アリルカの広場。人々が集まっては魔法の練習をし、剣の訓練をする。それをフェリクスが淡々と見つめていた。彼の肩ではシェリが楽しそうにしている。もしかしたらラクルーサの星花宮の日々を思い出させるのかもしれない。 「ミスティ。イメル」 広場の片隅で魔法を教えていた彼の弟子に一声かけて彼はすらりと立ち上がる。 「出かけるよ」 聞いているかは気にしなかった。いずれにせよ、聞こえていることはわかっている。理解しているかは別だが。 「フェリクス師!」 案の定イメルが大声を上げた。戸惑いも露な声に、フェリクスはわずかに不快を覚える。これがあの男の弟子か、と。それをたしなめるようシェリが鳴いた。 「リオンが呼んでる。行くよ」 「どこにですか!」 「三叉宮。たぶん、そば。どちらかといえば、シャルマーク寄り」 「そんな」 「曖昧なのはわかってるよ。僕が先に跳ぶ。二人とも、追ってくればいい。それくらいできるでしょ。できないとは言わせないよ」 その瞬間だけフェリクスの目がきらりと光った。リオンが見れば喜ぶことだろう、たとえほんのわずかな間とは言え、彼に生気が蘇ったと言って。 だがシェリは喜ばなかった。肩の上ですがりつくよう彼に向かって鳴いている。シェリだけは、わかっていたのかもしれない。フェリクスの生気が仮初のものだと言うことが。 「エラルダ」 向こうで魔法の練習をしていた彼を呼ぶ。会話が聞こえていたはずなのに、神人の血を引くエラルダは聞こえたふりも見せずに微笑んで寄ってくる。 ありがたいと言うべきなのだろうな、とフェリクスの中のどこかが言う。思うのに、とてもそんな気にはなれなかった。心が、動かない。そしてシェリの鳴き声。 「わかってる」 なにがだろう、フェリクスは思う。わかっているのは自分ではなく、シェリだと思う。それでいいのだと、シェリが鳴いた。そんな気がした。 「ちょっとこれ、預かってて。僕は出かけるから」 思いを振り切るようフェリクスは首を振る。振り切るような思いがあるのかもわからないまま。そして肩からシェリを下ろす。いつもならば引き摺り下ろす手が、今日に限っては優しかった。 「フェリクス?」 困惑した声は、あたかもシェリが発したかのよう。腕の中、小さな銀の竜が振り返ってフェリクスを見ていた。 「僕は、出かけるから」 繰り返せば、ようやく何を言っているのか理解したシェリが激しく抵抗する。それでも体は小さな竜だった。難なく抵抗を封じられ、シェリはフェリクスと顔を見合わせる。 「あのね、わかってるでしょ。僕がわかってないことまで、わかってるでしょ。だったら、僕が今、なにを考えてるか、わかるよね。僕は、あなたを連れて行きたくない」 高らかに、シェリが鳴いた。抗議の声だと、誰にもわかった。あの、イメルにすら。顔色を変えて、イメルは彼の師の魂の欠片であるという竜を見る。 「……懐かしいね。昔も、こんなこと言ったね」 言葉に、竜までもが顔色を変えた。それを見て、今更ながらイメルは納得した。確かにあれは、タイラント。彼が師と仰いだ男だと。 「ねぇ。あのときのこと、忘れるはずはないよね。僕はあなたをどうしても連れて行きたくなかった。結果、どうなった?」 小さく、けれど激しくシェリが鳴く。それにフェリクスが唇の端を吊り上げた。笑みに似て、まるで違うもの。 「そうだね。あれは、僕の過ちだった。あなたの、過ちだった。僕ら二人ともが、間違ってた。でもね、今度は違う。そうだね、あなたを連れて行っても、そう危険はないだろうと思う。それは、ほんと。でもね、心配なの」 シェリの頬に、フェリクスが自分の頬をすり寄せる。不意にエラルダは幻影を見た気がした。そこにいるのが小さな銀の竜ではなく、タイラントに見えていた。 「あなたの弟子は、確かに悪い腕はしてない。風系の使い手としては、まぁ合格範囲内だと思うよ。でもね、僕と、リオンが組む。皺寄せは、どこに来るの?」 答えないシェリに問えば、フェリクスにだけは声が聞こえたよう、彼はうなずく。 「そうだよ、イメルとミスティに来る。僕は二人を庇ってなんかやらない。そんな暇はない。わかってるね? あなた、その場にいたらどうするの。自分がどんな行動をとるか、わかってるでしょ」 「……フェリクス師」 「なに、イメル。自分の師匠が何しでかすかくらい、わからないの。そうだよ、こいつはあなたを庇うよ。結果がどうなのかわかってても、反射的に行動しかねない」 「それは――」 「うっかりするとミスティだけ消し飛ぶよ。そんなの、いやだからね」 フェリクスの言葉にエラルダが微笑んだ。冷たい言葉ではあっても、彼は周囲の人々に対してどこまでも優しい。優しさの、質と大きさが違うのだ、そう思う。それはかつてタイラントが感じたことだった。だから、エラルダがそれを口にしないのは、正解だった。 「いやだよ、そんな。血まみれの肉片の始末するのなんか、面倒くさい。生臭いんだよ、知ってる?」 思わずエラルダは息を止めてしまった。