減なことを言ったりしているわけではないと理解できてしまう。自分の物分りのよさが忌々しくなるデイジーだった。
「皆さん、さすがに回復が早くって。よかったよかった」
 隊の面々もどうやら吐き気が治まったらしい。不安そうに隊長を見ているものもいたけれど、デイジーが毅然としている限り彼らが動揺することはないだろう。それが頼もしかった。
「エラルダ」
 リオンの声にデイジーは彼を見やった。と、数人の人影。彼らが馬を引いていた。そしてはたと気づく。自分の愛馬がそばにいない。
「乗り手が苦しんだんで、馬も動揺したんですよ。逃げ出すことはわかってたんで、人手を頼んでおきました」
 リオンの声など聞こえていなかった。人影がはっきりと目に入る。
「……半エルフ?」
 わかっていたはずだった。異種族の国だとわかっていたはずだった。それでも目にすれば、何がしかの思いを隠しきれない。
「デイジー」
「違うよ、そんなんじゃねぇ。……綺麗だな、と思って見てただけだ」
 おやまぁとかなんとかリオンが言ったのが聞こえた気がした。デイジーは黙殺することを選んで彼らを見やる。
「この子があなたの馬ですね?」
 確か彼がエラルダと呼ばれていたはずだと思いつつデイジーはうなずく。それに半エルフがにこりと笑った。
「……あぁ。そうだ。なぜ?」
「あなたのそばに来て、喜んでいるから。いい子ですね、とても優しくて勇敢だ」
 まるで自分が褒められたような気がしてデイジーはうろたえた。馬のことを言っているとわかってはいるのだが、赤面するのを抑えきれない。
「ありがとうよ」
 ぶっきらぼうに言って手綱を奪い返せば、乱暴な仕種だったのにもかかわらずエラルダが微笑む。また動揺しそうだった。
「エラルダ」
 不意に声。冷たい響きでフェリクスと知れた。いつの間に近づいてきたのかもわからない。
「お帰りなさい、フェリクス」
 そんなことはどうでもいいと言わんばかりにフェリクスが首を振った。それが妙に癇に障ってデイジーはかっと口を開きそうになる。
「隊長!」
 激しい声だった。咄嗟にデイジーは剣を抜く。なにを意識してのものでもない。完全に身についた仕種だった。
 誰に示されたわけでもないのに、炎の隼たちは一様に一点を見据えていた。白い、光点。そうとしか見えないものを。
 次々に抜刀する耳障りな音が草原に響く。慌てたエラルダが何かを言った気がしたけれど、戦闘状態に高められた隼たちの耳には届かない。
 光は一直線にこちらに向かってきていた。違う、デイジーは見定める。自分たちに、ではない。フェリクスに。隼たちが走り出す。
 今まで気分の悪さに顔を顰めていた男たちと同じとは思えなかった。魔術師を守る。契約に従って。彼らはだから戦う。戦いに向かって精神が高揚していく。
「動くな!」
 その彼らを止めたもの。隊長の制止ではない。デイジーの指示以外受け付けないよう訓練した彼らが、理由もわからないまま足を止めた。ぴたりと、一瞬にして。デイジーもまた、例外ではなかった。
 光点は、見る見るうちに大きくなる。フェリクスは動かない。エラルダも、リオンも何の心配もしていないよう、光を見ていた。
「……ただいま」
 これが先ほどエラルダを無下にあしらったフェリクスか。信じがたいものを見ていた。それよりなお信じがたいものを目にしたはずなのに、デイジーにはフェリクスの態度のほうが、驚きだった。
「すみませんね。ちょっと驚いちゃいました、私」
「いや、かまわねぇ……。が、あれはなんだ」
 咄嗟に指揮権を奪ってしまったこと言っているのだろう。思えばリオンも不思議な男だった。茫洋とした顔つきのくせ、一騎当千の傭兵たちを一言で止めて見せた。温顔が、信じがたくなる。
「あれですか?」
 微笑ましげにリオンがフェリクスに目を向けた。フェリクスに、ではない。その腕の中の光。光に見えていたものは、真珠色に輝く。
「ドラゴン? にしちゃ、小型だな。火蜥蜴ってわけでもなさそうだし。わかんねぇ」
「あれがね、世界の歌い手の魂の欠片、です。話したでしょ。我々はシェリ、と呼んでますよ」
