ファネルとの出会いがフェリクスに何かをもたらしたのだろう。彼は起った。今までだとて、逡巡していたわけではない。それでも停滞はしていた、とフェリクスは心に苦く思う。
「そろそろ、働くよ」
 肩の上、シェリが鳴いた。楽しげでありながら、その向こう側に哀切さを帯びた声にフェリクスはふと立ち止まる。
「どうしたの」
 小さな銀竜の尻尾を指先で撫でれば、シェリはなんでもない顔をした。フェリクスは尻尾をきゅっと握る。そのまま引き摺り下ろした。
「あのね、あなた。そんなことで僕を誤魔化せると思ってるの。甘いよ」
 首根っこを摘んで眼前にぶら下げられたシェリは情けない顔をする。フェリクスはそんな竜を睨み据え、目を離さない。
「ねぇ。僕が戦うの、いやだとかって、まだ思ってるの」
 眼光の鋭さとは裏腹の声。シェリははっとして彼を見る。その目は銀の竜ではなく、どこでもない遠くを見ていた。
 シェリが一声鳴いた。その響きに身を震わせフェリクスは現実に帰ってくる。咎められている気がした。
「思って、ないよね。あなたは僕の考えがわかってる。僕が自分を止められないことも、わかってる。それなのに、どうしてあんな声だすの。ずるいよ――」
 シェリには自分の心がわかるのに、自分には竜の気持ちがわからない。フェリクスはそう言う。竜を摘んでいた指を離し、腕の中に抱きしめた。
「あなたが――」
 言葉を交わすことができたならば。何度そう思っただろう。会話をすれば、きっとこの魂が彼そのものではないことに自分はさらに傷つくだろう。
 それでも、話をしてみたかった。他者からみれば、会話は成立しているよう、見える。半ばは真実だ。それでもフェリクスはシェリが肩にいてすら、独りきりだと強く思う。
「わかってる。わかってるよ……」
 自分は死んで、この世にとどまることができない。ならば魂の欠片を。自分そのものでないその存在に傷つくことのないように、この形を。声を失くし、歌を失くし、名残は竪琴の音のみ。タイラントはあの瞬間、そう考えたのだろう。
「僕は、誇ったらいいのかな。それだけのことを瞬時にできるようになったあいつを、誇ればいいのかな――」
 言った途端だった。フェリクスがその場に膝をつく。慌てたシェリが肩から飛び立つのにも気づかなかった。
 フェリクスは口許を覆っていた。かっと目を見開き、ひたすらに地面を睨む。やっとのことで彼の表情を窺ったシェリが見たのは、そんな彼だった。
「……泣いたのかと、思った? まさかね」
 吐き出すようなフェリクスの声にシェリは後ずさる。それを彼の手が止めた。ゆっくりと抱きしめられたシェリは彼の頬に額を寄せる。
「ほんとにね、吐きそうになった。なんでだろう。わからないんだ、それが、ちょっと気持ち悪い」
 リオンがいたならば、フェリクスに理解させたことだろう。心に開いた虚無の穴の深さ暗さを束の間、戻りかけた感情が埋めそうになったとき、フェリクスは耐え切れなかったのだ、と。
「治療師のところに行けって? いやだよ。別に体調が悪いわけじゃなのに。……これはね、きっと僕の気持ちの問題。なんで吐きそうになったのかはわからないし、わかりたくもない。たぶん、今はわからないほうがいいんだと思う。違う?」
 腕の中、シェリが鳴いた。同意の声に、フェリクスの気配が緩んだ。静かに立ち上がれば、もう吐き気はない。
「こんなもんだよね」
 突如として襲った吐き気のことを言っているのではなかった。シェリを見ていた。話せない、会話にならないと思っていても、この程度のことはわかる。それが、いいことなのか悪いことなのかは、わからない。
「それこそ、わかりたくないよ」
 ぽつりと言ってフェリクスは歩き出した。確かめる歩調が、次第に確かなものになっていく。フェリクスが広場に現れたとき、彼の足元に不確かさを見た者は誰一人としていなかった。
「ごきげんよう、フェリクス」
 仲間たちと話していたエラルダが、フェリクスの姿を見るなりやってきてはにこりと微笑む。フェリクスは無表情のまま答えた。
「機嫌は悪くないけど、よくもないんだけど」
「……挨拶、と言うことを知らないのですか、あなたは」
 呆れ声の中、多少は非難が含まれている気がしてフェリクスは肩をすくめる。シェリが困ったよう声を上げているのは、どうやらエラルダに弁解をしているらしい。
「……ただの、冗談なんだけど」
 言ったフェリクス本人が、嘘だと知っている言葉だった。エラルダもそれは感じ取っただろう。肩の上で竜が緊張しては体を強張らせた。
「早くリオンに帰ってきていただきたいな、と思ってます」
「どうして?」
「私ではあなたのお相手が務まりませんから。荷が重いです」
「どういうこと?」
「……いいです、もう」
 肩を落としたエラルダはどうやら本気で落胆しているらしい。おかしなことを問うたつもりのないフェリクスは首をかしげて彼を見ただけで、何も言わなかった。所詮、理解されたいという気がしていない自分がここにいるだけだ、そうフェリクスは思っていた。
「ところで」
