目覚めは最悪だった。実に健やかな空腹を覚えていて、それがいっそう腹立たしい。フェリクスは飛び起きようと寝台に手をつく。悲鳴が上がった。
「……なにしてるの」
 見上げてきたシェリが涙目だった。どうやら思い切り手で押し潰してしまったらしい。フェリクスは謝らない。
「ねぇ。あなた、昔からそうだったよね。自殺願望が強いの、治ってないね」
 声だけは穏やかに彼は言う。すでに悟っていた。リオン一人の魔法ではなかった。あの時の眠りの魔法は、確かにこの竜も加わっていた。
「どうやってるんだか、聞かせて欲しいところだけど。時間はないね」
 きゅう、とシェリが鳴く。甘えているようでありながら詫びているのはよくわかる。が、聞く気はなかった。
「酷いと思わないの。あんなことして、僕が怒らないと思ってたの」
 とても甘い、とフェリクスは思う。あのようなやり方で意識を奪われて怒らないほうがどうかしている。
 痛みが治まってきたのか、ようやくシェリが体を起こした。色違いの竜の目が、真摯に細められている。それを見ては文句が言えないとばかり、フェリクスはそっぽを向いた。
「僕が……あんまり元気じゃなかったのは、認めるよ。でもそれをリオンに言うことないじゃない」
 言った途端にシェリが抗議の声を上げた。ちらりと見やれば断固としてそれは違う、と目が言っている。
「あなたじゃないの」
 思い切りシェリが鳴いた。辺りを見回せば、どうやら自分の小屋らしい。窓の外は暗い。星の輝きからすれば今は夜中だろう。
「そんな大きな声出さないの。人の迷惑」
 言ってしまってから、フェリクスは臍を噛む。気が抜けてしまった。怒りが遠くに消えてしまっている。
「ねぇ。誰?」
 自分の体調をリオンに告げたのは誰か、とフェリクスは竜に問う。帰ってきたばかりのリオンがすぐさま気づくほどの体調だっただろうか。違う、とフェリクスは思っている。
「あなたにはもわからないの? ふうん、そう。あぁ……弟子ども?」
 リオンなどよりよほど近しい弟子たちだ。一目見て師の異変を察知する程度のことはあっても不思議ではない。
 竜の顔色を読むなどと言う器用なことをやってのければ、シェリが慌てた。それにフェリクスは首を振る。
「いいよ、もう。弟子どもには怒らない。弟子どもには、ね」
 いっそう慌てたシェリがフェリクスにすがりつくようまとわりつく。真珠色の翼が目の前できらきらしていた。
「だって、酷いと思うでしょ、あなたも。リオン、酷いよね。嫌がらせくらいしてもいいでしょ」
 宙に羽ばたいた竜に、目の奥を覗かれた。それにフェリクスはうなずいて見せた。殺そうとは思っていない、いまはもう、と。
「起きたときには真剣に殺してやろうと思ってたけど。あなたの間抜け面見てたら、気が抜けちゃったよ」
 その言い分のほうがずっと酷い、と言わんばかりの鳴き声を上げた竜にかまわずフェリクスは不貞腐れて再び寝台に横になった。
「ちょっと。重い」
 ぽん、とシェリが腹の上に乗ってきた。いくら小さいとは言え、大柄な猫よりまだ大きい獣に乗られてはさすがに重たい。
「邪魔だよ」
 言いつつ手つきだけは優しくシェリを抱きかかえて下ろそうとした。それを、シェリが激しく身をよじって嫌がった。
「……なに?」
 まだ何か言いたいことがあるのだろうか。そう思えば、たまらない。言葉を交わすことができない、彼。言いたいことの大半は、わかる。会話にもなっている。それでも。目をそらしたフェリクスの視線を追うよう、シェリが彼の顔を覗き込んだ。
「ちょっと」
 鬱陶しい、とは言わなかった。けれどフェリクスの表情にはそれが表れている。本心から嫌がってのものではない。
「な……」
 一瞬にしてそれが本当になった。すぐさま、後悔する。しかしフェリクスはなにが起こったのか、理解できなかった。
 シェリが、自分にくちづけた。前にもあったこと。それは、わかっている。それでも今のは違った。可愛らしいものではない。まるで、過去のように。
「やめ――」
 最後まで、言えなかった。形は、竜。魂は、あの男。彼の魂の欠片。まるで彼の表情のよう、体までもが凍りつく。
 小さくシェリが鳴いた。許しを求めるようであり、顔色を窺っているようでもあった。
「……したいの?」
 思わず皮肉に尋ねた。自分で思っていたよりずっと冷たい声で、竜よりもフェリクスのほうが傷つく。そのことが意外で、仄かに彼の気配が和らいだ。
 それを察してシェリが動いた。小振りな頭を、頬に摺り寄せる。竜の肌にこすられる感触が、懐かしい痛みをフェリクスに思い出させた。
「先に言っとくけど」
 フェリクスの声に竜が顔を上げる。戸惑った色違いの目に、息を飲みそうになった。あの男の目。
「別に僕は欲求不満で睡眠不足だったとかじゃないんだからね。それがわかってるんだったら、いいからね」
 言えば言うだけ、真実が滲み出そうだった。シェリが心得た、とばかりにやりと笑った。竜の笑みは形だけは恐ろしい。フェリクスには、優しく映る。
