そうしてフェリクスは訓練を始めた。訓練に耐え得る者を選んだのは、シェリだった。集まった人々を前にフェリクスは無言で佇む。 「頼もうかな」 呟きの意味を解したものはいなかった。ただ彼らは見た。彼の肩から小さな銀の竜が飛び立つのを。自分たちの上を飛び回り、ある者の上でしばし留まり、また飛んでいく。何度となく繰り返されるうちにそれが何かを理解した。 「フェリクス?」 中には当然のよう、エラルダがいた。彼もまた魔法で戦うという意思を持った者だった。頭上に一瞬留まったシェリを見上げ、けれどフェリクスに問う。 「選別。僕がやってもいいけど、一々見て周るの、面倒だから」 投げやりな態度に不満を持つものは意外なほどにいなかった。そのことにフェリクスはわずかな不快の念を持つ。 自分の心を見抜かれていること、それがたまらなく嫌だった。竜に任せる。自分の体から竜を離す。その決心をしたことを見守られている、そんな気がしてたまらなかった。 「もういいの。そう――。じゃあ、今これが選んだ人。残って。あとは解散」 「フェリクス」 「なに」 エラルダが手を上げていた。少しだけ、過去を思い出したフェリクスの唇が引き締まる。まるで星花宮での授業のようだった。 「選別の、根拠を教えてもらえませんか」 「すぐ覚えそうな人」 「それは……?」 あまりにも単純な言葉にエラルダが戸惑う。選ばれなかった者もやはり、戸惑っていた。言うまでもなく、選択されなかった者の中にも神人の子らはいる。生来の才能として、魔法を使える彼らが。 「エラルダには言ったと思うけど」 そう言ってから、エラルダの意図を悟った。自分は知っている。だが彼らは知らない。フェリクスと言う闇エルフの子の魔術師を信用してはいるが、解説はするべきだ、と。たしなめられた気がした。 「……リオンみたい。せっかくボケ坊主がいないのに」 呟きに肩の上に戻ってきたシェリが吹き出した。幸い、他の誰にもその声は届かなかった。 「僕が訓練を施すのは、すぐさま戦力になり得る人。いくらなんでも全員の面倒はみてられない。だから僕が訓練した人が、別の人を訓練して。先輩格ってわけだね」 その言葉に選ばれなかった者が納得してうなずいた。ふ、とフェリクスは彼らの誇りを思う。戦う、と言う強い意志を感じた。だからかもしれない、言ったのは。 「戦力外だと、見做したわけじゃないから。単純に、僕の言葉が通じそうな人に残ってもらったと思って」 去っていく彼らに向かってフェリクスは言う。みながうなずいた。ぞっとした。彼らを戦いの中に落とし込むのは自分だ、と。 肩に手をやったのは、無意識だった。無論、はじめから戦うのはわかっている。自分ひとりで戦うのではないことも、わかっている。が、他者の命を賭けるのだとは、いま理解した。 「なに?」 自分からシェリに手を添えたくせ、フェリクスは竜に尋ねた。シェリはそれで彼の意図しない仕種だったと気づいたのだろう。無邪気を装った目をして彼の顔を覗き込む。 フェリクスが訝しげな顔をし首をかしげた。何かを言いかけた唇が引き締まる。改めて残った者たちを見た。 「さて、はじめようか」 ぎゅっと握られた拳を見たものはいただろうか。いたとしても意味に気づいただろうか。エラルダは見た。何も、言わずに。 数日の後、驚くべきことに選ばれた者のうち神人の子らのほとんどが、その子らの半数ほどが、鍵語魔法の初歩を理解した。 「さすがに早いね」 フェリクスはゆったりと言う。感情の表れない声音であるにもかかわらず、どことなく満足そうだった。 「フェリクス」 エラルダが恐る恐る彼に声をかけた。彼に鍵語魔法を習う以上、師と呼ぶべきだと思っていたのだろう、フェリクスが何を言おうとも。 けれどフェリクスはそれを拒んだ。異常とも言えるほどのきつさで拒んだ。束の間、エラルダは彼に殴られることすら覚悟した。 飛んでくるはずの拳はなく、ひたすらに睨み据えられただけだった。そのほうが、つらかった。フェリクスが拒んだ意味が、やっとのことで理解できる。 フェリクスは、弟子を持ちたくなかったのだ、と。強い繋がりを築きたくなかったのだ、と。二度と、失いたくなかったのだと。 以来、彼を師と呼ぼうとするものはいなかった。そっと、エラルダが告げてまわった。これ以上彼を傷つけないために。 「なに」 自分は炎の魔法はあまり得意ではない、と前置きしつつフェリクスは炎の魔法を進んで教えた。それが戦いには効果的だと言って。いまもその訓練をしていた。 「少し、お休みになりませんか」 「別に。平気だけど?」 「ですが」 「忙しいの、わかってるよね」 「それはわかってますが――」 戦争の準備。