一晩休んだだけでリオンはあわただしくイーサウに発った。イーサウを下手に刺激しないよう、そして素早い移動が可能なよう、ともに行くのは出迎えに立ってくれたメラニスだけだ。 「お一人で、いいんですか?」 右腕山脈に隧道を通してしまおう、と言う計画だったはずだ。あるいはその詳細を詰めにいくだけなのかもしれない、とメラニスは思う。それをシェリが笑った。 「シェリ?」 呼べば、竜を肩に乗せたフェリクスが嫌な顔をする。内心でひやり、としつつもメラニスは笑顔を保つ。 「私、一応は魔術師なんです」 シェリに笑みを向けてから肩をすくめてリオンが言った。それはわかってはいるのだが、との思いが顔に表れたのだろう。リオンが苦笑した。 「フェリクス。賭けをしませんか」 「なに」 「何発で穴あくと思います?」 実に軽々とリオンは言った。と言うことは、彼がするのか、一人で、とメラニスは息を飲む。思わずまじまじとリオンを見ていた。 茫洋とした、いかにも人間の神官然とした男。おっとりと神の教えでも語ってるのほうがずっと似つかわしく思えてならない。 その男が、右腕山脈に隧道を通す、と言う。むしろ大穴を開ける、と言う。ぞっとしつつも、無性に楽しくなってきた。 「なに使う気なの」 「そうですねぇ。私の銀の星に敬意を表して、イルサゾートでどうです?」 「物が山だからね、サレイカラのほうが適当じゃないの」 「まぁ、確かに」 何を言っているのか、メラニスにはさっぱりわからない。が、どうやら呪文の名前らしい、と言うことは見当がつく。 そんなメラニスの表情を横目で捉えたフェリクスは淡々と言う。イルサゾートとは、流星雨を召喚する魔法で、サレイカラとは大地を融解させる魔法だ、と。 「そんなものを使って……危なくはありませんか」 「危ないよ」 当たり前ではないかとばかり、フェリクスに言われた。それをなだめるよう、リオンが安全は確保する、と晴れやかに言う。 「さて、フェリクス。どうです?」 「右腕山脈か……」 ちらり、肩のシェリを見やった。それから首をかしげて遠くを見やる。脳裏に右腕山脈の状態を思い浮かべていた。 「――四発」 たったそれだけで、あの右腕山脈に穴が通るのか、とメラニスは息をするのも忘れてフェリクスとリオンを見ていた。 「じゃ、三発であけてみますか。私が勝ったらどうします?」 メラニスの驚きは極まって、もう何も感じなくなるほどだった。呆然とリオンを見つめる。同情するようシェリが鳴いた。 「なに、あなた。勝てると思ってるわけ? いいよ、わかった。何して欲しいの」 言うなり抗議の声をシェリが上げた。リオンだけずるい、と言うところだろうか。リオンの顔には笑みが浮かんだけれど、フェリクスは無表情のままだった。手つきだけが優しくシェリを撫でる。 「そうですねぇ。あ、そうだ。かき氷が食べたいです」 「そう。わかった」 あっさりフェリクスがうなずいたことにメラニスは訝しい思いでいた。言うまでもなく、氷を保存することは難しい。魔法でどこからか取り寄せるのかもしれない、彼は魔術師なのだから。そこまで思い至ったとき、フェリクスが言った。 「それだったら僕が手間をかける必要もないしね。こいつにやらせるよ。それでいいでしょ」 そう、シェリの背を指でつついた。甘えるよう鳴く竜に、知らずメラニスの頬に血が上る。 「ずるいなぁ、もう。いいですけど。じゃあ、もし私が負けたらお望みは?」 「……別にない」 答えに、ふっとリオンが落胆した気がした。彼はそのまま困った人だとでも言いたげな笑みを浮かべていたにもかかわらず。メラニスがそっとリオンを窺えば、気にするなと視線で言われた。 何か他愛ないことでもいい。少しでも楽しいことを考えてくれたならば。そう思って持ち出した賭け事だった。 だからこそリオンはかき氷、などと言うのだ。その程度で良かった、フェリクスが望みめいたことを何か口にしてくれるのならば。 不意に竜が鳴いた。リオンに向けて、はっきりと。まるでそれはいまはそっとしておいてくれ、と言うような声だった。 「シェリ」 竜に、と言うよりリオンはむしろ彼に向かってうなずく。そこにいるのは竜ではなく、タイラントその人であると見做して。 「リオン。今更だけど、ちょっと頼みがある」 フェリクスの遠まわしな依頼に、リオンは体を硬くした。言葉の切れこそ冴えなかったが、頼みごとをすること自体が珍しい。 「なんでしょ?」 あえて軽く言って見せたにもかかわらず、フェリクスは遠くを見たまま気づきもしなかった。肩の上からシェリが彼の目を覗き込んでは何かを言っている。一言たりとも言葉は竜の口から零れない。それでも彼らの会話だった、それが。 「……できれば、あいつの直接の弟子は、避けて」 魔術師を連れ帰るのはいい。必要なことでもある。およそ五百人いる民のうち、魔法を習得できる者がどれだけいるか想像もつかない。多い、と言う意味で。 