所在無く取り残されてしまった二人の魔術師がひくりと顔を上げた。フェリクスが去ってから、丸一日が経っている。彼のことなど心配していなかった。とてもそんなおこがましいことはできない。むしろ自分たちのほうこそが、心配だった。
「あれは、いったい」
 不安そうにイメルが問いかけた。ミスティはじっと耳を凝らしているのだろう、声に煩わしそうな顔をする。
「ミスティ」
 焦れたイメルが声を荒らげれば、しっと手で止められた。ようやく自分がおびえていることに気づいてイメルは赤面する。
「騎馬の者が大勢くるみたいだ」
「だったらこの音は」
「たぶん、馬の足音」
 とよもす大地に魔術師たちは顔を見合わせ心から不安な顔をした。自分ひとりではない、怯えているのは相手も同じ。そう思えば少しだけ気分が安らぐ。
「フェリクス師に――」
 こんな風に慰めあっている自分たちを知られたならばきっと怒られるなどと言うものでは済まないだろう。
「しっかりしなくては」
 フェリクスは言った。自分たちの力が必要だと。多くの弟子たちの中から選んでくれた。彼に応えなくてはならない。
「イメル」
 すっとミスティが手を上げた。彼は先制攻撃をするつもりだろうか。あの、メロール・カロリナの弟子だった男だ。そのくらいのことを考えても不思議ではなかった。
「ちょっと待って!」
 そのミスティをイメルが止めた。慌てて耳を澄ます。確かに響いてくるのは騎馬の足音。いまははっきりと聞こえるようになっている。
「こんなところに、こんな大勢」
「だから」
「おかしいよ、ミスティ。たぶん、これは、きっと」
 不意にミスティも気づいた。掲げていた手を下ろし、前方を見据える。遠く、埃が立っていた。いつの間にか大きくなり、影となる。それが確かに騎馬の人影だと見定められるようになったとき、一騎、駆け出してきた。
「あれは!」
 イメルの声には歓喜があった。安堵の思いだろう。ミスティはまだ気を抜かずにいる。騎馬の者が手を振った。一頭の馬に相乗りをしているらしい、二人の男が見えた。
「なんだと思う、イメル」
 イメルが答えるまでもなかった。見る見るうちに速さを増した馬が駆け寄ってきて、馬上の人物が明らかになる。
「お待たせしましたね、二人とも」
 にこり、リオンが笑った。気が抜けてしまいそうな気分を二人は必死に隠し、一礼をする。どれほど怖い思いをしたかリオンに言ってもたぶん、わからない。
「こちらはデイジー。炎の隼の隊長です」
 ひらりと馬から下りてリオンは言う。それに苦々しげな顔をした体格のいい男が言った。
「デイズアイ、だ。いい加減に覚えろよ」
「いやだな、覚えてますって」
「けっ。このクソ坊主め」
 吐き出したデイジーに、ミスティが吹き出した。それにリオンが顔を顰め、イメルはきょとんとして彼らを見ていた。集団になっていた騎馬の者たちは、もうすぐ追いついてくるだろう。音が激しくなっていた。
「ミスティまで笑いますか。もう、こんなんじゃ彼に笑われますねぇ。笑ってくれればいいんですけどねぇ。ところで、彼は?」
「観光に行く、と仰ってましたが」
「彼が、観光?」
 意図的にリオンがフェリクスの名を伏せているのをミスティは敏感に感じ取る。彼に合わせれば、にこりと微笑まれた。
「リオン師」
 どことなくぼんやりとしたイメルの呼びかけにリオンは首をかしげて彼を見た。イメルの目は、驚きに満ちている。
「あれは、いったい。いえ、わかっては、いるのですが。その」
「うん。傭兵さんたちです。やっぱり馬がこれだけいると壮観ですねぇ」
 身に染みた。戦う者が、これだけいる。自分たちが、戦う。そのことがイメルの身に染みた。ミスティを見れば、同じような顔をしている。
「戦うんだな」
 ぽつりと言えば、うなずいてくれた。二人とも星花宮の魔術師だ。実戦の場に出たことがないわけではない。それでもどんな戦いも他人の戦いであって、いままで自分の戦いではなかった。これから、初めて自分のための戦いをする。
「いまさらなに言ってるの。怖気づいたならとっとと帰んな。そういうのがいると士気に関わる。邪魔だよ。死なれても迷惑だ」
 はっとして全員が振り返った。今は追いついてきている隼の面々までもが目を丸くして見ている。そこにはいままでいなかった男が出現していた。
「おや、お帰りなさい。どちらに?」
 何事もなかったかのようリオンがにこやかに言えば、フェリクスはついと顔をそむけた。
「三叉宮。リィ・サイファが封じたって言う至高王の剣と王冠を見てきたよ。あのとき人間は誓ったそうだね、手を携えてともに平和を築き上げるって」
 皮肉に言って言葉を切った。フェリクスが続けなかった言葉がその場の全員に聞こえた。何を言いたいか、しみじみと知っている者たちだけが、その場にいた。
「ところで。あなたのことを紹介してもいいですか?」
