わいわいと騒ぐ人々の声がぱたりと止まった。肩にシェリを乗せたフェリクスが広場に立ち止まる。そらされた視線にフェリクスは唇を引き締めた。 「リオン」 広場の片隅からリオンがこちらに向かっていた。公衆の面前で不覚を取ってから、十日ほどが過ぎている。 「元気になったみたいですね。良かった良かった」 にこにことした温顔になど、騙されない。たとえそれが真実のものだったとしても。フェリクスの不穏な気配を察知してシェリが鳴いた。 「大丈夫」 そっと肩に手をやれば、ちろりと指先を舐められた。そのくすぐったい感触にフェリクスは肩をすくめる。 「元気にはなったけどね」 「別にお礼なんて要りませんよ」 「誰が?」 慌ててエラルダが駆け寄ってくるのが視界の隅に映った。フェリクスはシェリを抱き下ろし、優しく宙に放つ。 「ちょっと危ないからね」 言い様リオンに迫った。彼は逃げない。それどころか笑みさえ深くしてフェリクスを見つめる。 「歯、食いしばれ。このクソ坊主」 まるでカロルの暴言。リオンは花咲くように笑ってフェリクスから目をそらさず、その頬に拳を受けた。小気味いい音が広場に弾ける。 「おや、おしまいですか。あなたも優しくなりましたねぇ。ありがとう、シェリ。あなたの口添えで私、殺されないで済みそうですよ」 ぱたぱたと宙に羽ばたいて所在無くしている銀の竜に言えば、困り顔でリオンを見つめた。それにフェリクスが何かを言いかけるのに、シェリはそのあたりで止めておけとでも言うよう彼の肩にと戻っていく。 「あの、フェリクス」 駆けつけたエラルダが、困っていた。シェリと顔を見合わせれば、互いによく似た表情。一人と一匹が、両方とも困惑していた。 「なに」 いつにもまして冷たいフェリクスの声。リオンは彼が休んでいる間、言っていた。体調を戻せば少しは彼も落ち着くはず、と。とても彼の言葉通りになったとはエラルダには思えなかった。 「リオンを怒るのは――」 「僕に魔法を振るったのが許しがたい」 「ですが、その。シェリも」 「知ってるよ。こいつはとっくに怒られてる」 言えばシェリがそうなんだけどね、とばかり肩の上で肩をすくめた。だからエラルダにはそれが真実ではないと知れてしまった。 ある意味では、真実だとは思う。が、リオンほど手酷くは扱われていないはずだと気づいてしまって、いたたまれなくなる、羞恥に。 「それにね、僕の体調がどうのとかって、気がつくのが不愉快なの」 「それは――」 「なに」 「リオンに言ったのは」 はっとした。肩の上に手が置かれている。見れば殴られた頬を赤くしたままリオンが微笑んでいた。 「――私なんです」 が、エラルダは続けてしまった。リオンがそっと止めてくれたのは、わかっている。だが、その心に甘えてしまっては自分が許せなくなりそうだった。 「……そうなの?」 意外そうなフェリクスの声。すぐさま気配が険悪になる。シェリが大慌ててなだめて鳴いている。ちらりとエラルダはリオンに視線を向け、目顔で詫びた。 「フェリクス」 「……いいよ。僕が思ってたより、あからさまだったってことだね」 「そうですよ、フェリクス。目を覆わんばかりって、あのことです。酷い顔してましたからね、あなた」 「うるさいな、わかってるよ」 煩わしそうに言ってフェリクスは目をそらした。他のアリルカの民よりは、長い付き合いではある、エラルダは。 が、ともに親密な時間を過ごしたわけでもない彼に自分の体調が見て取れるほどだった。それがフェリクスに軽い衝撃を与えていた。 小さく肩の上でシェリが鳴く。詫びている声に聞こえ、フェリクスはそっと竜の背を撫でた。気づいていた、シェリが後悔しているのは。 小さな、言葉を発することのできない魂の欠片。その身でできることのあまりの少なさ。日に日に酷くなっていくフェリクスを止めることもなだめることもできなかった。 それがひしひしと肩の上から伝わってきていた。フェリクスは静かに目を閉じ、その感触を味わう。そうしていれば、あの男がそばで懸念しているように感じられる気がした。 「リオンを殴るなら、私も殴ってください」 声に、正気づく。フェリクスはエラルダを見やり、呆れて肩をすくめた。 「あのね、エラルダ。もしかして殴られて喜ぶ性格だったりするの。気持ち良かったり?」 言った途端エラルダが真っ赤になる。それでフェリクスは相手が神人の子だと思い出す始末だった。どうにも調子が狂っていけない。遊んでいた時間が長すぎるのも問題だとも思う。それでも自分たちにとっては、必要な時間だった。 「そんなこと!」 「わかってるよ、ただの冗談。それからね、エラルダ。リオンをぶん殴ったのは、ただの八つ当たり。わかってるから、このボケ坊主もなんにも言わないの。殴られる覚悟くらいはしてたんでしょ?」 