 気分を変えるつもりだろう、エラルダは勢いよく呼吸をして、それからフェリクスにはっきりとした目を向けた。
「元々ここに住んでいた民の、私が当面は代表と言うことになりました」
「当面?」
「はい。アリルカは、戦いに向かっているのですから。私が神人の血を引く者たちの代表、あなたが魔術師の代表、リオンが神官の代表と言うことでどうでしょう、と提案が出ています」
「ふうん、僕がいない間に話し合ってたんだ」
「それは……!」
「あのね、責めてるかどうかくらい、人の顔みてわからないわけ?」
 わかるわけがないだろう、とはエラルダは言わなかった。代わりにシェリが抗議の声を上げた。横目で竜を見やったフェリクスの腕が伸びてくる一瞬前、シェリは飛び立って逃げ出した。
「逃げるな」
 呟いたけれど、フェリクスは追わなかった。追いたい、心が声を上げた。軋んだ音が聞こえる。それでもフェリクスは追わなかった。
「少しは、慣れなきゃね」
 独り言を聞かないふりをして、エラルダもまた竜の行方を目で追った。シェリはフェリクスが追わなかったことに拗ねているのだろう、つまらなそうにしてすぐに降りてくる。
「戻ってくるなら、逃げないの」
 エラルダは、その声も聞かなかったことにした。少しだけ、温度があった気がした。シェリにだけ向けられる彼の声に、優しさではなく愛情でもなく、言葉にはなりえない何かがあった。
「エラルダ」
「はい!」
「……一々驚かないで。けっこう目障りだから。さっきの話。僕はかまわない。どっちにしたって訓練するんだから僕は形の上で師匠だしね。敬えとは言わないし、言うつもりもない。僕は敬意を得るに値しない」
「そんなことは――」
「僕が決めること。他の誰が決めることでもない、だからそれはそれでいいの。大事なのは、どっちにしたって僕が魔法を使う者たちの束ねをするってこと」
 それは理解したか、フェリクスの目が問うていた。エラルダはそっとうなずく。緊張に壊れてしまいそうだった。
 フェリクスの目は言っていた。問われたことだけに答えろ、と。憶測も憐憫も要らない。質問などもっての外だと。
 エラルダは、その意を容れた。他のアリルカの民であったならば、こうはいかなかったはずだった。エラルダは知っていた、タイラントを。彼とともにあるフェリクスを。
「要するに、僕はその提案を受け入れるってこと。わかった?」
「つまり、リオンの答えは帰ってきたら本人に聞け、と言うことですね」
「当たり前じゃない。僕があいつのことをなんで決めてやらなきゃいけないの。責任を押し付ける気だったら本人に言いなよ」
「押し付けるだなんて。ただ、代表と言うだけで――」
「押し付けていいんだってば。言葉の綾なんだから。僕も喜ぶということがどんなことかちょっとわかんないけどね――」
 そこでフェリクスは言葉を切って皮肉に唇の端を吊り上げた。そんな彼を咎めるよう、シェリが肩から覗き込んでは見つめている。フェリクスの指が竜の額を撫でた。
「慣用句的に言えば、喜んで責任を負う」
 シェリの咎めに、フェリクスは詫びたのかもしれない。エラルダは不意にそう思った。
「僕は、一時的であっても、自分の弟子にした人たちを戦塵の中に置くことになる。仮にも師ならば、僕はその人たちの生命に責任を負わなきゃ嘘だ。たとえ神人の子らが簡単に死ななくっても、ね。僕は全力で戦うし、彼らの命を守る。それが務めだと思ってる。できることなら誰一人死なさずに、アリルカの独立と、復讐と、自立の道を獲得する。それが……」
 フェリクスは言わなかった。言わなくとも、エラルダにはわかった。この小さな集落を、戦いに叩き落していく自分の責任だ、と。
「フェリクス。あなたは――」
 悪くないのだと、言いたかった。それを自分たちも望んだのだと言いたかった。そこまでの覚悟をされてしまっては、脆い人の子の命を定められたフェリクスを、頼りにくくなってしまうではないかと、言いたかった。
「僕は、目の前で死なれた」
 その声に、エラルダは口をつぐむ。今の彼を前にして、誰がなにを言えようか。
「いやなんだよ。顔見知りだろうがね、死なれるの、いやなんだ。正直に言うけどね、僕自身は誰が死のうと痛くもかゆくもない。なぜかは、あえて言わない。でもね――」
 フェリクスの声に力を失ったよう肩の上でぐったりとしていたシェリが顔を上げた。その背をフェリクスはゆっくりと撫でていた。
「そんな僕を見て、泣くんだ。だから」
 エラルダは立ち尽くす。憂いに沈んだ竜を見つめ、フェリクスを見つめる。彼の視線を払うようフェリクスは首を振り、言った。
「魔法で戦ってみたいって希望がある人、集めてくれる?」
 こくりとうなずいてエラルダは背を向けた。不意に足が止まりそうになった。強いて足を進め、フェリクスを意識の外に追いやる。
 彼は言った。戦いたいと望んでいる者を、と。無表情な冷たい態度の奥に、フェリクスの大きな心を見た、そんな気がした。




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