広場中が静寂に包まれたようだった。倒れ伏したフェリクスの傍らでシェリが小さく鳴く。静かに佇むリオンに声をかけるものなどいなかった。 「あなたたち」 柔らかな声だった。そのはずだった。それなのに彼の弟子たちが揃って姿勢を正す。そのような時でなければ笑えてしまう情景が、エラルダにはいっそ恐ろしい。 「見ましたね? ご存知のように、この人はこういう人です。魔法を志す者は誰しもこのような傾向を持ちますけれど、フェリクスは図抜けて酷い」 あからさまについた溜息に、時間が戻ってきた。エラルダまでほっと息をつき、いままで息を潜めていた自分に気づく。 「必死になってるこの人を止めることができる人は現時点でいません」 リオンの目がちらりとシェリを捉える。真珠色の竜は身の置き所がないとでも言うよう小さくなった。 「ですからね、あなたたち。この人が倒れないで済むよう、手助けするんですよ。暴言や暴挙に怯むんじゃありません。そんなの、見慣れてるでしょ?」 「ですが、リオン師……」 「怖いんですか?」 リオンがにこりと笑った。精一杯の努力の結果だったのだろう、声を上げた魔術師は口をつぐんだ。 「今度の戦争で、この人が戦力にならないほど怖いことはないですよ? 死にたくなかったら、二度とこんな状態のフェリクスを見ないですむよう、努力なさい」 青ざめた魔術師が、一斉にうなずいた。エラルダは、そちらのほうが恐ろしい、そう思う。彼ら魔術師にとって、倒れるフェリクスなど、見たこともないものだったのだろう。彼らの表情からそれがありありと窺えてしまって、エラルダはぞっとする。リオンはいったい何をしたのか、と。 「あ、それから」 きゅっと唇を噛みしめて自分たちに何ができるのかを話し合おうとしている魔術師たちにリオンは微笑みかける。 「このことは、忘れるんですよ。いいですね? 命の保証はしませんよ、私」 そう言ってリオンは視線をフェリクスに移した。慌ててうなずいて、そして何も見なかったことにするつもりだろう、魔術師たちはおろおろと去っていく。その後姿にリオンは溜息をついた。 「あなたがたも忘れてくれとは言いませんけど、話題にはしないでくださいね」 困り顔のリオンに言われるまでもなかった。アリルカの民もまた、揃ってうなずいていた。 「あの、リオン」 「はい?」 仲間の視線に押されるよう、エラルダは声を上げていた。本当は、この場から立ち去りたいほど恐ろしい、そう思っていたはずなのに。そんな自分をファネルが笑っている気がした。 「いったい、何を……」 「あぁ、フェリクス? ちょっと眠りの魔法をね。まったく……魔法抵抗の強さは師匠譲りといいますか、ほんとに強いんだから。二人がかりでやっとですよ」 「え――?」 「おや、気づきませんでした? 私とシェリと、二人でかけてたんですよ」 言われてはじめてエラルダはシェリの異常に気づいた。思えばフェリクスが倒れたと言うのに、シェリは少しも取り乱していない。 「……君が?」 思わず話しかければ真珠色の竜は困り顔で鳴いた。いまさらのよう、心配なのだろうか、鼻先でフェリクスをつついている。 「ところで、シェリ」 先ほどと同じようなリオンの声。咄嗟にシェリはフェリクスの陰に隠れた。 「出てきなさいって。苛めませんから」 きゅう、とシェリが鳴く。それに甘えてもだめだ、とリオンが竜を睨んだ。 「あのね、シェリ。こんなことになった原因の大部分はあなたにあるんですよ。原因もあなたならば、責任もあなたです」 「リオン、そんなことを言っても」 「いいんですよ、エラルダ。事実ですから。わかってるでしょ、シェリ。いまはフェリクスも寝てることですしね、あえて言いますよ」 一度言葉を切った。エラルダは耳を塞ぎたくなる。かまわずリオンは言葉を続けた。 「――タイラント」 空気が凍った気がした。フェリクスは眠っている。それでもその皮膚で彼の名を聞き取ったとでも言わんばかりに。 「あなたは何者ですか、タイラント。彼にとって、あなたはなんですか。あなたは彼に何ができるんですか。あなたしかできないことが、あるんじゃないですか」 ゆっくりとシェリに、否、フェリクスに近づいた。警告するよう鳴く竜に片手をかざし、リオンはフェリクスを肩に担ぎ上げる。 「あなたは、自分を信じないんですか。タイラント。あなたがタイラントならば、彼にできる、するべき、しなくてはならないことがあるはずですよ」 まるで対等のようだった。そこにいるのが人間と竜ではなく、二人の男が話し合っている、そんな幻影をエラルダは見た。 「あなたの見目形がなんです? そんな些細なことを気にするフェリクスですか? あなたが赤地に緑の花柄でもかまわないと言い切った人ですよ。まったく、どういう色彩感覚をしてるんだか。せめて逆にして欲しかったですねぇ、配色」 問題はそこなのか、と思ったエラルダ他アリルカの民一同は、とても口を挟めない。