フェリクスがきゅっと唇を噛んだ。それを竜が困り顔で見上げている。 「いいよ。あなたがそう呼ばれたって、気にしない。別にいい」 その言葉に本当か、とでも言うよう首をかしげる。応えてフェリクスはシェリを抱きしめた。かすかに浮かぶもの。 タイラントが呼んだ自分の名。元々はカロルの悪口。タイラントだけが、愛しげにその名を呼んだ。シェイティ、と。同じ氷を意味する音をその名の内に持つことになるとは、思ってもいなかった。どこか皮肉だ、と思う。 「フェリクス、いやなら――」 「だからいいって言ってるじゃない。別に僕はそう呼ぶつもりはないし。好きに呼べばいいじゃない。それより行くよ。いつまでもこんなとこでじっとしてたって、進まないじゃない」 畳み掛けてフェリクスはシェリを離す。嫌だと竜が鳴いた。それに気配を緩ませてフェリクスはそっと頬ずりをする。 「エラルダ」 「はい?」 「これ、持ってて」 無造作に渡したのはシェリだった。まるでぬいぐるみでも渡すような態度にエラルダが息を飲む。手を出しかねて、ついリオンを窺った。 「いいんじゃないですか? 本人が預かっててほしいって言ってるんですし」 「ですが……」 戸惑ってフェリクスを見やった。シェリは明らかに嫌がっている。それが気にならない彼ではないはずなのに。 シェリはフェリクスの手の中でもがいていた。断固として渡されてなるものかと暴れている。それにフェリクスの目許がかすかに和らぐ。 「うるさいよ。泣くな、喚くな。黙ってじっとしてる。これから転移するって、わかってるんでしょ」 シェリを、まるで猫の仔でも摘み上げるよう眼前に持ち上げてフェリクスは言う。情けない姿にシェリが小さく鳴いた。 「あの、フェリクス?」 「なに」 エラルダにフェリクスは厳しい顔を向けた。会話を、邪魔されたくないのかもしれない、そう思い至ったエラルダは我知らず頬を赤らめた。 「いったい、どうやって……」 「だから、僕らは複数転移ができる。リオンが行き先を見て取ったの、そこまで理解した?」 「行き先はあなたに教えてもらえましたからね、エラルダ。とりあえず私が先行して、それをフェリクスが複数転移をしつつ追尾する、と言うのも可能ですが、安全面を考えると一緒に跳んじゃったほうが確実なんです」 「だから僕は手が空かない。だからこれ預かって。了解した?」 魔術師二人に滔々と言われてエラルダは肩をすくめる。まったく何を言っているか理解ができない、と言うわけでもなかったけれど、半分以上は理解できていない。 「わかりませんが、わかりました。私はかまいませんが、シェリ?」 いま付いたばかりの呼び名で竜を呼べば、素直に目を向けてくる。色違いの目が妙に澄んでいて、思わず息を飲む。 「これの意思は関係ないから」 「フェリクス。そんな……」 「いいの。ちょっとこっち向きなよ」 いまだ掴まれたままのシェリは、自分で体の向きを変えることができない。だから、フェリクスが言ったのは言葉の綾のようなもの。自分で竜を目の前に持ってきた。 「あのね、危ないの。あなたもわかってるんでしょ。わかってないはずはないよね?」 シェリはタイラントなのだから。言葉にしない声が響く。竜が小さく鳴いた。 「僕はいやでもそこのボケ坊主と手を繋がなくっちゃならないし、あなたを肩に乗っけとくのは不安定で怖い。わかる?」 リオンが小声で抗議する。罵り言葉で呼んでいいのはカロルだけだ、と。それにエラルダがまたも顔を赤らめた。 「ねぇ、あなた。僕だって、他人の手に触れさせたくない。それもわかってるよね。それでも言うよ、エラルダのところに行ってて。僕にあなたを守らせて」 あのとき、庇われてしまった自分だから。肝心なときに何もできず、その命を奪ってしまった自分だから。 フェリクスの声なき声が聞こえたのは、シェリだけだったのかもしれない。彼の腕の中から伸び上がり、甘えた声で鳴く。それからそっと頬を舐めた。 「わかったみたいだね」 竜の声のよう、小さなそれだった。誰しもが、それを聞かなかったふりをする。フェリクスが顔を上げたとき、そこにいるのは見慣れてしまった無表情の彼だった。 「エラルダ」 「はい」 「荷物、持って。そう、じゃない。抱えて」 「こう、ですか」 「うん」 革の荷袋を、両手で抱えさせる。不思議そうにするエラルダに、シェリとリオンが声を上げた。一方は人間の笑い声、もう一方は笑い声に最も似たもの。フェリクスはちらりと二人を見たけれど、何も言わずに荷物を抱えるエラルダの腕を手直しした。 「おいで。そっち行ってて」 こいと言うのか行けと言うのか。リオンはかすかに笑ったけれど、シェリは迷わなかった。フェリクスが手を離すなりふわりとエラルダが抱える革の荷袋に飛び移る。 