竜の鳴き声に、やっとのことでエラルダは正気づく。慌てて彼らを振り返れば、リオンだけが楽しそうにこちらを見ていた。
「あってるんですよね?」
 確かめるよう言われ、エラルダはゆっくりとうなずく。その表情には明らかな畏怖が浮かんでいた。それを意に介しもせず、よかったよかったと無邪気に喜ぶリオンを見ているうち、エラルダの顔がほころんでいく。
 こういう人間もいるのだ、と仲間たちに言ってやりたい気分でいっぱいだった。フェリクスを迎えよう、と決まったとき、仲間の大部分が言ったものだ。
「彼のそばには人間がいる」
 と。そして人間を招くには及ばない、フェリクスだけを、闇エルフの子だけを招けばよい、と。それがアリルカの民の多くを占める闇エルフの子の意思であったし、半エルフのほとんどがそう感じていたことも確かだ。
 結局、その人間に利用する価値があるならば、招いても害にはならない、と決まった。だからこそエラルダはリオンの同行を拒んでいない。
 それがどうだ、とエラルダは思う。こんな人間がいる。出会ったことのなかった、この世に善があることを、人間の中に善があることを信じられる人間がいる。
「よかった……」
 ぽつりと呟いてエラルダはどこともなく見つめた。
「なにがです?」
 シェリと何事かを話しているらしいフェリクスを置いてリオンが首をかしげて問いかけた。それに少しばかりばつの悪い顔をしてエラルダは肩をすくめる。
「あなたを招くべきではない、と言う話も、あったんです」
「でしょうねぇ」
「……こんな話を聞かされて、お嫌では?」
「いえいえ。とんでもない。そう思って当然だろうなぁ、と言うのが感想ですねぇ」
「そう、ですか?」
「だって、神人の血を引く方々は、人間のことが嫌いでしょ?」
 そう言ってリオンは悪戯っけもあらわにフェリクスを見やった。向こうではまだ竜と人とが会話をしている。たぶん、会話なのだろうとリオンは思う。たとえシェリが一言も話さなくとも。
「嫌い、と言うか、その」
「信用に値しない、が正しいでしょうかねぇ。まぁ、それも当然だと思いますよ、私」
「それは……」
 あっさりと言われてしまってエラルダは言葉を失う。あるいはリオンも、と思ったところで首を振った。
「私も人間です」
 にこり、笑ってリオンが言う。信じるに値しないかもしれない、と言外に言う。が、エラルダはやはり首を振った。
「信じよう、と思います。私だけでも」
 それにリオンはゆったりと微笑みを浮かべ何も言わなかった。感謝もしない。否定もしない。だからこそ、エラルダは彼を信じられる、そんな気がした。
「あなたは、どうしてでしょうか。自然ですね」
「なにがです?」
「半エルフの私を見ても驚かない。彼は闇エルフの子なのに、当たり前に接している」
「フェリクスですか? 長い付き合いですし。それに、私の愛しい人の師は、やはり半エルフでしたしね」
 周囲にいたからだ、と笑って言うリオンにエラルダは何を言っていいのかわからなかった。そういうものではない、とも思う。
 そもそも周囲にいることが自然だ、と言える人間こそが珍しい。その状況に馴染める人間をエラルダは驚異と共に見つめる。
 そして、気づいた。リオンは何者をも差別しない。区別はしているだろう。人間とは違う存在、神人の血を引く者。互いがそれぞれできること、できないこと。差異。だが、それだけなのだ。エラルダは莞爾とする。
「どうしました?」
 突然、朗らかこの上ない笑みを浮かべた彼にリオンは戸惑う。それでもそれがただ戸惑っているだけだ、とエラルダにはわかる。それが無性に嬉しかった。
「いえ。さぁ、仲間にあってください。行きましょう」
 それだけ言ってエラルダはフェリクスを呼び寄せる。ふ、とシェリから顔を上げた彼の表情に、エラルダは胸を打たれた。
 それまで、さほど気に留めていなかった。アリルカの民の切迫した状況に心を奪われるあまり、フェリクスの異常に気づいていなかった。
 何度も会ったフェリクスと、別人のようだった。決して元々表情の豊かな男ではなかった。淡々と物を言い、そのくせ怒涛のように畳み掛ける。熱のない口調も変わらない。
 それでもそこにいるのは別人ではないか、と思う。彼が得意とする氷の魔法で作られた人形がいるかのよう。
「エラルダ。そっとしておいて上げてください」
 静かにリオンが言う。彼の表情も変わっていなかった。にこにことした笑みをその温顔に浮かべ、フェリクスを手招いている。
 エラルダはゆっくりと息を吸い、吐く。動揺を静めるように。リオンの態度、フェリクスの態度。どちらもがフェリクスがいかに大きな傷を心に負ったのかを語っている。
「なに。行くの」
 無造作に近づいてきたフェリクスが、同じ手つきで竜を肩に投げ上げた。一度抗議の声を上げ、シェリは器用に肩に着地する。
「慣れたもんだね」
