差し伸べた腕もそのままに呆然とするフェリクスに、エラルダはかけるべき言葉がなかった。たとえなにを言ったとて、フェリクスの虚無に言葉がただ落ちていきそうな気がした。 「帰ってきて、すぐに!」 まるで悲鳴じみた声。それなのに一切の熱を感じなかった。それにエラルダは恐怖を感じる。彼がそこにいないかのように。フェリクスが、生きてはいないかのように。 シェリにその声は届いたはずだった。小さな竜は一直線に小屋に向かって飛んでいく。開け放したままの窓から中を覗き、それから首だけを差し入れたかと思うと、ひょいと中に入ってしまう。 「帰ってきて」 フェリクスの懇願を、もしもここにリオンがいたならばなんと聞いたことだろうか。何度か顔をあわせたことがある程度の付き合いでしかないエラルダにそれはわからなかった。 フェリクスの声に、シェリが窓から顔を出した。そしておどけて翼をはためかせ、また中へと戻っていく。 「フェリクス……」 声が、聞こえるだろうか、彼に。戸惑いながら呼んだエラルダは後悔する。フェリクスの目に光がなかった。 タイラントは、彼が最も愛した人は彼の目の前で命を奪われたのだ、と聞く。それは間違っていたのではないか、エラルダはそう思う。 そのとき殺されたのはタイラントではなく、フェリクスだったのではないか。いまここにいるのは、何者だろうか。 「……なに」 ゆっくりと紡ぎだされた言葉にエラルダは正気づく。自分までもが動揺していては、彼の安全が守れない、そのことに気づいたのは幸いだった。たとえ彼の身になんの不安もないのだとしても。 「シェリは――」 見てしまった。竜の名を呼んだ途端、フェリクスが拳を握り締めたのを。あの小さな竜がシェリと言う名を持つ、タイラントではない別のものだと知りつつ、タイラントの一部だと知りつつ、そのどちらも認められない彼を見てしまった。 「なにを、しているのでしょうか」 必死になって声を絞り出したエラルダに、フェリクスは瞬いた。静かに呼吸をし、頭上を見上げる。シェリはまだ小屋の中だった。 「……危ないものがないか、確かめてるんだろうね」 「え?」 「ここが安全だって言うのは、たぶんわかってるんだ。それでも僕を庇いたい。だから、そういうことをする」 あれはタイラントだから。言葉にしなかったフェリクスの声がエラルダにも聞こえた。ふと心が温まる。 「優しいですね」 愛されている、いまなお。姿を変え、魂の一部となってすら。そう言った瞬間だった、フェリクスの気配が変わったのは。 「そうやって、死んだんだ。あの男は」 ぽつりと零された言葉。はっとするエラルダがなにを言うより先、竜が飛び戻る。フェリクスの言葉が聞こえたに違いなかった。 「ねぇ」 肩に止まって心配そうに覗き込む竜に、フェリクスはなにを言うでもなく声だけをかけた。甘えた鳴き声に、フェリクスはシェリの背を撫でる。 「そうやって、死んだね。あなたは」 淡々とした熱のない声に背を震わせたのはエラルダのみならずシェリも。ゆるりと彼の首に巻きつけていた尻尾がすがりつく。 「苦しいよ」 静かな声にシェリはそのままうなだれた。だらりと尻尾をたらし、肩を震わせそこにいる。その襟首を掴んでフェリクスはシェリを引き剥がした。 「僕を庇って、あなたは死んだ」 眼前に見据えて、と言うには情けない格好だった。首を掴まれぶら下げられたシェリを睨みつけるフェリクスが、これほどまでに静かでなかったならばおかしみを誘う光景だったことだろう。 「そうだよ、わかってるじゃない。僕は怒ってる。とても怒ってる。僕はあなたを束縛しようとしてるんじゃない。いきなり行動しないで。せめて一言いってからにして。僕を庇わないでなんて言っても無駄なのは、わかってるんだ。百年言っても覚えなかったあなただもの。僕のほうがずっと強いって、わかってるくせに庇いたがるあなただもの」 シェリが、黙ってフェリクスを見つめ返した。色違いの竜の目になにが映っているのだろうか。エラルダには見えなかった。竜の言葉もエラルダにはわからなかった。 「僕を守る権利があるって、言いたいの。いいよ、それは認める。でもね――」 タイラント。呼びそうになったのにフェリクスは息を飲み、そして唇を噛んでこらえた。 「あなたは、その体は魔法からも武器からもたぶん守られてる。そうリオンが言ってたね。でもそれって本当なの。僕はあなたの体で確かめようとは思わない」 片手でそっとシェリの体を撫でた。それに竜が震える。恐怖なのか、それとも後悔なのか、また別のものなのか。 「あなたが守りたがってるこの僕を、最も傷つけるものはなに」 答えを問うまでもない。シェリが目を見開き必死になって首を振る。一緒になって尻尾が揺れた。真珠色の皮膚が、日の光にきらきらと光った。 「あなたが、傷つくことだ」 駄目押しのようフェリクスは言い、シェリを見据える。