ろくに服も着ないで数日を過ごした。のんびりしていてはいけないと思うし、気持ちは焦ってもいる。だがシェリが許さなかった。
 服を着てベッドを出ようとするたび、その服を咥えてシェリは飛び去る。手が届かない場所まで行ってから、はじめて恨めしそうな顔をして竜は振り返った。
 おかげで仕方なく、そうして過ごしている。が、幸いにして、と言うべきか体調は完全に戻った。もっとも、シェリがそれを狙ってしていたのだと、気づいてはいた。
「でも、どうかな。ほんとはしてたかっただけだったりして?」
 素肌に竜の体を抱きしめれば、シェリは慌てて首を振った。フェリクスの肌には竜がつけた傷跡が無数についている。怪我ではなく、愛撫の跡と言ったほうが正しい。それでも竜の牙が、鉤爪が、フェリクスに傷を負わせた。
「気にしてないよ。平気」
 ちろりと舌を出して申し訳なさそうにシェリが傷跡を舐めている。すでに乾いた軽い傷ばかり。最初のときのよう、滴るばかりに血を流すことはなくなった。
「あなたも、慣れたみたいだしね」
 言えば、照れたのだろうか。竜がそっぽを向いた。どことなく、その仕種があの男を思い出させ、フェリクスは一瞬だけ目を閉じた。
「平気」
 気配を察知した竜が振り返るのに、フェリクスは言う。嘘だった。二人ともが嘘と知っていた。知った上で、嘘をつく。受け入れる。他に、どうしようもなかった。
「ねぇ。聞かせて」
 フェリクスの手から、ありえない水が零れた。魔法によって出現させられた水が、床の上に零れていく。
「……綺麗」
 水ではなかった。フェリクスが零す水を、シェリが奏でている、その音が。翼の先で掠め、鉤爪で弾く。いままで他人がいるところでも弾いているのだけれど、フェリクスにしか聞こえないらしい。それはそれで、よい気分だった。幻聴だとは思いたくない。
「ねぇ。玩具。作ってあげようか」
 ぽつりフェリクスが言う。それに驚いたのだろう、シェリがおろおろとしながら膝の上に飛んできた。見上げてくる真剣な色違いの目にフェリクスは微笑みたい気持ちになるのだけれど、表情は変わらなかった。
 その膝先を、シェリが鉤爪でつついた。素肌をつつかれるのは、やはり痛い。それに顔を顰めて何事かを言おうとしたフェリクスの言葉が止まる。
「……そう。いいの、それで」
 シェリの目にあったもの。最初の晩に見つけたもの。わかってるから、いい。そう言う竜の目。あの男がよくしていた顔だ、思ったときにフェリクスは自らの記憶から目をそむけていた。
「遊び道具。作ってあげる」
 シェリに言い、今はいない男を思う。裸のまま、手を動かした。手近にある道具を取り、魔法を紡ぐ。
 慣れた作業に、思いは巡る。酷い男だったといまも思う。人間は、どうしてあれほど酷いことができるのだろうかと心の底から思う。
 闇エルフの子だと知ったとき、どれほどのことをしたのか、あの男は。決して許さない、二度と人間など信用しない。
 そう誓うまでもなく決めて、旅に出た。ラクルーサの、星花宮にさえ戻らないつもりだった。師からも、親しかった人たちからも離れて、どこかに行ってしまおうと決めていた。
 それを追いかけてきた、あの男。付けまわされるのが気持ち悪くて、殺してやろうと決めた。
「馬鹿だったね」
 あの時のことを思い出す。酷かったのは、あの男だけではなかった。自分もまた。二人ともが愚かで、馬鹿だった。
 似たもの同士の愚かさが招いた出来事が、結果として二人を強く結びつけた。
「それから二人は末永く幸せに暮らしましたとかって、言えたらよかったのにね」
 呟きに、シェリが抗議の声を上げた。それをなだめるよう、フェリクスは背に手を滑らせる。
「楽しかったよ、ほんとに」
 ならばなぜそのようなことを言うのか。シェリの不満そうな顔にフェリクスはわずかに目許を和ませた。
「だって、酷い男だったじゃない? 僕を傷つけないとかって言ったくせに、何度僕を泣かせたの。数え上げたら、きりがないよ」
 竜が、わざとらしく呼吸を乱して息を詰まらせた。白黒する目のあいだをフェリクスはつつき、作業に戻る。
 記憶は、優しかった。酷い男だったと言いつつ、幸福だった。何度彼が過ちを犯しても、フェリクスは何度でも許した。
「だって、好きだったから」
 馬鹿だな、と思う。それでも自分は間違っていなかったと思う。何度となくつらい思いをさせられたけれど、彼の目はフェリクス以外には向けられなかった。それだけは、決してしなかった。
「一途な馬鹿って、いるんだね。カルム王子くらいかと思ってたよ。まさか現存してるとはね」
 そんな言い方はない、とでも言うのだろうか。シェリが情けない声を上げ、フェリクスにすがりつく。
「邪魔だよ。作業中なの」
 つれなく言って、けれどフェリクスの手つきは優しくシェリを押し戻す。
 昔からそうだったと思い出していた。姿形だけが竜だったあのころ。人間が大嫌いだったのは、今と同じかもしれない。昔のほうが酷かったかもしれない。