「まぁ、殺されない程度にはやられるな、とは思ってましたよ」 「ほらね? だからいいんだよ」 「兄弟子の八つ当たりくらい、受けて差し上げないとねぇ」 実に朗らかにリオンが言う。毒気を抜かれる、とはこのことだろうとエラルダは肩を落とした。急に、おかしくなってくる。 「大丈夫ですか、エラルダ」 くすくすと笑い出したエラルダの顔をリオンが不安そうに覗き込む。神人の血を引く彼には、やり取りが刺激的過ぎただろうかと案じるように。 「大丈夫です。ちょっと羨ましいと言うか、違いますね。なんとなく、楽しくなってしまって」 その言葉にフェリクスまでもが呆れた。肩の上から羽ばたいたシェリだけが、新たに生まれた理解めいたものを喜ぶよう、明るい鳴き声を上げていた。 「ところでフェリクス」 「体調なら問題ないし、すぐに魔法の授業は再開できる。どこまでやったの」 「いえ、それはわかってるんですが、先にお話が」 エラルダの言葉にフェリクスは眉を顰めた。戦力の増強以上に大切な話とは何かと考えてもわからない。 そんなフェリクスを見てリオンが口を挟んだ。先に訓練の様子を話しておかなければ、フェリクスは話を聞きそうにない。 ちらりとシェリを見やれば、不安そうな目をしていた。おかげでリオンには理解できた。フェリクスが思っているよりずっと、いまだ彼の精神は危ういままなのだと。 もっとも、おそらくはラクルーサ王を倒すまで、あるいは彼の命が続く限りずっと、精神の均衡がとれる日など来ないのかもしれないけれど。 「弟子たちが巧いことやってますよ、魔法のほうは。今は数人で大き目の呪文を維持することを学んでいる最中のようです。私のほうは神聖呪文の使い手を育てているところで、簡単な治癒呪文ならもうかけられるようになってますよ」 そう言って視線でリオンは広場の一角を示した。そちらでは神聖呪文を学んでいる者たちが練習を繰り返している。そこにはリオンとフェリクスを迎えに立ってくれたうちの一人、カラクルがいて、少しだけフェリクスは驚く。また別の隅ではファネルを頭として武器を取る者たちが訓練をしている。そこで負った傷を神聖呪文の使い手たちが練習台にする、と言う段取りだろう。 「フェリクス、こちらに。隠していたわけではないのですが、お話しする時間がなくって」 そう、エラルダがフェリクスの様子を見て案内をする。魔法の訓練を自分で見たがっているようにも見えたけれど、今は弟子に任せることにしたらしい。 どことなく不満そうなフェリクスを伴って三人と一匹は森の中を進んでいった。 「リオン」 「なんです?」 「なにがあるの」 「内緒ですよ」 「また殴られたいの」 「えー。ちょっと遠慮したいですねぇ。それにね、フェリクス。言ったでしょ。私をボケ坊主って呼んでいいのは、愛する銀の星だけです。だからこれは仕返しの意地悪なんです」 心から楽しげに言うリオンに、フェリクスではなくエラルダが溜息をついた。 「同感だよ」 小さくフェリクスが言えば、シェリが吹き出す。少なくとも吹き出したのだろう。竜の態度にみなが笑って、フェリクスもまたかすかに不満を和らげて竜を抱きしめた。 森の中に付けられた道は整備されていた。森の外から広場に続く道よりずっと立派で、あるいはこちらが本道だったのかもしれないと思う。 辺りを見回してフェリクスは意外なほど穏やかなのに気づく。もともと半エルフが住むところは自然の豊かな心地良い場所ばかりだ。が、それにしてもここは気配が違った。 「静謐って言うんですよ、こんな感じは」 フェリクスの声にしなかった疑問に答えてリオンが言う。それを睨みつける気にすらならないほど、静けさがあたりに満ちていた。 「ここは――」 問いかけた言葉が、止まってしまった。リオンもエラルダも何も言わない。止めたのは、フェリクス自身の意思だった。 「すぐに、わかりますよ」 にこり、リオンが笑った。それすらもいつもとは違う気がする。腕の中のシェリを見れば、きらきらと目を輝かせている。 「あなたはいつもそうだからね。あてにならないの」 小さく言ったフェリクスの声にエラルダが密やかに笑った。それを咎める気にもならないのは、自分でも異常だとフェリクスは思う。 「つきましたよ」 その異常を追及する暇はなかった。先ほどから聞こえていたのに意識しなかったもの、それは滝の音だった。すぐ目の前に、優しげな表情を見せる滝がある。そしてその両横から緩やかな階段が優美に弧を描いて滝の上へと。フェリクスの視線も階段に誘われるよう伸びていく。 「あれは」 珍しくフェリクスが口ごもった。信じがたいものを目にしている。エラルダに導かれ階段を上れば、滝の源となる穏やかな湖が風にその身を委ね水面をそよがせる。湖のほとりには、優しい目をした野生の馬が水を飲み、あるいは草を食む。 「神人の館だったものです」 そしてフェリクスは見た。湖の対岸に立つ館を。往時の姿を内包し、そして現在へと姿を変えたかつての神人の館を。 |