一口で言えるものではなかった。戦うための手段だけがあればいいというものではない。戦うためには、物資がいる。 フェリクスはそれをないがしろにしなかった。訓練は午前と午後に分けて行われた。人員を入れ替えて。午前中に訓練を済ませたものは、午後には自給のための仕事をする。ある者は畑を、ある者は森に獲物を追い、また別の者は換金可能な物資を探す。イーサウと同盟が可能となった場合、商取引をするために。 そしてフェリクスは休みなく訓練をしていた。午前も午後も魔法を教えるのは、彼だった。朝早く民に混じって働き、夜遅くまで、話し合いに加わる。 「エラルダ」 呼吸を吐き出すようなフェリクスの声だった。咄嗟にエラルダは思う。いま彼が何を言ったとしても、自分には止められない、と。 「あのね、体を動かしてるほうが気が楽なの」 だから止めてくれるな、と彼は言う。フェリクスはどこも見ないでそう言った。 嘘だ、とエラルダは悟る。彼が楽になど、なれるはずがない。気が紛れはするのかもしれない。そのようなことがもしも可能ならば。とてもそうだとは、思えなかった。 「……わかりました」 そうとしか言えなかった。肩の上から心配そうに覗き込んでいるシェリが止められないのならば、いったい自分の言葉など彼に届くのだろうか。 そっと傍らの彼を窺った。頬の辺りが窶れたような気がした。定命の命を持つ種族のことは、よくわからなかった。それでも精彩を欠く、そんな気がして仕方ない。 「なにか、できることがありませんか」 そう問うことしかできない自分を嫌悪しつつエラルダは聞く。フェリクスの視線が向けられて、ぞっとした。ぽっかりと、両目に穴が開いているようだった。 「さっさと魔法を理解してくれるのが一番なんだけど?」 「努力します」 「そうして」 短い言葉にエラルダはうなずいた。一刻も早くこの場を脱したかった。フェリクスを恐ろしいと思うのはこれが初めてではない。それでも、こんな彼を見るのが怖い。 「さぁ、手伝って」 フェリクスが腕を伸ばした。器用に手首に移動したシェリが宙に放り投げられる反動を利用して飛び立つ。 「気持ちよさそうですね」 煌く真珠色の竜に目を細めたエラルダに、フェリクスは答えなかった。 くるりと宙で回って見せたシェリは、遊んでいるわけではなかった。すぐさまエラルダはそれを知る。覚えが遅い者の――それでも通常の速度を考えれば驚異的ではある――そばに降り立ち、その口から小さな炎を吐いて見せた。 「おかしいよね、あれ」 「え?」 「一応、氷竜じゃない? なんで炎が吐けるんだか、疑問で仕方ないよ」 「それは……」 「なんでか聞かないでね? 僕もわからないんだから。とりあえず、あのドラゴンが魔術師の魂を持ってることは、わかってる。僕の手伝いをしたがってるからね、実演してもらってる」 「実演?」 「やってるじゃない、いま」 「あれが――!」 「あの炎、火竜のブレスじゃないんだよ。ちゃんとした鍵語魔法。どうやって発動させてるんだか……まったく。僕の周りは変態ばっかり」 嘆きの口調に、どこか茶化した色合いがある。そう思ったエラルダは彼を見る。そして落胆した。ほんの少しでもいい。ごくかすかなものでもいい。フェリクスが表情に表していたならば、どれほど心が安らぐことだろうか。 「幸いなことにね、ここにいるのは神人の血を引く人たちばっかりだから。魔法の感覚さえ伝えられれば、言葉がなくても覚えられる。あのドラゴンにも、それは可能」 つい、と飛び戻ってきたシェリを肩に止まらせれば、顔を覗き込んでくる。見つめ返せば誇らしげな顔をしていた。 「どう?」 尋ねなくとも、わかっていた。シェリから視線を外し、竜が教えていた人を見れば、彼の手には小さな炎の固まり。 「できるようになったね」 呟きが、あまりにも淡々としていた。エラルダは微動だにせず、自分もまた火球を作る。魔法に集中しているほうが、楽だった。彼を見るよりずっと。 「ほんとに、どうなってるんだか」 不意にシェリの悲鳴が聞こえ、エラルダは火球の制御を誤った。一瞬にして炎が広がり体を舐めそうになる。 「なにやってるの」 シェリを摘み上げ、その口を大きく開かせて中を覗き込んだまま、フェリクスが片手を振っていた。視線すらシェリに据えたまま。 無造作なまでに放たれた魔法によって、エラルダはずぶ濡れになりつつ呆然とフェリクスを見つめる。髪の先から雫が滴った。 感嘆と、驚異と、敬意がその目にあった。フェリクスは彼の目を避けるようシェリの口の中を覗き込む。華やかな悲鳴が辺り一帯、響き渡った。 |