きゅっと引き結ばれた唇からエラルダは目をそらす。とても見ていられなかった。 「それでも、あなたはああいうことをするの。僕が言ってることは間違ってるの。反論がある? 言いたいことがあったら、さぁどうぞ?」 叩きつけた言葉にシェリがうなだれた。吊り下げられたままの体から完全に力を抜く。フェリクスがほっと息をついた。 「わかって、くれた? あんまり……驚かせないで。僕のか弱い心臓が止まりそう」 和解、だったのだろう。フェリクスの最後の言葉は少しだけ和んでいた。思わずエラルダは目一杯に息を吸う。 「……あなたまで緊張することはなかったと思うんだけど」 ちらり、と視線を向けてきたフェリクスにエラルダは動揺した。いまだぶら下げられたままのシェリがにやりと笑う。 「いえ、その……」 シェリの表情を見れば、どうやら多少深刻な痴話喧嘩と言うだけのことだったのだろう。気づいてエラルダは身の置き所をなくした。 「なに?」 そんなエラルダの態度に気づかないのかそれとも気づいていて無視するほうを選んだのか、フェリクスの態度は淡々としたものだった。 「いえ。――少しおやすみになっては?」 「そうさせてもらう。僕は疲れてはいないけど、そっちも色々整理することもあるでしょ」 「えぇ、少しは」 苦笑いとともにエラルダはうなずいた。時の流れを忘れがちな神人の子らが多くいるこの国で、これだけのことが一度に起こったのだ。覚悟の上、とは言えやはり混乱は避けがたい。 「あんまりのんびりもしてられないからね」 「わかっています」 リオンが首尾よく戻れば、そしてあの男のことだから使命は達成して戻るだろう。そうすれば、アリルカは一気に戦争へと傾くはずだ。元々そのためにこそまとまった国。ならば準備は早くに始めるに越したことはない。 「まず、なにを?」 「リオンが戻る前に、とりあえず魔法の才能がある人を見つけたいね」 「神人の子らならば――」 「だからって全員魔法の訓練に適してるってわけでもないし、その子らに適したのがいないとも限らない。だいたい魔術師に仕立てようってわけじゃないんだ、とりあえず戦える程度に仕込みたいだけ。だから僕が見つけるのは……そうだね。もしも習う気があるならば魔術師になれそうな人ってところ」 ようやく落ち着いたのだろうか、フェリクスはシェリを腕の中に抱え込んだ。彼の腕の中で安らいだ小さな竜は甘えて胸に額を擦り寄せる。 「僕が訓練するのは、そういう人。その人たちから、別の人に伝達してもらう。一々何百人も一度に面倒見切れないよ、いくら僕だって」 半ば呆れたような声音だった。その中にほんのかすか、エラルダはおかしさを感じる。笑われたのかもしれない、と思った。気のせいだとも、思った。 「わかりました。一応、伝えておきましょうか?」 「そうして。じゃ」 まるでなんでもないことを言っただけとでも言うよう、フェリクスは背を向けた。魔法の訓練をする、これから戦いが始まるその準備に。それなのにエラルダの心はときめいて仕方なかった。 フェリクスはエラルダがなにを思うのか考えることもなく、自分のために支度された小屋の木を見上げた。 「ふうん。こうなってるんだ」 ちらり、腕の中のシェリに視線を落とし、無造作に腕を解く。慌てて羽ばたいた竜が抗議の声を上げるのに聞こえたふりもせずフェリクスはまだ木を見ていた。 「飛んでく? 乗る?」 フェリクスに言われたことを、いまだけは忠実に守る気でいるらしいシェリはその場に留まって羽ばたいていた。それを確かめて言った言葉に、シェリはうなずいて彼を先導するよう、飛んでいく。 「調子がいいんだから」 溜息交じりの声をリオンが聞けば喜んだだろうか。わずかに彼の気配が緩んでいた。 小屋の木は、大木とは言いがたかったけれど、ずいぶんと太い木だった。これをよじ登るのは中々に大変だ、とフェリクスが思ったときシェリが鳴く。 「なに。先に行くの。いいよ、行ってらっしゃい」 一応、断る程度の心配りはしてくれたのだ、とフェリクスは諦めた。いつまでも自分の肩に縛りつけておくわけにはいかないことくらい、わかっている。第一そのようなことはしたくない。 「……慣れなきゃね」 呟いたフェリクスに向け、頭上からシェリが一声鳴いた。見上げれば、竜が何かを咥えている。問うより先、シェリはそれを放した。 「なるほどね。エラルダは言い忘れたってわけか」 落ちてきたものに向け、フェリクスは呆れて言った。正確には下ろされた、と言ったほうが正しかった。 「これ使ったって、僕には木登りと大差ないんだけど」 溜息まじりに言ってフェリクスは縄梯子に手をかけた。嫌々ながらに登る彼をシェリの眼差しが追っている。 「そんなに心配しなくったって、平気なんだけど」 むっとして言えば、降り注ぐシェリの笑い声。竜の声に間違いはないのに、違う声に聞こえフェリクスは縄梯子を握り締めた。 |