アリルカの民が、ざわめいていた。リオンが人間を連れ帰る、と言う話しは聞いていた。承認もしている。
 それでもこの場に現れた人々に、動揺めいた呟きを漏らさずにはいられなかった。フェリクスは、ただ静かに佇む。
 彼の緊張と、そこから発せられる怒りに気づいたのはあるいはシェリのほうが先だったかもしれない。が、リオンはにこりと笑ってそれをいなした。
「フェリクス――」
 懐柔しようと言うのか。リオンの意図を察してフェリクスは彼を睨んだ。困り顔でリオンが言葉を止め、人々を視線で呼ぶ。
 主に、リオンとフェリクスの弟子だった。イーサウに避難していた者のうち、師とともに戦う、神人の子らとともに戦うと言う意思を見せた者。ちらほらと神官らしき者もいた。
 元々、星花宮の魔術師は、神人の子らに対する嫌悪がないに等しい。星花宮には、メロールがいた。アルディアもいた。直接彼らを知っている者もいたし、知らない者もいた。それでもあの場に半エルフの魔術師がいた、それが大きかった。
 だからともに戦う、そう言うことが彼らにはできる。迫害される一方の魔術師として。なぜ迫害されているのかわからない神人の子らの助けとなりうる力の持ち手として。
 意外と大勢が集まったものだ、とフェリクスはわずかに残った冷静さの片隅で思う。すべてが独り立ちを許した魔術師だった。これは大きな戦力となる。
 すっとフェリクスが息を吸った。まるでその音が響き渡ったかのよう、あたりのざわめきが一瞬で静まった。肩の上、シェリが鳴く。
「リオン。説明しろ」
 フェリクスにしては珍しい、激高も露な命令口調。アリルカの民は知ったことだろう、フェリクスとリオンと。いままでどれほどの口喧嘩を重ねようと、彼らの間ではそれは戯れに等しいものだったことを。
「まぁ、怒るのはわかってたんですけどねぇ」
 ぼやくリオンに視線も向けず、フェリクスは一点を見ていた。たった一人の人間を。恐れもせず、男が歩み寄ってくる。
「フェリクス師」
 ひたと見つめながら、膝をついた。シェリが緊張して無意味に羽ばたくのをフェリクスは感じている。無言で続きを促した。
「どうか、帰さないでください。どうか、私にも戦わせてください」
 見上げてくる視線の強さ。それは買おう。一言も発せず、フェリクスは男を睨み据えていた。そんな彼をどうしたら説得できるのか、と男が首を振る。緩く結んで前にまわした長い髪が、男の心情を語るよう、揺らめいた。
「イメル」
 リオンが男を呼んだ。それでようやくフェリクスは彼の名を思い出す。無論、自分の弟子ではなかった。リオンの弟子でも。
「やっぱりあなた、イーサウに戻った方がいいです」
「そんな、リオン師!」
「現状、不和は看過できません」
 中々聞くことのできない、リオンのきっぱりとした声だった。リオンの目が、アリルカの民に向けられる。いま自分は彼らとともにあるのだ、と。
「フェリクス師。リオン師。どうか、私も戦わせてください。仇を討たせてください。亡きタイラント師の――」
 一瞬のことだった。シェリが飛び立ったのも、いつ発動させたかわからない氷の剣がフェリクスの手に現れたのも、イメルが驚く暇もなかった。呼吸が、止まる。
「リオン」
「あのね、フェリクス。ちゃんと説明はしてありますからね、私。その後のことは私の責任の範囲外です」
「だろうね」
 冷たく言ってフェリクスはイメルを見据えた。もしもこれ以上、声の温度を下げることができるのならば。
「イメル」
 呼び声に、シェリが反応した。咄嗟にイメルの前を飛び、フェリクスにはだかる。
「おいで」
 フェリクスが、呼んだ。シェリは、逆らえない。逆らうつもりもない。渋々飛び戻り、肩の上に上がろうとした。が、それをフェリクス自身の手が拒んだ。甘い鳴き声に、フェリクスが言う。
「あなたの弟子を、殺すつもりはない。殺すつもりだけは、ね」
 彼の言葉の意味が分からずいぶかしむイメルに視線を向けなおしたとき、フェリクスは彼の魔法のよう、氷そのものだった。
 目の前を飛ぶシェリを、優しく断固としてフェリクスはよける。傷を負わせないためだと、見抜いたのはリオンただ一人。
「事情は、聞いているはずだ」
「はい、フェリクス師。ですから――」
「言い訳は、要らない。お前は、リオンの言葉を理解していなかった。あの男も、さぞがっかりしていることだろうよ、自分の弟子の不甲斐なさにね」
 するりと剣を掲げた。氷の剣が、彼そのもののように禍々しく煌く。シェリだけが、美しいものでも見たかのよう、柔らかな鳴き声を上げた。
「私は――」
「僕の前で、あの男の名をよくぞ出したものだね。その蛮勇に免じてやる」
 なにが起こったのか、誰もわからなかった。武器も扱うエイシャの神官たるリオンの目にすら、わずかに残像が映っただけ。
