一行が目指しているのは小さな木立だった。フェリクスの肩の上には、いまだぐったりとした竜がいる。泣き疲れて眠っているらしい。
「この辺でいいかな」
 フェリクスは竜を気遣っているのがありありとわかる声でそう言っては辺りを見回す。それでいて、視線は前に向けたままだった。
「いいんじゃないでしょうかねぇ」
 リオンもまた周囲を確認して人気はない、と彼に言う。そんな二人にエラルダが戸惑いの目を向けた。話をしていなかった、と照れて笑ったリオンが口を開く前、フェリクスの目がようやくエラルダに向けられる。
「ねぇ。鍵語魔法は、使える?」
 半エルフは生来、魔法が使える。それは生まれ持った才能のようなもので、習い覚えるものではない。だから魔法は使えても鍵語魔法は使えない、と言う半エルフは多くいた。
「私は――、その」
「使えないってことね。あのね、エラルダ。僕は知ってると思うけど元々気が長いほうじゃないし、今は特に婉曲な話し方で気持ちを察するなんてことはとてもできないしするつもりもない。悪いけどはっきり言ってね」
 畳み掛ける口調に、一瞬かつてのフェリクスが還ってきたのかとリオンは目を瞬く。気のせいだった。
「フェリクスはね、ここからアリルカの民のいるところの近くまで転移しようと、そういう腹のようですよ」
「近くまで?」
「あなたが鍵語魔法が使えて、なおかつ転移魔法を習得しているんだったら一直線、まっすぐにアリルカの民のところまで行かれるんですけどねぇ――」
 言ったリオンがなぜか首をひねる。それにフェリクスまで同じ仕種をした。そして顔を見合わせ、互いに嫌な顔をする。
「あなた、なに考えたの」
「たぶんあなたと同じことでしょうねぇ。嫌だなぁ」
「それは僕の台詞」
 切り付けるよう言い、リオンに向けて顎をしゃくる。説明は任せた、と言うことだろうと察してリオンはエラルダに向き直った。
「えーと、とりあえず提案だけしますから、選んでくださいね」
「なにを、ですか」
「うん、ものすごく簡単に民のところまで行くことができる方法があるんですよ。ですがそのためにはあなたの心に触れさせてもらわなきゃなりません。あ、本当に表層部分だけです。そんなに深くまでは行きません。約束します」
 リオンの慌てぶりにエラルダは微笑んだ。半エルフの心に接触する、その意味を知っている人間がいることへの微笑だった。
「私はかまいません。ですが――」
「私の身近にはメロール師って言う半エルフがいましたからね、異種族でも大丈夫です。メロール師が練習させてくれましたから」
 人間と、半エルフと。同じ言葉を話し、同じ物を食べ、同じように悲しんだり喜んだりする生き物なのに、心のつくりが決定的に違う。それをフェリクスは聞くともなく聞きながら淡々と思い出していた。
 自分は、と思う。いったいどちらにより近いのだろうか。半エルフか、それとも人間か。あるいはどちらともまったく違うのだろうか。
「ねぇ」
 肩の上の竜に手を伸ばせば、寝ぼけた声。ふっと口許が和らいだ。竜が気配を察して覗き込んでくる。が、フェリクスは自分で知っていた。笑みにはなっていないことを。それを見た竜が落胆しないよう、強いて体を精一杯に伸ばして何事もなかった顔をしていることも。
「フェリクス。何か言いましたか」
「別に。なんでもないよ。話を続けて」
 肩をすくめたフェリクスに、彼が口を割らないことを感じ、リオンはかすかな溜息をつく。そしてエラルダに小さく笑みを作って見せた。
「あなたがアリルカからどうやってきたか思い浮かべてくれれば、私がそれを心から読み取ります」
「そんなことが……」
 呆然とするエラルダに、リオンは今度ははっきりと笑みを浮かべた。自分ができることへの、誇りだった。そして仕込んでくれたカロルへの。
「私は大地に属する魔法が得意ですから。この地の上にあるものならたいていは思い浮かべてくれるだけではっきりわかります。水の中だったらフェリクスですね」
 首をひねるエラルダの表情も、リオンの笑みも一瞬にして凍りつく。フェリクスの言葉が聞こえていた。
「風の言葉を聞くなら、あいつに勝る者はいなかったね」
 感情の忍び込む余地のない声。ただの事実を語っているはずなのに、二人は言葉を返せない。あるいはそれは、フェリクスがはっきりとタイラントのことを語ったせいかもしれなかった。
「ですからねぇ、カロルだけが不機嫌で」
「それは、いったい……?」
 凍り付いてしまった時間を解きほぐそうとでも言うよう、リオンが肩を叩いて言葉を繋ぐ。笑みはまだ強張っていたけれど。
「ほら、大地と水、風はたいてい役に立つわけですよ、人助けに。でもねぇ、あの人の属性は火ですから」
「火事のとき、役に立ってたよ」
「そうそう頻繁に火事が起きられたんじゃたまりません」
「カロルだったら自分で起こしかねないしね」
「そんなことは……しませんよ」
「間があったけど?」
 フェリクスの軽口めいた言葉に、エラルダがほっと息をつく。奇しくもリオンのそれと重なった。顔を見合わせる二人に、フェリクスはどこかを見たまま目を向けなかった。