 ぽつりと言い、フェリクスは手を伸ばしてシェリの背を撫でた。いつ慣れたのか、とはとてもエラルダは聞けなかった。
「行きます。こちらへどうぞ」
 言ってエラルダが歩き出したのは、ただの森だった。その中に道があるようにも見えない。まして多くの人がいる気配などどこにもなかった。
「ははぁ。凄いものですねぇ」
「どうか、しましたか?」
「鍵語魔法じゃなさそうですし。神聖魔法でもないですね」
「ねぇ。見てわかるの」
 不思議そうにフェリクスが問いかけるのに、リオンは呆れて彼を見やった。肩の上、シェリが忍び笑いをしている。少なくともリオンにはそう見えた。
「あなた、私を馬鹿にしてません? 鍵語魔法も神聖魔法も使えるんですよ、私」
「そういえばそうだね。そんな変人、他にはいないよね」
 多少、悪いと思っているらしいフェリクスの声音だった。フェリクスにも、鍵語魔法が使われていないことは見て取れているはずだ。リオンはさらに神聖魔法が使われているのでもない、と言う。
「あの……」
 それに戸惑ったのはエラルダだった。そっと首をかしげて二人を窺う。意外にも返ってきたのは二組の厳しい目だった。
「これが幻覚だとわからないほど、腕は悪くないつもりですよ」
「この程度を見抜けないようだったら、僕が加勢する意味はないね」
 口々に言う二人にエラルダは首をすくめる。試したつもりなどなかったのだ。結果的に、そうなってしまっただけで。
「お話しするのが、遅れただけです」
 信じてくれ、とはあえて言わなかった。言わなくとも、信用する気ならばそうしてくれるだろう。その気がなければ、言っても無駄だろう。二人は揃って肩をすくめただけだった。そして顔を見合わせては互いに嫌な顔をする。
「仲間のうち、神人の子らが、惑いの道を作っています」
「神人の子ら?」
「はい。仲間を、半エルフ、闇エルフと区別するのは……なんだか、嫌で」
 いつの間にか自分たちをそう呼ぶようになったのだ、と言う。
「じゃあ、闇エルフの子はなんて呼ぶの」
「仲間、ですね。自分たちも含めて。そう区別ばかりしていては、面倒ですから」
 それでも区別をせざるを得ない理由に、フェリクスたちは気づいている。神人の子らは、定められた生命の時を持たない。殺されない限りは、死なない。
 転じて、その子供たちは、人間の宿命を持つ。寿命に縛られ、死すべき定めに向かって行くばかり。それが、決定的な差だった。
「こちらへ」
 エラルダは話を打ち切るようにして一行を導いていく。森は、小さく見えていた。すぐさまそれが幻覚のようなものだとリオンには感じられる。
「それでいて、やっぱり幻覚じゃないんですよねぇ」
 不思議そうなリオンに、フェリクスが説明を求めるよう視線を向けた。それに気づいてリオンはそっぽを向く。
「つまり、自分にもわからないってことだね。それを言いたくないから、こういう態度を取るんだ。いい根性だよね?」
 決してあてつけではなかった。が、シェリに語りかけるフェリクスの態度はそう取られたとしても仕方なかっただろう。
 それを救ったのはひとつの笑い声だった。晴れやかで、柔らかな。一瞬、彼の声に聞こえてフェリクスは体を強張らせる。それはエラルダの笑い声だった。
「実は、仲がいいんですね。少しほっとしました」
「どこが!」
「やめてください!」
 抗議が重なり、二人してそっぽを向き合った。今度こそ、シェリが肩の上で笑った。竜の笑い声は、とても笑っているようには聞こえない。それでも誰もがそうだと感じる。
「エラルダ。フェリクスの趣味を教えてあげます」
「なんですか?」
「彼は、年上をからかうのがとっても好きなんです。神人の子らの皆さんは、間違いなく年上ですから。気をつけたほうがいいですよ」
 にっこり笑って言うリオンに、思わずエラルダは吹き出していた。フェリクスが何かを言うより先、シェリがリオンに飛び掛るふりをする。
「おいで」
 呼び声に、すぐさま戻ったところを見れば、ただの演技だと皆がわかる。エラルダの脳裏に思い出がよぎった。シェリの魂の源、タイラントは世界の歌い手だった。吟遊詩人だった。
「場の賑やかしが、自分の仕事とかって言ってたけど――」
 エラルダの心を読んだかの、フェリクスの言葉。ぎょっとして立ち止まりそうになるのをリオンの手が救った。さりげなく背を押されて歩み続けるエラルダの背中に、フェリクスの言葉が降りかかる。
「……下手だよね」
 甘えた鳴き声を上げる竜の顔も、フェリクスの顔も見えなくてよかったとエラルダは心から何者かに感謝をしたい気持ちでいっぱいだった。ちらりと見たリオンもまた、同じことを考えている様子にわずかに心を慰められつつ、エラルダは森を導いていった。




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