 フェリクスと合流するまでの間に禁忌を聞かされている。決してタイラントの名を口にするな、と。情報を大切にする傭兵隊だからこそ、隼たちは世界の歌い手が殺されたことを知っていた。だからこそのリオンの忠告だった。
「あれが……?」
 フェリクスの腕の中で、小さな竜がよりいっそう体を小さくしていた。デイジーの耳に、またも嘘のような言葉が聞こえる。フェリクスが、詫びていた。
「ごめん。だから、ねぇ。僕が悪かったと思ってる。だから」
 フェリクスは腕の中の竜を真正面から見たいのに、シェリはしがみついて離れなかった。鉤爪が、服を貫き肌に突き刺さる。
「ねぇ……。泣かないで。お願いだから」
 腕に飛び込んでくるより先から、気づいていた。自分に向かって翔けながらシェリは泣いていた。涙を零しながら飛ぶ竜が、あまりにも綺麗で。哀しくて。愛しくて。フェリクスはじっと見ていることしかできなかった。
「泣かないで」
 何度も言う。そのたびにシェリは長い首を振って拒む。つらくなって、きつく抱きしめれば、ようやく首を上げた。
「ごめん。ねぇ、ずっと泣いてたの、あなた。目が、真っ赤だ」
 色違いの竜の目は、泣き続けたせいで真っ赤に染まっている。紛れもない血の色で、涙すら血の色に見えそうで、フェリクスは人知れず震えた。それを敏感に察して、シェリがやっと泣き止んだ。
「……あなたが出かけてから、ずっとです。本当に、干からびてしまうんじゃないかと思うほど泣き続けで。心配しました」
 聞いているのかどうか危ぶみながらエラルダが言った。フェリクスは聞こえている素振りを見せなかったけれど、シェリは照れくさそうにそっぽを向く。だからきっと彼にも聞こえているのだろう。
「ミスティ」
 小さな声にしては、鋭すぎた。遠巻きにしていた魔術師が姿勢を正して走りよってくるのをデイジーは面白く見る。
「悪いけど。もう一人、火系の使い手を選んで」
「それは?」
「わからないの? 説明したじゃない。あなた一人じゃ、僕ら三人を支えきれない。仕方ないから、火系だけ、もう一人選んで。イメル。悪いけど、外れて」
 淡々とした声音に、冷たさだけではないものが滲んだ。フェリクスは誰も見ず、シェリの背に顔を埋めていた。
「フェリクス? それは今後四大元素の使い手が魔法陣を構成する必要がある場合、と言うことですか。あなたと私とシェリ、それはいいですけどね」
「わかってるよ」
「本当にわかってます? 人数が増えれば、そのぶん不確定要素が増えます。均衡がとりにくくなるのは、あなただって理解しているでしょうに。でもね、フェリクス。本当に理解してますか」
「してるよ。うるさいな」
「うっかりするとその場の魔術師だけじゃなくて、無関係な他人まで巻き込んで木っ端微塵ですよ?」
 恐ろしいことをさらりとリオンは言った。何より恐ろしいのは、とデイジーは思う。間違いなくフェリクスは理解した上で言っている。そのことだった。
「他人? 僕の世界は死んだ。死んだ世界に他人なんて、いない」
 言い捨てて、フェリクスは歩き去る。誰も止めなかった。シェリが小さく鳴いたのが、なぜか隼たちにも詫びだ、とわかる。リオンの大きな溜息が聞こえた。
「ミスティ。真に受けなくっていいですからね。あなたもです、イメル」
「ですが、リオン師」
「無関係な他人を巻き込んで一番つらい思いをするのは誰です? シェリですよ。シェリが泣くとわかってて無茶はしません。大丈夫ですよ。いまはちょっと動揺しただけでしょう。すぐにシェリがなだめます。安心していいです」
 デイジーは、リオンの言葉を聞きつつ去っていったフェリクスの背を見ていた。
「世界は死んだ、か。寂しいもんだな」
 茶化しているように聞こえたのだろうか。エラルダが眉を顰める。半エルフの目をまっすぐに見つめれば、通じ合うものがあった。だからこそ、互いに目をそらした。




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