数日後、リオンがアリルカに戻ってきた。あまりにも早い帰還に、民はみな彼の失敗を悟ったものだった。広場に集まった彼らを横目で見やりつつフェリクスはリオンにうなずく。
「ちゃんとお帰りなさいって言ってほしいなぁ。無駄でしょうけど」
「わかってるなら無駄口叩かないで。鬱陶しい」
 ぴしりと言い返したフェリクスの肩でシェリが笑った。二人を見比べ、エラルダは目を瞬いていた。リオンが留守の間フェリクスに感じた脅威が薄らいでいた。思わず笑みが浮かぶ。
「何にやにやしてるの、エラルダ。気持ち悪いよ」
「いえ。別に。お帰りなさい、リオン。その……いかがでしたか」
「イーサウですか? もちろん同盟を結んできましたよ。そのために行ったんですし」
 なんでもないことのように言ったリオンの言葉をその場の誰しもが一瞬見失う。まるで正反対の言葉に聞こえていた。
「どうしました?」
 そんな民の様子にこそリオンは戸惑ったのだろう、ぱちぱちと目を瞬いている。肩の上、笑い続けているらしい竜にフェリクスは手を添えてそっと撫でていた。
「あの、同盟を?」
「えぇ。……それで、よかったんですね?」
 急に心配になってしまったのだろうリオンが不安そうにエラルダに問えばもちろんだ、と彼はうなずく。
「あまりにも……早いので。とても――」
「あぁ。そういうことでしたか。ほら、エラルダ。あなたとここに来たとき、転移したでしょ?」
 覚えているか、とでも言うようリオンが首をかしげる。忘れるはずもなかった。驚異的な体験だった。
「イーサウの場所はわかってますし、当然ここの場所もわかってるわけですし。行き帰りは転移魔法でちゃちゃっと」
 さらりと、あたかも馬に乗って移動すれば早いだろうとでも言わんばかりのリオンの態度に神人の子らが揃って仰け反った。
「それにしては時間かかってない?」
 フェリクスの問いかけに、いまだ正気を保っていた民が一様に訝しげな顔をする。フェリクスの言葉の意味が、理解できなかった。
「まぁ、色々と折衝もしましたしねぇ。あぁ、そうだ。仮ではありますが、通商条約のようなものも結んできましたから。こちらに戻って話し合って、もう一度折衝することになります」
「それでいいよ。いいよね?」
 フェリクスなりに、気を使っているのだろう。ちらりと民のほうに目を向けて問いかける。揃ってみながうなずいた。気を、飲まれていた。
「で。リオン」
 くぅ、とシェリが鳴いた。いかにも楽しげに。フェリクスは竜を抑えるよう、その背に手を置く。
「なんでしょう?」
「結果だよ、結果。何発だったの。さっさと吐きな」
 淡々と畳み掛けられた言葉にエラルダが小さく声を漏らした。驚きのそれだとでも思ったのだろうか、二人の視線が向けられてエラルダは首を振る。
 ある意味では、驚いていた。よい意味で、とても、驚いていた。フェリクスの態度にわずかな気配。明るさに似たもの。決して朗らかではなく、リオンのいない彼を知らなければまったく変化はないと見えただろう。それでもほんの少し、フェリクスの気配が和らいでいる。狂気のような鋭さがなくなっている。
「フェリクス――」
 口ではなんとでも言える。だがフェリクスにとってリオンの位置が、ようやくエラルダは飲み込めた。
「なに?」
 思わず呼んでしまっただけのエラルダは慌てて手を振り、それでいかにもまずい、と思ったのだろうか。上の空で話題を探す。
「その、何発、とは?」
 話が見えなかった。リオンはいったい何をしてきたのだろう、イーサウで。ようやくのことでそんな疑問が浮かんだ。
 そんなエラルダを前にして、リオンに同行したメラニスが痛ましげな顔をしている。うっすらと、青ざめてすらいた。
「メラニス?」
「……信じがたい事実と言うものがあると知ったよ、私は。もう驚くべきものなど見尽くした、と思っていたはずなのだけれど」
「いったい?」
 それは民が揃って感じた疑問だっただろう。メラニスがそこまで驚くようなものとは何か、と。神人の子の長い人生の中、はじめて見るものなどすでに少ない。
「リオンは――」
 自分が話していいか、と言うようメラニスは言葉を切ってリオンを窺った。それににこやかに彼はうなずき、そしてにんまりとフェリクスを見やる。思わず目をそむけたフェリクスの肩、シェリが華やかな笑い声を上げていた。
「……本当に、右腕山脈に穴を開けてしまった」
「え?」
 ぽかん、とした民の顔。エラルダはそれを見たはずだった。自分も同じ顔をしている、とも思った。
「隧道を通す、と言っていたけれど。本当に通してしまったんだ。……信じられない、この目で見てもまだ」
「ねぇ、メラニス」
「はい?」
「あなた、見たんだよね。だったら何発だった? 魔法、放った数、数えた?」
「はい、数えました。驚きました……」
