フェリクスは水辺にいた。集落のうちにも当然、井戸はある。だがそこでシェリに水遊びをさせるけにはいかない。 「水遊びじゃなくて水芸だしね」 言えば抗議の声を竜が上げ、泉に細波が立った。かまいもせず、フェリクスはシェリが水を奏でるのを聞いている。 この数日でどうやらシェリの音楽は自分以外の誰にも聞こえていないらしい、と見当がついた。 「僕がおかしいの? これって狂気ってやつ?」 皮肉に言えばとんでもないことを言うとばかり泉の中でシェリが声を荒らげた。その恐ろしげな竜の声をフェリクスは目を閉じて聞いていた。 無論、口にしたことは本心ではない。自分にしか聞こえない音、それを快くも思っている。同じほど、否、それにもまして胸の奥が軋んだ。 「前も、そうだったね――」 彼の音楽は、違った。誰にでも聞かせる音楽と、フェリクスのためだけに奏でるそれは、まったく違うものだった。 「僕だけ」 世界の歌い手の、本当の音楽を知っていたのは、自分だけ。この世界から失われてしまった音の真実を知っているのは、自分だけ。 「習っておけば、よかったかな。無理だね。僕は、違うもの」 自分は世界の歌い手ではない。同じ音楽が奏でられるはずもない。それでも再現しようのない音が耳の中にだけある。それが、痛かった。 ふ、と声が耳に届いた。泉の中から小さな銀の竜が心配そうに見上げてきていた。フェリクスは少しだけ肩をすくめる。 「おいで」 差し伸べた腕に向かって一心に飛んでくる竜に抱くこの気持ちをなんというのだろうか。愛しいとも、違った。 「ちょっと!」 沈みきったフェリクスを救おうというのだろうか。シェリが体を震わせた。水浸しになったままの、体を。 思い切り水飛沫を浴びたフェリクスが心底嫌そうな顔をするのにシェリが笑う。飛んで逃げようとする竜を、一瞬の差でフェリクスは捕まえた。 「ねぇ、あなた。本当に鈍いよね。魔術師に捕まるドラゴンって、なんなの?」 昔、言った気がする言葉。いまそれを言っても、なぜか痛まなかった。痛むには、傷が深すぎた。手の中で身をよじる竜に、フェリクスは淡々とした目を向ける。 「ねぇ」 握りつぶしてしまいたくなった、急に。それを悟ったのだろう、シェリが動きを止めた。無言で色違いの目を向けてくる。そこにある無限の信頼。 「……僕のしたいようにしていいってわけ?」 殺すならば殺せ。俺の命は君のもの。笑いながら言った男の声が蘇り、フェリクスの手は力をなくした。 「痛かった?」 呼吸を整え、静かにシェリを胸の中に抱いた。激しく竜が首を振っている。指一本で押さえつけ、フェリクスは竜の額に頬を寄せた。 「痛かったに、決まってるじゃない。僕が悪いときにはそう言いなよ、馬鹿だな。ほんとに」 本当に、馬鹿だと思う。こんな自分を庇って、こんな自分を残して逝ってしまった男にフェリクスは心の中だけで語りかけた。シェリは聞くだろう、その声を。それでも何も言わずに聞こえなかったふりをするだろう。シェリは、あの男でもあるのだから。 「ほら、いいよ。仕返し、しなよ」 そうしてくれたほうが、気が休まるのだから。いまの自分に気が休まる、などと言うことがもしもあるのならば。 その意思をシェリは確実に汲み取った。ゆっくりと腕の中で伸びをして彼を見上げる。それから困り顔で首をかしげ、前脚を伸ばした。 「ん……」 わずかに寄せられた眉根にシェリが慌てた。傷つけるつもりではあったが、血を流させるつもりまではなかったものを。 ありありとその思いの浮かんだ顔にフェリクスは目を向け、傷ついた頬に指をやった。かすかに、血の跡がつく。 「こんなくらいのことでうろたえないの。平気だよ、別に」 指についた血を舐めれば、鉄臭い味がした。顔を顰めたフェリクスの頬に温かいもの。視界いっぱいに広がった真珠色。 「もう、恥ずかしいな」 ちろりとシェリが傷を舐めていた。心配そうに見つめてくる目に、フェリクスはうなずく。色違いの目を見つめ、竜の額に唇を寄せた。 「なに、くすぐったいの?」 本当は、照れたのだろうとわかっていた。恥ずかしがって身をよじる竜などと言う珍しいものにフェリクスの常態となってしまった険しい雰囲気がわずかに和む。 「ふうん?」 悪戯をするような声。それにシェリは身を震わせた。彼の気配が、また厳しくなっていた。自分に向けられたものではない。すっと息を吸うフェリクスにあわせ、シェリもまた身構えていた。 「観察したいなら、そばにくれば? 遠くから見られてるのって、あんまり気持ちが良くないんだけど?」 泉のそばに彼らが遊ぶのを知って以来、色々な人がここを訪れた。半エルフが話をしにきたし、神人の血を引く親を持った者たちがシェリをかまいにもきた。 いずれもフェリクスは快く、とは言わないまでも迎えている。リオンが見れば驚くだろう程、まともに相手をしている。 が、いま後ろにある気配は違った。戸惑いともためらいとも違う。