数日後、一行はリィ・サイファの塔を後にした。フェリクスは塔を振り返らない。無言で前だけを見ていた。 その肩の上、竜が振り返る。一声上げた鳴き声は、寂しげに聞こえた。 「どうしたの。……そう。寂しいんだ。ここを離れたくない?」 視線をそらさないフェリクスがじっと佇んで問いかければ、竜は答えて鳴く。その背にフェリクスの手。 「全部終わったら、戻ってこようか。ここだったら、安全だよね。一緒に死ぬまでこもる? 僕は、それでもいいよ。それで……あなたが安心するなら」 淡々と言う声に竜が抗議の声を上げた。半エルフとリオンはぴたりと黙って動けない。それほどフェリクスは酷い声をしていた。 「だって、嫌なんでしょ。僕が戦いに行くの、嫌なんだよね。あなたは……彼は、と言うべきかな? あいつは、僕が無茶をするの、いつも嫌がってたよね」 違うとばかり鳴く竜に、フェリクスは唇を吊り上げた。本当にそんなことは思っていなかった、心配はしていたけれど、フェリクスが言うような意味ではない。そう伝えでもするよう、竜が肩に鉤爪を立てる。 「痛いよ」 言えば、驚いた竜が慌てて力を抜いたのだろう、その拍子に体勢を崩す。肩から落ちそうになった竜を、フェリクスは無造作な手で受け止めていた。 「戦って、いいの」 答える竜に、こくりとうなずく。無表情のまま語り合う二人を、リオンたちは黙って見ていることしかできなかった。フェリクスがゆっくりと歩き出す。 「情けないですねぇ」 その後姿にぽつりとリオンが呟いた。同感だ、と言わんばかりにエラルダもまたうなずく。二人顔を見合わせて、溜息をついた。 「聞いても、いいでしょうか」 「なんです?」 「フェリクスの、ドラゴンのことです」 きょとんとしたリオンがその言葉に顔色を変えた。それが苦笑に変わったころ、フェリクスが振り返る。 「置いてくよ」 静かな声だった。感情を排した声と言うのは、これほど生気を感じさせないものかと思うほどに。エラルダは思う。フェリクスはアリルカの希望だと思った。それが、彼には重荷になっているのかもしれない、と。 「行きますって。置いていくつもりですか、私を? 私はいいですけどねぇ。エラルダ置いてったら仕方ないでしょうに」 ぼやくリオンにかまいもせず、またフェリクスは歩き出した。それを好都合とばかり二人はゆっくりと彼の背中を追った。 「ドラゴンが、なんです?」 フェリクスの耳に届かないよう小声でリオンは問うた。が、無駄だろうとも思っている。彼は耳聡いほうだったし、その肩には風の魔法を得意としたタイラントの魂の欠片がいる。大気を伝わって聞こえてくる話ならば、おそらくフェリクスには筒抜けだろう。 「あれ……いえ、彼、でしょうか。彼は――」 「もう察しているとは思いますし、簡単には話しましたよね、確か?」 「あのドラゴンが、世界の――」 「そこまでです。名を出さないように」 名を出すまい、とエラルダは心がけてあえて「世界の歌い手」と呼ぼうとした。けれどリオンはそれでもだめだと言う。唇を引き締めて、エラルダはフェリクスを見やる。 「その、彼だと言うことは、理解しました。が」 「それがどうしました?」 「……戻れないのでしょうか」 小さく言ったその言葉だけは、どうかフェリクスには聞こえていませんように。リオンはそう願う。祈ってすらいた。 「あれは、フェリクスが愛した人の、魂の欠片です。それは、わかってますよね?」 どう言えばいいのだろうか。エイシャの神官の目には確かなことが、他者に伝えるにはこんなにも難しい問題になってしまう。 「エラルダ、問題です。ここに、硝子の器があります。それが、割れてしまいました。もうそれは木っ端微塵に。さて、欠片を集めてもとの器に戻すことは可能でしょうか」 軽やかな声音のせいで、言葉の非道さが目立たない。けれどリオンが言っている意味はよくわかった。エラルダは言葉もなくうなだれる。 「……もう一度、聞きたかったのです」 「エラルダ?」 「一度、歌ってくれたことがありました。そのときフェリクスは、こんなものは……彼の真の歌ではない、そう言いましたが、それでも」 「えぇ……」 「この世界が歪んで、壊れていくのを我々半エルフは、いえ、神人の血を引く者たちは顕著に感じています。たぶん、フェリクスも。だからこそ、失いたくないものがありました」 「それが――」 「はい。この世の美しさを、醜ささえもあっていいと歌う彼が、いない。またひとつ、アルハイドは善なるものをなくした、そう思います」 リオンはうなずくこともできなかった。以前聞いたメロールの話を思い出す。この世界は折々に歌うのだと言う。世界そのものが、喜び嘆き、時につれ歌う、と。それを人間の声で表現するのが世界の歌い手だ、と。 「聞きたかったのも、あります。失ってはならないものを失くしてしまった悔しさもあります。