ようやく登りきった小屋は、意外なほどに普通の室内だった。木の上だ、と言うことを意識しなければどこにでもある部屋のようだ。 「ふうん、こうなってるんだ」 窓から外を眺めれば、思いのほかに高いところから集落を望める。下から見たときには小屋があることにも気づかないほどだったのに、上手なものだとフェリクスは感心していた。 「なに」 つい、とシェリが袖を咥えて呼んでいた。他人だったならば煩わしい仕種が、シェリがすると愛らしい。 「いやだな……」 ぽつりと呟くフェリクスの真意を、シェリは問わなかった。あえて、見ないふりをしてくれたのかもしれない、そうフェリクスは思う。 「それで?」 なぜ自分を呼んだのか、と小さな竜を見下ろせば、巧く歩くことができないのか床の上でじたばたとしていた。 「飛べば?」 冷たい声音にシェリは抗議の目を向けた。フェリクスは肩をすくめて答えない。この室内で飛ぶほうが難しいことは、わかっていた。 「あぁ……ご飯?」 アリルカの民は室内に食事の用意をしてくれていた。メロールは自分たちと同じものを食べていたけれど、神人の子らは自分たちの集落でいったいどんなものを食べるのだろう。わずかな興味を持ってフェリクスはテーブルの上を見やった。 「案外、普通だね」 俗に彼らは肉食をしないと言うが、どうやらそのようなことはないらしい。煮込み料理にも肉が入っていたし、そもそも炙った肉が支度してある。 「これって、僕用なのかな」 民は特別に肉を用意したのだろうか。口にしてみてそのようなことはないだろうとフェリクスは見当をつける。 「あなた用ってこともなさそうだしね」 行儀悪くテーブルの上に座る竜を見やってフェリクスは言う。 「まぁ、仕方ないか。その体じゃ椅子に座れってわけにもいかないしね」 言わずもがなのことを言えばシェリがうなだれた。はっとして手を伸ばせば押し付けてくる額。謝ろうと思ったのに、言葉は喉から先に出てこなかった。 「……食べる?」 おずおずとした声をリオンが聞いたとしても、それがフェリクスのものだとはわからなかっただろう。シェリだけが彼の心を聞き取って顔を上げる。 「あなたは、いつもそうやって僕を許す――」 呟きにシェリがはっきりと首を振った。フェリクスはじっと竜を見ていた。他に、何もできない。いつまでも座って竜と見つめ合うしかできない。 心に、声が聞こえた気がした。いつも許すのは君のほうだ、と。シェリの言葉ではなく、別の声。フェリクスはぎゅっと拳を握り締め、目をきつく閉じた。シェリの姿さえ閉ざして、いったい彼はなにを見るのだろう。 「……お腹、すいたでしょ」 一切をこらえ、振り切ったフェリクスがそう言って目を開けたとき、シェリは変わらずそこに佇んでいた。 「ほら、おいでよ」 これはたぶん、シェリの分だろう。干し肉が用意してあった。小さくちぎって竜の口許に持っていけば、目を細めて嬉しげに平らげる。それを見ながら自分も食べ物を口に運ぶ。砂でも噛んでいる気分だった。 「……こういうの、懐かしいって言うのかな。あなたは、覚えてるのかな。それとも、あなたにとっては、初めてなのかな」 もう、ずいぶん昔のような気がした。竜に姿を変えられた人間とともに旅をした過去。小さな銀の竜が可愛くて、まるで餌付けの気分で世話をした。 それを今、フェリクスは懐かしいと思い出すことができない。ぼんやりとした過去の情景を思い出すことは、できる。 思い出が呼び起こす感情だけが、どこにもなかった。ぽっかりと心に穴が開いたよう、そう言えば吟遊詩人だったあの男はなんと言うだろう。陳腐だと笑うだろうか。 シェリはフェリクスの思いを妨げなかった。黙ってゆっくりと与えられる干し肉を齧っている。小さな竜であっても、その牙は鋭かった。フェリクスがちぎる必要など、だから本当はなかった。それでも彼はそうしたし、シェリも望んだ。 「もう、いいの?」 お腹がいっぱいだ、と見上げてくる竜に視線を落とし、フェリクスはそっとその額を撫でた。ふ、と厳しく引き結ばれていた彼の口許が緩んだ。 「凄い格好だね」 嫌がるシェリの襟首をつまみ、持ち上げればぽっこりと丸く膨らんだ腹。つついただけで弾けそうだった。 「そこまで食べる?」 自分で与え続けたくせにフェリクスは言い、膨らんだ腹を指で撫でた途端、背筋が震えた。あまりにも、温かかった。生命の感触だった。 一人で震える体を抱きしめたフェリクスの、その腕の中にシェリはもぐりこむ。嫌がってきつく体を抱いたフェリクスを許さず、腕の間から顔を出したシェリはその色違いの目で彼を見上げた。 「……ごめん」 なにに詫びているのか、フェリクスにもわからなかっただろう。シェリは長い首を優雅に振り、鳴き声一つ上げずに彼の頬を舐めた。 ふ、とフェリクスの腕が緩む。無言で自らの頬に触れた。確かめるよう指先が探り、そうしてシェリを見る。 「もしかしたら、と思ったんだけどね。