 瞼の裏に衝撃の映像が蘇ってしまったのだろう、メラニスは呆然と虚空を見やる。そんな彼を苛立たしくフェリクスは促す。
「三回でした。たった三回の、魔法で。隧道が……」
 フェリクスの声が聞こえているのかどうか。メラニスは虚ろに微笑った。つられるよう、エラルダまで笑い出す。
 ちらりと見やったフェリクスは、嫌なものを見るかもしれないと思った。彼らが、アリルカの民が、神人の血を引く彼らが。あるいは魔法を恐怖する可能性。
 目をそらしそうになったフェリクスの髪を、シェリが咥えて引っ張った。
「痛いって」
 そしてフェリクスは見た。民が揃って浮かべている表情を。感嘆だった。憧れだった。力に対するそれではなく、その力を制御し、扱い得る存在に対しての。知らず、ほっと息をつく。それを祝うよう、シェリが小さく耳許で声を放った。
「どうです、フェリクス。ちゃんと証人付ですよ」
「なにがさ」
「賭け。したでしょう? 忘れたんですか。ずるいなぁ、自分が負けたからって」
「リオン」
「はい?」
「ちょっとこい」
 昔の彼だったなら、その言葉はにこやかな笑みとともに放たれていた。誰もがぞっとして下がる類の笑顔。いまの彼にそれはない。
「いやですよ。あなた、何かする気がありありと窺えて、怖いです」
 当たり前だ、と言う代わりにフェリクスはわざとらしく己の体を抱いたリオンを睨み据えた。わずかに肩を動かして、そそのかす。
「行ってきなよ」
 小声とともにシェリが飛び立つ。さも嬉しげに。フェリクスの報復を肩代わりした、と言うよりは帰還を祝っていた。
「はい、ただいま戻りました。……シェリ」
 一瞬のためらいをフェリクスは聞き逃さなかった。そして、無視した。リオンの声にならなかった失言を、許す。そっと目を閉じ、肩に戻る小さな竜の重みを感じた。
「手伝って」
「フェリクス。何するんです?」
「負けたし。払うよ。やるのはこいつだけど」
「後でいいです、後で」
 ひらりと手を振ってリオンは退けた。まるで賭けなど冗談だ、と言わんばかりに。その態度が癇に障ったが、あえてフェリクスは何も言わない。リオンに腹を立てるなど、日常のことだった。
「一応、隧道のことも報告しておきますね」
 そう言って真面目な話にすぐさま戻ったリオンに民の目が集中する。それに照れくさそうな顔をしつつリオンは語った。
「イーサウでなんて呼ぶのかは知りませんけど、とりあえず隧道は海まできっちり通ってます。大穴開けましたからねぇ、輸送に問題は一切起きないはずです」
「穴の元はどうしたの」
「中身ですか? 一部は隧道内と路面の舗装に。残りは港と桟橋の建設に。元が溶岩ですから、加工も簡単で」
 普通は、簡単ではない。民のみなが思ったはずのことを二人の魔術師は彼らの感覚こそが常識だ、とでも言わんばかりに話し合う。
「フェリクス。溶岩、とは?」
 エラルダの問いはおそらくみなの疑問を代表したものだろう。フェリクスは一つうなずいてリオンを見た。
「山に穴を開けるんで、中身を溶かしちゃうのが早いかな、と。それで、なんというか。要するに熱してどろどろにしたわけです」
「相変わらず酷い説明だね。――それにしても、三発か」
「ご不満でも?」
 茶化すようなリオンをフェリクスは睨みつけ、そして溜息をつく。読み間違えたことが許しがたい。シェリが慰めるよう覗き込んできたとき、フェリクスはかすかに唇を噛んでいた。
「フェリクス。忘れてますよ。このところ、あなた空を見ました?」
 柔らかな声に鋭くフェリクスは息を吸った。なぜとない屈辱を感じる。そして、感じさせたリオンに感謝も覚える。
 冷静さを、いまだ取り戻したとは言えない自分を自覚させた、リオンは。おそらく決して取り戻すことがないだろうこともまた。
 頬に摺り寄せられるシェリの額にフェリクスは竜の思いもまた感じていた。それでいい、自分たちがいる、と。及ばないところは、いつでも手を差し伸べるから。二人ともがそう言う。言葉にはせず。言葉にはならず。
「そうか……満月か」
 身を振り絞りたくなる思いの代わり、フェリクスは声を絞り出す。苦い声に聞こえればいいと思った。二人だけは、騙されないと思った。
「そうですよ。大地との親和性が高いですから、私。満月のときって、魔法がよりいっそう効率よくかかるんですよね」
「大地と月の相関関係、証明したのってあなただったよね。そういえば」
 半ば呆れ声で言うフェリクスに、民の笑い声が重なった。リオンの飄々とした口調が、民の緊張を解きほぐしていく。
 ふとリオンが人の気配を感じて振り返るのに、つられたようフェリクスもまた振り向く。その視線が捉えたものに、彼は強張っていた。




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