 だから、竜の形を愛でた。獣を邪険にするのは気が咎めて、多少は優しく扱った。それが、どこから変わったのか、自分でも覚えていない。
「覚えていられればよかったのにね。メロール師だったら、覚えてただろうにね。残念」
 もしも自分が半エルフだったなら。出逢いのころから最期の別れに至るまで、記憶は鮮明だったことだろう。
「そのほうが、よかった」
 たとえつらいとしても。今よりいっそう苦痛を覚えたとしても。薄れていく、記憶。それを思うだけで我が身をかきむしりたくなる。
「どうしてだろうね」
 人間と同じように果敢なくなっていく記憶。人間と同じように死んでいく体。人間と同じように、誰かを憎み、愛しく思う。
「同じなのが、気に食わないのかな」
 どこまでも似ているくせに、異種族。半エルフであったメロールは言った。お前は人間だ、と。彼らから見れば、闇エルフの子も半エルフの子も、そして人間も同じなのだろう。死すべき定めに縛られているという一点において。
「でも、違うよね」
 シェリを見れば、違うがどうしたと言わんばかりに睨みつけてくる。それにそっとフェリクスはうなずいた。
「あなたは、それでいいって言ってくれたよね。僕が何者でも異種族でもいい。僕から見たら自分も異種族だって」
 懐かしい記憶が胸を刺すかと思いきや、そのようなことはなかった。作業の手を休め、フェリクスは裸の胸に触れる。
「痛くもないね」
 強すぎるから、苦痛が。ふと視線を落とせば、無理やりシェリが腕と胸の間に潜り込んできていた。
「そんなことしないでもいいじゃない。なにしてるのさ」
 問うまでもなく、わかっていた。無理やりじゃれついてくるのは、あの男もよくしていたこと。彼の魂の欠片ならば、するはずのこと。
「別に、寂しくないし、落ち込んでない」
 だからフェリクスは言う。昔よく口にしていた言葉を。それを昔、と言ってしまえることに苦痛を覚えながら。
「要するに、リオンはこれを狙ってたわけ?」
 じろりとフェリクスはシェリを睨んだ。そ知らぬ顔をする竜の頭を鷲掴み、じっと覗き込めばしどろもどろの表情。
「いちゃつけって?」
 仮初でいい。それ以上になど、なれるはずはないのだから。それでもあの男の魂なのだから。たった一人、唯一無二のあの男。
 忘れるはずはない。誓って気晴らしにしかならない復讐戦を挑む。そのために。
「あの男の魂がここにあることを、確かめろとでも言うつもりだったの、リオンは」
 そのようなこと、言われなくともわかっている。そのつもりだった。
「忌々しいね」
 だが、結果を見れば明らか。こうして無謀な形で肌を重ねて、はじめて納得した。これは、確かにあの男。
「体で確認するのって、いやなんだけど。わかってるのかな、あのクソ坊主」
 遥か昔となってしまった過去を思えば、苦笑の一つもしたくなる。顔など見なくとも、体で男を見分けていた過去があると、リオンはわかっていて、この手段を取ったのか。
「違うか」
 そこまで愚かだと思いたくない。ただ単純に、肌をあわせろ、その資格がある。そう言いたかったのかもしれない。
「資格なんて――」
 どうでもよかった。もっとも、肌を重ねた今だからこそ、思うのかもしれない。ためらうよう、シェリが鳴いた。
「嫌ってなんかいないよ。いやじゃなかった。そんなこと、僕を抱いててわからなかったの。言わなきゃわからないような男だったの、あなた。……そういう男だったっけ」
 酷いよ、と聞こえた気がした。それは紛れもなく竜の叫びで、耳の惑いではなかったはずなのに、フェリクスには、あの男の笑い混じりの声に聞こえた。
「懐かしいなんて、言える日がくるのかな」
 リオンには、きているのだろうか。カロルを失った彼はどんな気持ちでいるのだろうか。同じだとは思わない。
「同じわけがない」
 自分のよう、目の前で、なんの心の準備もなく殺されたなら。きゅっとフェリクスは手を握り締め呼吸を整える。それから作業の終盤にかかった。
「こうやって、あなたに贈り物をする機会なんて、なかったね」
 シェリが鳴いた。あった、と言う。大事にしていたものを壊してしまったと竜が言う。泣き出しそうな竜の顔をフェリクスは指先で撫で、作業を終えた。
「もっとね、たくさん色々あなたにあげればよかった。こんなに大好きなんだって、形で示せばよかった。……わかってる。あなたは知っててくれた。わかってる。それでも……僕はそうしなかったことを、悔いている」
 そうしてフェリクスは完成したものを竜に向かって差し出した。それは掌ほどの水盤だった。そこから立ち上る螺旋状の管めいたもの。
「気に入った?」
 管から、その形に従って螺旋を描く細い雫の連なり。まるで小さな雨だった。流れ落ちた水は水盤にたまり、そしてまた管を上っていく。途切れることのない水がさらさらと音を立てた。
 きらきらと眼を輝かせてシェリが水を弾いた。フェリクスにだけ聞こえる、水の竪琴。シェリだけが奏でられる、水の竪琴だった。




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