 息を飲んだイメル自身、なぜ自分がそうしたのか、わからなかった。ふ、と視線が動いた。地面の上、何かがある。
「ひ……」
 小さく、悲鳴が上がった。今更だった。大地の上、束ねられたままの髪の束が、落ちていた。自分の髪だと、気づくまでにさらに一瞬。
「僕の前で、二度と再びあの男の名を出してみろ。――死ぬ覚悟を決めたと判断する」
 いつの間にか、フェリクスの手に剣はなかった。刃を持っていては、シェリに誓った言葉が守れないとでも言うように、消えていた。唇を引き結び、竜を肩に乗せ、フェリクスは背を返す。民が一斉に道を開けた。
 イメルは言葉もなくフェリクスを見送る。うなずくこともできなかった。必要ない、そう拒まれた気がした。
「ほら、イメル。立ちなさい。いつまでそうしているつもりです」
「リオン師――」
 声を出せば、掠れていた。震えていた。今になって蘇る、恐怖。視線が地面に向けられ、落ちたままの髪を見やる。
「フェリクスに切られなかったことを感謝すべきですね」
「私は」
「忠告したはずですよ、私。タイラントのことに関してだけは、いくら私でも庇いきれませんから。ほんとに次はないですよ。あなたがたも気をつけるんですよ、ちゃんとね」
 飄々と言ってリオンは連れてきた弟子たちに更なる警告を与える。実見した彼らは一様に強張った顔をしてうなずいていた。
「フェリクス師は、タイラント師を悼んでは、いらっしゃらないのでしょうか」
 ぽつりと言ったイメルにリオンは呆れ顔を隠さなかった。
「あの殺意の塊を見て、どうしてそんな馬鹿なことが言えるんでしょうねぇ。彼の名を耳にするだけでも苦痛……いや、苦痛すら感じられないほどの苦痛、と言うべきでしょうか」
 リオンの目が、フェリクスが去っていったほうに向けられる。痛ましい、そんな目をしていた。フェリクス本人の前では決してしない表情に、弟子たちは傷の深さを思った。
「ほんとはね、タイラントが死んだときに、彼がフェリクスを殺せばよかったんです」
 弟子たちが息を飲む。なんということを言うのか、そうアリルカの民が怒りを露にする。ほっと唇をほころばせ、リオンは笑った。
「ありがとう。彼のために。彼に代わって」
 にこりと、笑みを浮かべたままリオンは民に言った。笑顔が、痛いものだと初めて知った神人の子らもあるいはいたのかもしれない。目をそらし、唇を噛む者が多くいた。
「でもね、本当にそうなんですよ。そうすれば、フェリクスは寂しくなかったでしょ?」
「ですが、リオン師」
「そうです。タイラントは、フェリクスを殺せなかった。生きることを望んだ。結果、憎悪が殺意を着て歩いているようなフェリクスです。それをタイラントが望んだとは、思えないんですけどねぇ。仕方ないですね、こればかりは」
「ですが。普通に悼むこともできたはずです。仇を討つまでは、いいでしょう。共感できます。ですが」
「普通って、なんですか?」
「え――」
「あれが、フェリクスの普通ですよ。フェリクスが憎悪に狂うことはありません。ちゃんと止める人がいますから」
 フェリクスの暴走を懸念して、否、恐怖しているのだとようやくのことでリオンは気づいた。弟子の不甲斐なさ、と先ほどフェリクスは言ったけれど、まったく同感だった。
「リオン師が、ですか」
 疑ってはいない。けれど可能なのか。そんな目をして弟子に見られては溜息のひとつも漏れ出るというもの。
「私にフェリクスを止めろですって? 愚か者を弟子に持った覚えはないです、私。そんなことが可能かどうか、考えてから物をおっしゃい」
 あからさまに呆れて見せれば、羞恥心の一つも湧き上がるだろう。リオンの言葉に弟子たちみながうつむいた。
「ちゃんといたでしょ、フェリクスの肩に」
「あれですか? 小型の、ドラゴンに見えましたが……?」
「タイラントですよ」
 肩をすくめるリオンに、なぜか弟子たちの足が下がる。リオンは揃って同じ動きをするものだから、思わず笑い出しそうになるのを師の権威のため、とこらえていた。
「タイラントの魂の欠片、と言ったほうが正しいですけどね。イメル、わかってると思いますけどね、さっきあのシェリが、我々はあの竜をそう呼んでますが、彼が止めなかったらあなた、ばっさり真っ二つでしたからね?」
 改めて、タイラントの弟子を見るリオンの目は、冷たかった。忠告を無にされた、そう思ってはいなかった。理解していなかったのだ、と思う。自分の言葉をではなく、フェリクスとタイラントの絆を。それが断ち切られた無残さを。
「まさか、そんな。あれがタイラント師だなんて!」
 誰からともなく上がる声に、神人の子らは不思議そうな顔をした。彼らの目には、もしかしたらあれが人間の魂の欠片だということが見えるのかもしれない。ふとリオンは思っていた。




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