「ですから、あなたの心から読み取らせてくれれば、すぐに転移できますよ、と。そういう話だったんですが」
「リオン。いいですか?」
「はい、なんでしょう?」
「あなたがたが転移できても――」
 真剣な声に、リオンはうっかりと説明を端折ってしまったのにようやく気づく。ばつが悪くなって頬をかいた。
「えー、その。すみません。説明が足りませんでした。私たち、複数転移ができます」
「な――!」
 半エルフにとっても、それは驚くようなことだったのだな、とぼんやりリオンは思っている。神人が去ったあと、複数転移魔法は絶えた、と言われている。そもそも人間は習得できなかった、とも。
 それをこの地上の生き物が使える形に精錬したのが、リィ・サイファだった。そしてリィ・サイファの友であったサリム・メロールがそれを伝え、鍵語魔法として構築しなおした。
 だから、メロールの一門で優秀な者は複数を一度に転移させることができる。フェリクスも、リオンもまた。
「複数、転移……。信じがたい。ですが」
「できますよ。便利ですよねぇ」
 そういう問題か、と言いたげなエラルダの目つきにリオンは虚ろな笑いを漏らした。何事かを諦めたエラルダの小さな溜息に目を留め、慌てて顔を引き締める。
「と言うことで、どうでしょう?」
「わかりました。どうぞ」
「では」
 もしも偶然ここに魔法に馴染みのない者がいたとしたら、彼らが何をしているか首をかしげたことだろう。劇的なことは何一つとして起こりはしなかったし、目立つほど表情を変えた者もいない。
「はい、ありがとうございます」
 照れくさいのか、目だけは閉じていたリオンがエラルダのそばから離れる。そしてフェリクスに目を向けた。
「わかりましたよ。いつでも大丈夫です」
「そう。じゃあ、行こうか」
 言ったのは、竜にだった。肩から下ろして抱きかかえれば、まだ泣き腫らした目をしている。竜の目も、泣けば赤くなるのだ、とフェリクスはわずかに心が動くのを感じた。
「あなた、大丈夫かな」
 不意に不安を覚えたよう、竜に問いかけても彼は答えない。答えられないのかもしれない、とフェリクスは思う。
「転移自体には問題はないと思いますよ」
「根拠は」
「かつて半エルフの魔術師、リィ・サイファは人間の戦士、ウルフと共に転移した、とメロール師は言ってましたよね」
「それが?」
 リオンの言葉にフェリクスは苛立たしげに首を振る。ただ、額にかかる髪を払っただけかもしれない。
「彼らの場合、異種族で、しかも相手は戦士ですよ? 私とあなたは問題ないとして、エラルダも魔法に馴染みがないわけではないですし、彼もそうでしょ。だいたい彼とはもう一度、一緒に跳んでるじゃないですか。――あぁ、もう!」
 突然大きな声を上げて、それよりいっそう大きな息を吐くリオンにフェリクスは目を瞬く。きつい視線を浴びせれば、同じような目つきが返ってくる。
「いい加減、面倒です。いつまでも人称代名詞で呼んでたら、わかりにくくっていけません。なんとかしてください」
「なにが――」
「わかってるでしょうに」
 言ってリオンはフェリクスの腕の中の竜を見た。途端にフェリクスの顔が強張る。それをおろおろと竜が見上げていた。
「……呼べない」
「別にあの名前で呼べ、とは言ってませんよ」
 タイラントと呼ぶ必要はない、そうリオンは言外に言う。それでもフェリクスは首を振った。
 ふと、思い出す。初めてフェリクスに出会ったときのことを。あの時の彼はいまより少しだけ、若い姿だった。それでも子供と言う歳ではなかったのに、妙に幼い子供のように見えていた。リオンは思い出しつつ、フェリクスを見ていた。あの時のようだ、と。
「だったら勝手に呼ばせてもらいますよ。嫌だったら聞かなきゃいいんです」
「リオン!」
「フェリクス。聞き分けてください。これから我々だけではないところに行くんですよ。あれとかそれとか彼とかで済むと思ってるんですか」
「わかってるよ、そんなこと。わかってる――!」
 声を荒らげたフェリクスの腕の中、竜が甘えた声を上げた。はっとしてフェリクスは竜を見る。また、泣き出すかと慄いていた。
「……ねぇ」
 呼びたい、呼びたくない。違う。同じ。思いが巡って言葉にならない。それでいいと言うよう、竜がうなずいていた。
「小さいですけど、氷竜ですしね、シェリとでも呼んでおきましょうか。どうです?」
 竜に語りかければ、リオンに向けて竜はうなずいて見せた。嬉しそうではなかったけれど、嫌がってもいなかった。竜はただ、フェリクスを窺っていた。
「氷竜、そのまんまじゃない」
 魔法に使われる言葉を通常言語風に発音して氷竜を表せば、シェリとなる。フェリクスは力なくシェリを抱きしめた。
 二人とも、語らなかったことがある。エラルダも、気づいた。アルハイド統一王朝時代の古語、いまは使われることのない古い古い人間の俗語でシェリ、とは真珠の意だった。




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