 ちろりと出した舌が、首筋を舐めた。知らず身を震わせて、フェリクスはシェリの背に指を滑らせた。心の中で呟く。
 あの男とは違う。ここにいるのは、小さな銀の竜。それでも、あのころと同じように触れてくる体。
 寂しかった。悲鳴を上げても変わらない。いっそう募るだけ。だからフェリクスは黙っていた。体に変調をきたすまで、黙っていた。
 気づいたのは、誰が最初だったのだろう。どうでもよかった。シェリが、触れている、この肌に。竜のざらついた肌が触れるたび、あの男ではないと叫びたくなる。
「……それでも、同じ」
 何度繰り返しただろう。シェリとタイラント。別で同じ。シェリは聞かなかったふりをして、首筋を軽く噛んだ。
「ん」
 竜の鋭い牙だった。本人は、甘噛みのつもりだっただろう。それでも血が滲んだ。
「いいよ、平気」
 慌てて滲んだ血を舐める竜の背をフェリクスはゆっくりと撫で下ろす。
「続けて」
 おかしな気分だった。人が見たら、なんと思うことだろう。竜に抱かれる自分を見て、アリルカの民はなにを思うだろう。
「どうでもいいか」
 呟けば、そうだとシェリが鳴く。それですべてがあるところに収まった。いまだ、心は疼く。こうして触れているのは、あの男ではない。
「でも、一緒」
 こんな欠片でも、最期まで自分のそばにいる、そう誓った男の目を思い出す。すぐ目の前にあった。
「寂しくないよ、平気」
 嘘かもしれない。きっと、嘘だ。シェリがいても、寂しい。それでも慰めてくれるあの男の意思を感じる。
「だから、いいの」
 目を閉じもせず、フェリクスはシェリを見ていた。もどかしげに服と格闘するさまに目許をわずかに和ませて手を貸した。
「自分で脱ぐよ。脱がせるの、好きだったんだけどね」
 それを言ってくれるなと言うよう、シェリが情けない顔をした。竜の形では、脱ぐものなどないじゃないかと言われた気がした。
「鱗でも、はがしてみる?」
 戯れに竜の肌を弾けば悲鳴が上がる。本気の声ではないそれが、またもあの男を思い出させ一瞬フェリクスは目を閉じる。
「痛いって、どんなことだか、思い出せなくなりそうだよ」
 あまりにもそれが、強すぎて。シェリがわずかに体を強張らせた。それから長い首を優雅に振って、フェリクスの脇腹に額をこすりつけた。
 ざらりとした竜の肌に、思わず吐息が漏れる。身をよじったフェリクスを攻め立てるよう、シェリは何度も繰り返した。気づけば、上がる呼吸。
 羽音がした。とろりとした目でシェリを探せば、いた。足の間に。
「なにするの――」
 言うまでもなかった。シェリが舌を伸ばす、フェリクス自身に。かすかに恐怖を感じた。口許から覗く鋭い牙。
「あ――」
 それが快楽を増していた。わななく体を押さえつけるシェリの前脚。力が入りすぎたのか、鉤爪が肌に傷をつけて血が滴った。
「舐めて」
 流れた血に動揺したシェリに言う。自分では、濁って嫌いな声だった。あの男は、好んでいた。悦んでくれている、そう言って。
「違う。そっちじゃない。そこ、平気だから」
 太腿に滲んだ血を舐めようとするシェリに言えば、竜が笑った気がした。嬉しそうに。それにフェリクスはほっと息をつく。
 そしてすぐにまた呼吸を止める。彼自身に加えられる舌の愛撫。人間のそれとは違う、竜の舌。背筋がぞくぞくとした。
「ねぇ。あなたも。僕だけは、いや」
 竜は、なにを快楽と感じるのだろう。そんなことは知らなかった。どうして欲しいか尋ねるフェリクスに、シェリは戸惑うよう顔を上げた。
「あなたも触りたいの。こっち来て。手が届かない」
 伸ばした腕に、シェリが飛び込む。抱きかかえて体を起こした。膝の間に抱えれば、ちょうど顔が目の前。フェリクスは竜にくちづけ、その背を撫でる。
「どこ?」
 持ち上げて、腹を探った。竜の生殖器がどうなっているのかなど、考えたことはなかった。シェリがもがいてはフェリクスの耳を噛んだ。
「こっちじゃないの。なに」
 額で腕を小突かれた。それが体を触れと言っているのだと気づき、フェリクスはシェリのいいようにする。竜がくるる、と鳴いた。
「気持ちいい?」
 うなずきともとれる長い首の揺らぎに、フェリクスは目を和ませた。そんな余裕は許さない、とシェリはくちづけてきた。可愛くなどない、濃厚なそれ。入り込む舌に自らのそれを絡めつつフェリクスは竜を愛撫する。
「ねぇ」
 シェリ、とは呼ばなかった。いまだったら、呼べそうな気がした。それでも呼んでしまっては、浮気でもしているようで、いやだった。
 シェリはわかっていると目を細めてうなずく。自分には全部わかっているから、それでいいと。思わずきつくシェリを抱きしめた。
 泣きそうだった。泣けなかった。代わりに、シェリの色違いの目から涙が零れた。




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