自分たちをひたすらに窺っている気配。それが、不快だった。 振り返ったフェリクスの腕の中、シェリが体を硬くしている。それをなだめて抱きなおしたとき、人影が現れた。 「ふうん」 神人の血を引く者たちは一様に身を隠すのが巧い。森の中にいれば木と同化してしまうようにさえ、見える。見えない、と言うべきか。 それにしても、とフェリクスは彼を見ていた。今まで出会った誰よりも気配が薄い。生き物の姿を見ている気がしないほどに。 「邪魔をしたようだ。すまない」 口を開いた声の低さ。単に低い、と言うだけではなかった。その魂のうちに淀んだ塊があるかの声。男は闇エルフだった。 見れば、わかることだった。半エルフと、容姿自体に差異はない。痩身優美な肢体、透けるような白い肌。艶やかな黒髪を緩く背中で結んでいる様、どれをとっても見た目は半エルフそのものだ。 それでもそこに立つのは闇エルフだった。衣服のように、あるいは魂の奥底に淀んだ濁り。そこに立つだけで彼らからは邪であり悪であり堕である何かが発散される。 それをフェリクスは哀しいと感じる。哀れみではなく、同情でもなく、その一員に加わることのできない自分に対する、憐憫であるのかもしれない。 「別に邪魔じゃないけど? 遠くから観察されるのがいやなだけ。話があるの、ないの。見てるだけだったら別にそれでもいいけど。もっと遠くに行くかもうちょっと近くに来るかどっちかにして」 「どっちか?」 「そう。僕が瞬間に発動できる魔法の攻撃範囲内にくるか、お互いに手が届かないくらい遠くにいくか、どっちか。あなたがいる辺りって、攻撃した途端にかわせるところだよ、わかってる? それって凄く、癇に障るの。無意識だったらたいしたものだね」 「実を言えば、無意識だ」 闇エルフはどこか楽しそうに言った。そのくらいのことを意識せずにできなければ、今まで生きてくることはできなかった、とでも言っているような気がしてフェリクスは唇を引き締める。 「それで? 用があるの、ないの」 物怖じしないフェリクスの態度が気に入ったのだろうか。闇エルフは静かに木立の陰の中から出てきた。 「聞きたいことがあって、きたのだが……。邪魔をするのがはばかられて、な。ファネル、と呼んでくれればいい」 どちらにしてもこの世界での通称だ、とでも言わんばかりの投げやりな態度がフェリクスは気に入った。ふ、と気配から敵意が消えた。同時にシェリが強張りを解く。その隣に、フェリクスならば剣の届く範囲と言うだろう位置に、ファネルは腰を下ろした。 「触っても?」 ファネルが闇エルフであるのは、間違いのないことだった。それでも彼はどこか闇エルフとは言いがたいものがある。 「本人がいいって言えば、いいよ」 誰にでも言ったことをフェリクスは言う。ここを訪れた者みながシェリに触りたがった。敬意を持ってそうしてくれているのは、わかっている。だから無下に断ることはしなかった。たとえ自分が望んでいなくとも。 「ほら」 シェリを促して腕の中から放り投げるよう、宙に放てば、くるりと回転してフェリクスの肩に戻る。それから柔らかな髪をついばんでシェリはもう一度飛び立った。 「ふうん。あなた、気に入られたみたいだよ」 わずかな驚きとともにフェリクスは言う。真珠色の竜はファネルの腕に止まっていた。今までにないことだった。シェリは誰にも触られたがりはしなかった。礼儀として、と言うところだろうか、軽く触れることはあっても、掠める以上に長く留まることは決してなかった。 「そうなのか?」 「うん。これが腕に止まったのは、はじめて見た。一瞬でもね」 「それは、嬉しい――。と言うべきなのかな」 「さぁね? 僕に聞かれたって、わからないよ」 肩をすくめたフェリクスに、ちょうどシェリが飛んできたところだった。おかげで竜は平衡を崩し落ちそうになる。無造作な手で、フェリクスは竜をすくい上げて肩に戻した。 「……この世界に、美しいものがあると、不思議と思い出した」 ファネルの声に、フェリクスは体を硬くする。この世界は美しい。醜悪で、この上なく美しい。そう言った男の声。 思い出の中だけにある声を振り払うのか留めようとするのか。フェリクスは強く首を振る。 その仕種の意味を、ファネルは問わなかった。彼は、闇エルフだった。痛みも苦しみも、存分に知っている。それしか、知らない。 不意にシェリが甘い鳴き声を上げた。びくりと体を震わせたのは、フェリクスだけではなかった。そして二人ともが見なかったことにした。 「フェリクス。父親を、知っているか?」 「知らないし、興味もないよ。なんで聞くの、そんなこと」 「会いたいと望む我らの子がいるならば、捜し出す。そういう誓いを持っている」 肩をすくめてなんでもないことのよう、ファネルは言った。不意に悟った。そのような誓いを持つからこそ、ファネルは闇エルフらしくない部分を持っているのだと。 |