やっぱりね」 自分は泣いていたのだろうか。泣けたのだろうか。思ったけれど、やはり泣いてはいなかった。繊細な、竪琴を奏でるためにあった指が頬を拭った日を思い出す。 「別にね、泣きたいってわけじゃない。ただ、そう思っただけ。心配しなくていいよ。平気。たぶんね」 腕の中、たじろいでいたシェリにかけた声は、いまのフェリクスが出せる最も優しいものだった。その声音に痛みを覚えたよう、シェリが目を閉じる。 「あ――」 ふ、とシェリが身じろいだ。もう一度頬を舐め、それから悪戯を思いついた、と言うには真剣な顔で腕から抜け出す。 「なにする気」 苛立たしげな口調ながらシェリは声の後ろに懸念を聞き取る。だから振り向いてうなずいた。それでフェリクスは安心する。ほっと息をついたのを確かめ、シェリは両手で包み込めるほどの木鉢を鼻先でつついた。 「なに、水が欲しいの? そこにあるじゃない」 小屋には水瓶が用意されていた。無精をするわけではないが、わざわざ鉢に汲んで飲むほどのこともない、ましてシェリならば。そう言うフェリクスに竜は首を振ってここがいい、と示す。 「しょうがないな、もう。面倒だね、あなたも」 言いつつフェリクスは言葉とは裏腹に鉢を水で満たした。シェリがどちらが面倒なことをしている、といわんばかりの目で見ている。フェリクスは水瓶から汲むことをしなかった。手の中に水の玉を作り上げ、それを鉢に移す。 「立つの、面倒なんだもん。いいじゃない、このくらいの無精をしたって」 シェリに言い訳をした自分が、おかしいような気がした。笑っていいような気がした。そのくせ笑いの衝動はどこを探してもみつからなかった。 それをシェリは見たはずだった。理解もしたはずだった。けれど何一つ態度に表すことなく水を満たした鉢に首を伸ばす。 「なにする気なの?」 かすかな興味、それから不安。自分はこんなにも怯えやすかったか、フェリクスは自問する。原因は、わかっていた。対処のしようだけが、なかった。 つい、とシェリが動いた。竜の動きに驚いたわけでもあるまいに、フェリクスは体を硬くする。なにかの予感だったのかもしれない。 「え……」 呆然とした声だった。そしてフェリクスは口をつぐむ。その音をかき消すことがないように。 シェリが、翼で水を叩いた。跳ね上げる水飛沫に鉤爪のある前脚を差し出した。そこに降りかかる雫。なんの不思議もない、魔法の一滴すらないただの水滴。そのはずだった。 シェリの前脚が、水滴を奏でた。そうとしか、聞こえなかった。フェリクスは震えもせずにそれを見ていた。心の中のどこかが埋まっていく。同じほどに穴が開く。 翼が叩いていた水を、そっとフェリクスは掌にすくった。シェリが期待をこめて見上げてくる、その視線に励まされるよう少しずつ落としていく。 真珠色の小さな竜に、水の雫が降り注ぐ。小さな水滴の一粒すら逃さず、シェリは奏でた。フェリクスの耳に届くそれは、竪琴の音色。 「水の竪琴? 優雅だね」 言葉が凍っていた。はっとシェリが動きを止めれば、その体に水は黙って注がれた。色違いの目で、フェリクスを見上げる。 「……やめないで」 声に、けれどシェリはうなずかない。ひたすらに彼を見上げていた。何度となく注がれる水に、フェリクスの意思を見ようとでもするように。 「……つらいってね、思えない自分がいるんだって、思ってただけ」 竪琴の音色に、彼の音を思い出す。思い出すのに、感情がない。自分のためだけに奏でられた曲も、歌われた歌も、覚えている。それでも、なお。 「これ、嫌いじゃないよ。だから、弾いて」 彼の音ではないから。彼の音でもあるから。シェリが、なぜ水を選んだのか、ぼんやりとわかる気がした。 「あなただったら、風を選んでもおかしくないのにね。いまは、氷竜だから? 風の音って、何を奏でるんだろうね。どんな歌だろうね。あなたはきっと、風だけは、弾かないね」 それがあまりにもタイラントを思わせるから。風の魔法の使い手だった男の面影を、はっきりとフェリクスに見せ付けることになるから。 小さくシェリが鳴いた。水浸しになったテーブルの上、竜は後悔に身を震わせて泣いていた。水か涙かわからないものをフェリクスは指先で拭う。優しい手つきに、竜がまた涙を零した。 「これを弾いたら、どんな音?」 指先の雫をシェリに向かって落とした。わずかのためらい。けれど自分自身の涙が落ちきってしまうその前に、シェリは奏でた。 「……僕はとても酷い男かもしれない」 シェリの涙をまたすくう。落とす。竜が弾く。フェリクスは何度となく耳を傾けた。 「綺麗だよ。いままで、聞いたことがないくらい、綺麗だよ」 そう言ってフェリクスは鉢の水をすくった。シェリに振り掛ければ、聞こえる水の竪琴。あまりにも綺麗だから、もう涙は弾かなくていい。そうフェリクスは言わなかった。ただ、態度で示した。涙を乾かした竜は、黙って彼の望みのまま水を奏で続けた。 |