最前、感じたことが嘘のよう。どちらもフェリクスの真実だと、体のどこかが感じては、いる。それでもわずかに恐怖を覚えた。 「……なんとか、耐えられるかとは思いますが」 怯みつつも言ったのは、ミスティだった。フェリクスはじろりと彼を見る。カロルの弟子にしては控えめすぎて、印象の薄い男だった。 「自分の力量もわからないの。それとも、僕らの力量を疑ってるの」 「自分の腕は――」 「わかってないよ。どっちでもいいけど」 どちらにしても同じことだから、そうフェリクスは言う。ミスティと、そしてイメルを交互に見やりあからさまに溜息をついた。 「僕とリオンが組んだら、何ができると思うの。この大陸を滅ぼしてもお釣がくるよ。それだけの魔力と技術の持ち主とあなた、平気で組めるって言うの」 それを言う資格があるのか、フェリクスはそう問いかける。自分にそれができるのか、もう一度自らに問い返せと彼は言う。 「わかったみたいだね。四大元素の使い手が組むなら、均衡は取らなきゃならない。僕とリオン、それからミスティとイメル。それで均衡がぎりぎりで取れる。だからね、あなた」 腕の中に抱えていたシェリに視線を移せば、そっぽを向かれた。竜も、理解はしているのだろう、いまとなっては。だからフェリクスはそっとシェリを抱きしめる。 「待ってて。僕の帰りを待ってて。お帰りって言われるの、いい気分だから。お土産は……たぶんないけどね」 シェリが答えるより先、フェリクスはエラルダに竜を突き出した。まるで大事なぬいぐるみでも差し出すようだった。とても生き物を扱っているとは思えない手。 「確かにお預かりします。ちゃんと大事にしますから」 抱くでもなく、腕に止まらせるでもない。エラルダは受け取った瞬間、シェリを宙に投げ上げた。その小さな銀の竜に触れていいのは、フェリクスだけだというように。 「お願いね」 小声で言ったフェリクスの声が、エラルダに聞こえただろうか。確かめる間もなくフェリクスの姿は薄れて消えた。 「フェリクス師!」 二人の魔術師が慌ててエラルダに一礼しては呪文の詠唱に入る。それを見てエラルダは感じていた。フェリクスが言うのは間違いではないのだと。 暴言めいてはいたものの、フェリクスと二人の魔術師では技量に差がありすぎる。半エルフのエラルダが、フェリクスの転移の瞬間を見定めることができなかった。広場の誰もできなかっただろう。呪文を唱えていたとすら、わからない。 二人の姿が、それでも薄くなって消えていく。黙って見ていたエラルダは半ば溜息をついた。落胆のそれではなく、フェリクスへの感嘆だった。 「凄いですね、フェリクスは。あなたも、きっとそうだったんでしょうね」 じっと宙にとどまったままのシェリに声をかければ、ようやく竜は振り返る。その目に大粒の涙が浮かんでいるのを見てエラルダは慌てふためく。大事にする、そう言った舌の根も乾かないうちに竜を泣かせてしまっている。自分のせいではないとしても。差し伸べた腕に、シェリは止まらなかった。ただひたすらにじっと、消えてしまったフェリクスの影を見ていた。 そのフェリクスは、すでに転移を終えている。場所さえ定めてしまえば一瞬だった。辺りを見回し、自分のほうがリオンよりずっと早くにきてしまったのを感じていた。 神殿街よりシャルマーク寄り、そう感じた場所は間違いではなかった。二王国側ではたくさんの神殿が見られるものの、どことなく忌まわしく思うのかシャルマーク側に神殿はほとんどない。 「すっきりしてて悪くないね」 荒涼と、と言うほど寂れてはいなかった。ただ人気はないに等しい。それがおそらくリオンがここを選んだ理由だろう。 「フェリクス師」 やっとのことで弟子たちが追いついてくる。もっとも、フェリクスは場所も告げていなければ、自分から追尾しやすいよう精神の指先を差し伸べてもやらなかった。それでいてこれだけのことができるのは、やはり星花宮の魔術師、彼らの弟子に相応しい男たちだった。 「ここは、いったい」 ミスティが辺りを見回して薄ら寒そうに自分の肩を抱く。 「リオンは傭兵隊を雇ったって言ってきた。だいたい二百人前後だって言ってる。そんな人数が集まれるのって、この辺りしかなかったんじゃない?」 さらりと言ってフェリクスは改めて周囲を見回した。リオンの交渉の素早さに目を白黒させている弟子たちにはかまわず、彼の目は一点を見ている。 「ふうん。三叉宮、か」 リオンはまだきそうにない。不本意ながら、シェリを介してとは言え彼とは心が繋がっている。いまどのあたりにいるかも見当がつく。 「イメル。ミスティ」 一人前の魔術師のはずが、背筋をぴしりと伸ばして師の言葉を仰ぐ。シェリがいれば微笑ましげに鳴いたことだろう。不意に肩の上にない重さを感じた。 「僕は観光に行ってくるから。二人ともいい子にしてな」 その声が消えないうちに、フェリクスの姿は薄れて消えた。先程よりずっと速い転移。二人の魔術師は彼がどこにいったか、気配すら掴めなかった。 |