「それだったら、あなたも痛くないでしょ。けっこう鉤爪が鋭いからね」 エラルダへの言葉は、言い訳に聞こえた。だから、誰も何も言わなかった。シェリだけが振り返って、フェリクスに鳴いてみせる。 「おとなしくしてなよ」 言って、さも嫌そうにリオンを見た。同じ顔でリオンも彼を見返す。 「嫌なことはさっさとやるに限るね」 「同感です。では?」 「……ほんと、嫌」 呟いてフェリクスが両手を差し出した。リオンとフェリクスの間に挟むよう、エラルダを立たせる。繋ぐと言いつつ触れ合っただけの手で作った輪の中に、エラルダが入った格好だった。 「いいよ。心配ない」 シェリに向かって言えば、エラルダが困り顔をする。 「そんなこと言ったら、エラルダが怖がるじゃないですか。何か不安があるみたいで」 「そんなこと言ってないじゃない。あなたって、どうしてそういい加減なこと言うの。怖いわけ、エラルダ?」 「あ……いえ、そんなことはありません。大丈夫です」 二人して言われてしまっては、たとえ恐怖を感じていたとしてもエラルダはそう言うしかなかっただろう、とリオンは少しばかり後悔した。 「まぁ、すぐ済みますから」 エラルダの背中に向けて言えば、肩をすくめられた。これは早急に済ませてしまったほうがよい、とリオンはフェリクスに目を向ける。 「いつでもいいよ」 エラルダのよう、肩をすくめた。が、フェリクスのそれは表情と同じだった。態度までもが感情を滲ませない。 一つ溜息をつきたくなって、リオンはこらえる。おそらくは転移の緊張に耐えているのだろうエラルダに、これ以上の負担をかけては申し訳ない。 「では」 フェリクスの顔を見て、リオンはうなずく。小声で詠唱に入った。打ち合わせたわけでもないのにぴたりとフェリクスの声が重なる。複数転移の呪文は、通常の転移呪文より長く複雑だ。それは真言葉魔法のときから変わらない。それだけ難易度の高い魔法だった。 エラルダは黙ってじっとしているしかできなかった。言うまでもなく、不安だ。彼らが大陸有数の、おそらく現時点で一二を争う魔術師だというのはわかっている。 それでも、魔法による転移とは考えただけでもぞっとする。天性で魔法を行使する半エルフが、かの神人の血を引く半エルフにして成し遂げられないこと。それを人間の魔術師がする。緊張と、それ以上に羨望だった。 「あ――」 小さく上げてしまった声に、フェリクスが怪訝な顔をする。慌ててエラルダは首を振る。呪文の妨げになっていなければいいのだが、と思ったときまたも声が聞こえた。そのせいで驚いたのだった。 それは荷物の上に止まった竜の声。励ますように、そしてなぜだろうか、自分は自分でそこにあるのだ、そう認められた気がした。 エラルダは小声で呟く。シェリにだけ聞こえるように。世界の歌い手、と。フェリクスに聞こえていなければいいが、と窺っても彼には聞こえた様子がない。ほっとシェリに目を戻したとき、エラルダの目が見開かれた。 シェリが、笑っていた。笑うように作られてはいない竜の顔なのに、エラルダにはその笑みがはっきりと見えた。 不意に体が傾ぐ。自分の持つ荷物の上にいるのが世界の歌い手の魂だ、との驚嘆。そのせいだとばかり思っていたエラルダは、またも息を飲むことになる。 「はい、到着です。あってると思うんですが、どうでしょ、エラルダ?」 はっとして辺りを見回す。そしてエラルダは呆然とした。触れ合う手を離した魔術師が、二人して嫌そうに手を振っているところなど、目にも入らなかった。 「ここは……」 「なに、間違ってるの。だったらさっさと言ってね。僕が馬鹿な弟弟子を絞めるから」 「いえ……そんな。まさか――」 「フェリクス。あってるみたいですよ。いやぁ、よかった。驚いてもらえたみたいで楽しいです、私」 「なに馬鹿なこと言ってるの。だからボケだって言われるんだよ」 「だから、そう言っていいのは私の銀の星だけですって。あなたはだめですよ。そんなこと言うと私も呼んじゃいますよ」 シェイティと。リオンの唇が声に出さずに言葉を形作る。咄嗟のことだった。考えもせず、リオンはよけている。 「ねぇ、リオン。あなた、死にたいの」 すぐ目の前でフェリクスの剣が煌いていた。血の通う氷の剣が、すい、と動いてはリオンの前髪を数本、切ってはゆらりと揺らめく。 不意に慌てた羽音。荷物から飛び立ったシェリが、二人の間に飛び込んではなだめるよう、フェリクスの胸にしがみつく。甘えた声を上げる竜に、気づけば剣は溶け消えていた。 「……冗談だよ。たぶん。きっと。本気じゃないよ」 どこまで本当だからわからないことを言いつつシェリを抱きしめたフェリクスの腕は、声が滲ませない心の代わりのよう、優しかった。 |