だから魔術師の手が足りないのは、事実だ。独り立ちした弟子の力を借りる、それもフェリクスは納得している。自発的に加わるならばそれもよし、と思ってもいる。 「……あいつの弟子だけは、やめて」 タイラントの教えを受けた者だけは。彼をその目で知り、耳で聞き、そば近く暮らした者だけは。それだけは、耐え難い。 「私としては仇討ちの手伝いをさせる気でいましたけど。ま、こっちにこなくっても手伝いにはなりますしね。いいですよ、わかりました」 本当は、わかっていなかった。フェリクスの苦痛を想像はできる。自分にわかる範囲で理解もできる。それでもリオンにも本当のところは、わからない。リオンはフェリクスではない。 フェリクスは、ただ嫌だっただけだ。タイラントの魂の欠片を、この真珠色の竜を彼の弟子に見せるのが。彼に庇われて生きてしまった自分を見せるのが。なぜ自分が生きていて、彼が死んだのか、弟子の目の中に見つけてしまうことが。そんな問いならばすでに、自分の中にある。 「そう。それならいい。さっさといけば?」 フェリクスの冷たい言葉に送られてリオンは笑って発っていった。メラニスはどことなく納得しがたい顔をしていたけれど、フェリクスはかまわなかった。道々リオンが説明するだろう、と思っている。 「いやだね……」 リオンを信頼してでもいるような自分の態度が。リオンならばどうするか、容易く想像できてしまう、それに任せられることが。 小さく鳴いた竜は、それでいいじゃないかと言うようで、フェリクスは黙って首を振る。 「元々リオンとは仲良しじゃないんだよ、僕は。知ってるじゃない」 シェリが髪をついばんだ。くすぐったい感触なのに、フェリクスは笑えなかった。生理的にも、笑い声を立てられないのだな、と改めて知る。それをどうとも思わなかった。 「なんだか、とってもいやな感じだよ」 首をかしげたシェリの気配を肩に感じてフェリクスは旅立っていったリオンのほうを指差した。ふっとシェリの体が強張った。 「あぁ……違う。そうじゃないよ。別にあいつに何かあるとは思ってない。ちゃんと帰ってくるんじゃない?」 本当か、とシェリは首をかしげていた。そっと色違いの目で彼を覗き込めば、いつになく目許が和らいでいた。 「これじゃ、誰が見たって本当は仲良し、じゃない。気色悪いったらないよ」 ぼやく口調も柔らかかった。まるで昔のようだ。シェリではなく、フェリクス自身がそう思う。ゆっくりと、森のはずれから中心地へと戻っていく。 「あなたと、二人だからね」 誰にも邪魔されない。それに息をつく思いでいることは、確かだ。甘えた鳴き声を上げるシェリに、フェリクスは静かに頬を寄せる。 触れたのは、竜の肌だった。顔を離し、目を覗き込む。色違いの目は、同じだった。それでもそれは、竜の目だった。 「……なんでもない。大丈夫だよ」 訝しげにつくろった悲哀の声をフェリクスは聞きわける。きゅっと唇を噛み、首を振ってそう言うしかない。 「あなたがいてくれる。それだけでもずいぶん違う。本当だからね」 それがタイラントでなくとも。シェリであっても、いないよりはずっといい。 「……ごめんね」 タイラントにではなく、シェリに向けて言う言葉は、あるいははじめてかもしれない。フェリクスは不意にそんなことを思っていた。 「あなたも……可愛いよ」 自分ではない、別の形でありながら自分自身の一部でもある存在。それを残すことにタイラントが不安を抱かなかったはずがない。 「違うけど、同じ。同じだけど、違う。僕はそれを受け入れて、生きてかなきゃいけないね」 ラクルーサ王の首を獲る日まで。その後のことは、いまはまだ考えられない。戦いのことを考えて忙しくしているのは、楽だった。 「……理屈っぽさが、似てきたところだったのにね」 顔に似合わず、意外と理屈っぽかったタイラント。大怪我をしながら理屈を語った日を懐かしく思い出す。懐かしい、と言うには痛みが強すぎた。 「ねぇ……」 違うと理解した、と言うより心に決めた。それでもやはりシェリ、とは呼べなかった。呼ばれた竜が甘えて首を伸ばしては額を摺り寄せる。 「そっか、それでいいのか」 何もわかってなどいない。ただ、一つだけわかった。シェリが、あるいはタイラントが無理をするなと言っている。 「つらいとか、苦しいとかね、そんな風に思えれば、楽なんだよね、きっと。あなたもそうして欲しいんでしょ?」 ふ、と肩から飛び立ったシェリが、顔の前で宙に浮く。フェリクスは目をみはっていた。小さな竜が、怒っていた。 「……そっか、あなた、わかってるものね。そんなこと無理だって、今の僕には、絶対無理だって、わかってるものね。あなた、僕に無茶は言わないもの。……あなただけは、いつも」 差し伸べた腕の中、シェリが舞い降りる。もう怒りはそこになかった。フェリクスは戸惑っていた。聞こえたシェリの声。哀しいのか、甘いのか、わからなかった。 |