ですが」 「フェリクス、ですか」 「はい。彼のそばに彼がいるならば。……見ているのが、つらいのです」 知り合ったばかりの半エルフの優しさを思う。だからリオンは何も言えなくなってしまう。タイラントが戻ることはない。それは定められた命が尽きた人間をこの世に呼び返すようなものだとは、決して。 「同情も、優しさも欲しくない。エラルダ。僕はここに生きて立ってる。自分の足で歩いてる。まだ、平気」 いつの間にか話を聞きつけたフェリクスが振り返っていた。二人して言葉に詰まるのを、フェリクスはではなく竜が面白そうな顔をして見ている。 「あなたが――」 「僕が平気だって言うときは結構限界だって、思ってるね、リオン」 そのとおりだ、とでも言うよう竜が鳴く。それをフェリクスはひと睨みして黙らせた。小さくなった竜に、フェリクスの手が下りていく。柔らかい仕種だった。 「塔でも言ったと思うけど。僕はひと暴れしなきゃ気がすまない。失くしたものが返ってこないって嘆くのは、あとで幾らでもできるからね」 嘯いて、フェリクスは前を向いた。リオンの視界の隅にエラルダが唇を噛みしめるのが映ってしまう。小さくついた溜息に、エラルダが目を向けてきた。 「本当に、前々から思ってましたけど。無茶苦茶ですよねぇ、フェリクスって」 「そう……ですか?」 「あの無謀さって、いったいどこから来たんでしょ」 肩をすくめて言うリオンに、前を向いたままフェリクスから言葉が飛ぶ。 「とりあえず悩む前に進めって教えてくれたのはあなたの愛しい愛しいカロルだけど?」 「場合によりけりですよ」 「そう? 何はともあれ進めって言われたけど。馬鹿が立ち止まって考えてる暇があったら進んどけって言われたよ。僕っていい子だと思わない? この期に及んで師匠の言いつけに従ってる。ほんと、いい弟子だと思うよ、我ながら」 本当か、と言わんばかりにして竜は鳴き、フェリクスの顔を覗き込む。それに竜は期待していたのかもしれない。フェリクスのささやかな微笑みが返ってくるのを。だが彼は表情をなくしたままだった。 「いい加減、独り立ちしたらどうです?」 呆れ声のリオンにエラルダがそっと笑う。どうやらこれが二人の日常のやり取りに、あるいはかつて日常であったやり取りに、最も近いものらしい、と見当をつけていた。 「独り立ち、してるじゃない。だから弟子もいっぱいいたけど。あいつら、生きてるのかな?」 「さてねぇ。全滅したならそれはそれで噂話の一つも入ってこようというものですが」 「意外と薄情だね、自分の弟子もいるくせに」 「私の弟子たちは世故長けていると言いましょうか、出来がいいんですよ。ラクルーサ王ごときの追手につかまるようなお間抜けさんはいません」 おそらく会うことはないだろう弟子たちを誇るリオンの声に、フェリクスは振り返らなかった。胸の中、わずかに忸怩たる物がある。 「……平気」 覗き込んできた竜に小声で答え、フェリクスは竜を肩から下ろして抱きかかえる。 弟子たちを心配していないわけではなかった。だが、それより己の今後が気にかかる。いつも自分のことばかりだ、とフェリクスは思っていた。師と呼ばれる身なのだから、弟子のことをもっと気にかけなくてはならないのだと、頭ではわかっている。 「でも――」 関心が、正直に言って持てない。この世のすべてに興味がない。それならばいっそ、とフェリクスは思うのだ。 ラクルーサ王のことも、恨みも悲しみも全部、淡淡とした雪のように消えてしまえばいいのに、と。 「楽に、なれるかな」 ぽつりと言う。竜は答えない。フェリクスにもわかっていた。 「無理だよね」 この世界の全部になんの関心もなくなったとしても、タイラントを失ったことだけは、忘れられるはずもない。 そっとフェリクスは自分の体を見下ろした。あのとき体にかかったタイラントの血の温度。その匂い。最期の笑み。言っていたこと。 「忘れられるはずが、ないよね。忘れたくないよね。全部、覚えてる。楽しかったことも、悲しかったことも、全部」 ひとつずつ、数え上げろと言われれば、できるだろうと思う。出逢った時は、変な竜だった。それが、酷薄な男になった。紆余曲折を経て、幸福になった。師がつけてくれたその名のとおり、希望を持つことができた。 「……なくなっちゃった」 きゅう、と竜が鳴いた。あまりにも悲しげな声で、フェリクスは彼に目を向ける。それまで遠くを見ていたことにも気づかなかった。 「あ――」 心から、驚いていた。何度か目を瞬く。目の惑いではなかった。 竜が、泣いていた。大粒の涙を、タイラントと同じ色違いの目から零して、フェリクスを見上げて泣いていた。 「嫌。ねぇ……。ねぇ、それ、嫌。お願い」 まるで泣けないフェリクスの代わりとでも言うよう、ぽろぽろと泣き続ける竜をなだめたくて、なだめられなくて、フェリクスは戸惑うばかり。ただぎゅっと竜を抱きしめた。 |