「これが傭兵隊? あなたの目から見てどうなの。聞くまでもないか。雇う気になったなら、使えるってことだね。いいよ、だいたい僕が何者かなんてもう、わかってるでしょ」
 いまだ馬上にあったデイジーは、その視線に射抜かれた。どんな戦場でもひるんだことのない男が、たとえ一瞬とは言え動きを封じられた。フェリクスは何もしていない。その目つき一つで歴戦の男を黙らせた。
「こちらは炎の隼の隊長、デイジーです。もうおわかりですね? 彼が――」
「だからデイズアイだって言ってんだろうが。よろしく、氷帝さんよ」
 ひらりと馬から降りてデイジーは手を差し出した。握手にフェリクスはわずかの間応えない。不思議そうに無骨な手を見ていた。
「いまでも僕はそんな風に呼ばれてるんだ。知らなかったよ。よろしく、役に立って欲しいもんだね。デイジー」
「……あんたな」
「なに?」
「星花宮の魔術師ってやつは性格に問題がないとなれないもんなのかい? アリルカの魔術師に会うのがこえーよ」
「性格に問題? あるように思えないけどな」
 冗談めかしたフェリクスの声。だが熱はない。それにデイジーがかすかな驚きを見せるのを、三人の魔術師は胸に迫る思いとして見ていた。自分たちはとっくに彼の熱のなさに、その無表情に慣れてしまった。それが、情けないような悲しさを呼び起こした。
「フェリクス」
「なに」
「弟子たちを連れてきたのはいいですけどね。シェリはどうしたんです。もしや……」
「あなた、馬鹿? あいつに何かあったら僕がのうのうとこんなところで遊んでると思うわけ? よく考えろよ、愚か者。僕らが組んだらどうなるの。均衡が取れないじゃない、あいつがいたら」
 フェリクスの畳み掛ける口調にデイジーが仰け反って逃げようとした。いくら温和なリオンとはいえここまで言われてはただではすまないだろう。そう思ってのことだったのに、彼らの弟子だという魔術師たちは動かない。溜息をついて肩を落とし、二人の師を見ていた。
「あぁ、まぁねぇ。なるほどねぇ。よく頑張りましたね、フェリクス」
「うるさいな。黙れよ」
「お土産、持って帰ってあげなくっちゃいけませんね」
「そんなことよりさっさと帰ってやったほうが喜ぶと思うけど。喜ぶ、かな――」
 それがどんな感情だか忘れてしまった。そう言葉にせずに言ったフェリクスの思いを感じ取ったのはリオン一人。他の面々は半ば惚気に聞こえていた。事情を知らないデイジーですらも。
「では、早速行きますか。準備を」
 イメルとミスティが声を揃えて返事をした。真剣な顔つきになったところを見れば、何か大変なことが起ころうとしているのはデイジーにもわかる。
「なにすんだ?」
 フェリクスではなく、リオンに尋ねた。滔々とまくし立てるフェリクスに問えば、質問の倍くらいで答えがすむとは思えない。
「えぇ、ちょっと転移を」
「はい?」
「これだけ大人数ですからねぇ。私一人でちまちまやってると疲れちゃうんで。応援を頼みました」
「だからどういうことだよ!」
 デイジーの想像は外れていた。短い言葉でフェリクスが答える。叩き落されることだけは、同じだった。
「積層魔法陣。全員一度に転移させる」
 なにを言っているか、理解できなかった。全員一度、それだけがわかる。ぼんやりと隊の魔術師の姿を探せば、隣にいた。
「お前、わかるか」
「わかりたくないです。可能なのは理解できますよ、理論的にはね。それができない自分を認めたかないんで、理解したくないです」
 吐き出すように言う魔術師の言葉にデイジーは納得した。いずれにせよとんでもないことが起こるのだとだけ、理解していればいいらしい。
「そういうこと言ってると、いつまで経っても進歩しないよ」
 すでにイメルとミスティは準備にかかっている。それを横目で見つつフェリクスは隼の魔術師に言う。
「あなたとは――」
「才能の差? 種族の差? そんなものは努力と訓練の前では無に等しいよ。最初から放棄してたんじゃ、ね」
「……教えてくれるとでも?」
「誰が教えてあげないなんて言ったの。やる気があるなら教えてあげる。あとでね。いまはとりあえず……こっちが先」
 一箇所に固まった炎の隼の周囲を、イメルが巡った。これもすでに魔法の一部なのだろう。隼たちは固唾を飲んでじっとしている。最初の位置にイメルが戻ったとき、ミスティが動き出す。次いでリオン、そう思ったのに彼は動かなかった。わずかに手を掲げたのみ。そしてフェリクスが。彼は手を掲げもしなかった。空を仰ぐ。
「さぁ」
 はっと隊の魔術師が顔を上げた。彼は見た。自分たちの周囲に四重に張り巡らされた結界を。否、魔法陣。内側から順に輝きを増しフェリクスに達する。そして転移がはじまった。




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