シェリが情けなさそうにしているせいもあった。彼ら三人に共通する過去の話題なのだろう、それを察してみなが口を閉ざしていた。 「と言うわけで、エラルダ」 「はい!」 「……どうしました? 別にあなたまで緊張することないでしょ?」 思い切り緊張させる光景を見せておいてリオンは言い放つ。それもにこやかに。本人はまるで気にしていないらしい。少しばかり肩を落としてエラルダはうなずいた。 「それで、なんでしょうか」 「えぇ、フェリクスがこんな状態ですからね、しばらくは弟子たちが魔法の授業をすることになります。その辺をよろしくお願いしますね」 「しばらくとは……。いえ、不満に思っているわけではなく。心配です」 エラルダの言葉にシェリが鳴いた。声につられるようそちらを見れば、感謝の眼差し。黙ってエラルダは首を振る。自分には、こうなるまでどうしてよいかわからなかったのだから、と。それを察して、その上でまたシェリは鳴いた。ありがとうと。 「そうですねぇ。フェリクス次第ですね」 「魔法の眠りと言うのは、術者が解くまで覚めないものでは?」 「まぁ、たいていは。いまはフェリクスの体力が回復し次第解けるようにしておきますから」 なんでもないことのようにさらりと言うリオンをはじめて偉大な魔術師だと民は認識した。魔法を生来使える種族だけに、リオンのしたことの驚異は身にしみて理解できる。 「どうですかね、とりあえず三日くらいは寝っぱなしでしょうね。あとはシェリ次第ですよ」 「シェリ?」 「彼がどれだけ早くフェリクスをなだめることができるか、です。わかってます、シェリ? あなたは怒られるだけで済むでしょうけどね、命がけですよ。私」 言われたシェリが前脚で頭を抱えた。もうそれ以上言ってくれるなと言わんばかりの仕種の愛らしさにみなが笑い声を上げる。 「可愛いふりをしても駄目です。あなたがどんな男か知ってるんですよ、私」 仕種に騙されなかったのはリオンだけだった。笑いながら彼を見つつ、エラルダは思う。外見に自分は騙されている、と。 小さくて可愛いシェリ。温和な笑みのリオン。冷たく無表情なフェリクス。彼らはみな、それだけではない。当たり前のことかもしれない。が、いまそれに気づいた。 「人間って、面白いでしょ?」 エラルダの思いに気づいたよう、リオンが視線を向けて笑った。 「……はい」 一概には、言い切れない。とても、言い切ることなどできない。自分たちは異種族だというだけで、それだけの目にあっている。 だが、それでもなおエラルダは思う。少しは、共に歩くことができる人間がいるのかもしれないと。友となりうる人間がいるのかもしれないと。 「さて、行きますか」 「どちらへ?」 「フェリクスを置きに、ですよ」 自明のことを言われてしまってエラルダは赤面する。仲間たちに笑われて、なぜか自分がとても若くなった気がした。 「帰り次第、弟子たちに魔法の訓練を再開させますから。ファネル?」 「なにか」 「戻ったら、もうちょっと遊んでください。今度は剣で立ち会います」 「了解した」 短いやり取りにリオンが微笑む。つられたのだろう、ファネルが微笑んだ。それにエラルダははっとする。民のうち、半エルフが同じ顔をした。 闇エルフが、微笑んでいた。皮肉でもなく、嘲笑でもなく。心からの澄んだ笑み。それを闇エルフが浮かべている。 リオンがアリルカに来て以来為したどんな驚異より、驚異だった。誰も何も言わない。黙って微笑む。静かになった広場に、喜びが満ちていた。 「ほら、シェリ。行きますよ」 リオンは確実にそれを見て取ったはずだった。それでも彼は何も言わない。もう一度笑みを浮かべて会釈をする。それが彼なりに、この瞬間を壊したくないことの表現だと、みなが理解していた。 「あぁ、そうだ。シェリ」 肩の辺り、担がれたフェリクスの顔を窺うよう飛び回るシェリにリオンが話しかけていた。 「フェリクス、絶対に目が覚めたら私のこと殺そうとしますよ」 抗議の声は竜のもの。そのようなことはさせないと言うのか、それともそんなことはないと言うのか。どうやら前者らしい、とエラルダは見当をつけた。 「そうしてくれるとありがたいですね。私もまだ死にたくないですし、フェリクスを止めようと努力してくれたら、私への友情の表れだと解釈しますよ」 茶化して言うリオンの、フェリクスを担いでいないほうの肩にシェリが飛びかかった。 「痛いじゃないですか」 さらにもう一度。去っていく二人の後姿にエラルダは思う。あれもまた、人間の形の一つだ、と。あそこにいるのは竜の形と人間ではあっても、間違いなくそうなのだと。 「さぁ、私たちもできることをしよう」 手を打ち鳴らし、エラルダは言う。戦争の準備だった。戦うための訓練だった。それでもこの上なく晴れやかな気分だった。 |