ゆっくりと塔の中を歩いていく。エラルダはわずかな違和感を覚え、ここが複雑極まりない魔法空間を接いだものだと知った。 「凄いものですね」 「え……? あぁ。確かに凄いですねぇ。あんまり複雑なんで、たまにくらくらしますよ」 「あなたが?」 確かに目の前の男はただの人間だ。が、真理の使徒の称号を持つ、大陸随一と名高い魔法の使い手だった。 「だって、私が作ったわけでじゃないですし」 からりと明るく言われてしまって、エラルダは少し戸惑う。先ほど厳しい忠告をしたのと同じ人物だとは思えなかった。 「元々この塔はあなたの同族、リィ・サイファが作ったものでしょう? 我々には手に負えませんよ」 「そう、ですか?」 その答えで、リオンは知った。最前から悟っていたことではあるが、エラルダには鍵語魔法の素養はないらしい、と。 「さて、と。覚悟はいいですか?」 扉の前に立ち、開ける前にリオンはそう言った。エラルダはやはり、戸惑う。おそらくこの向こうにはフェリクスが待っているのだろう。それを意味するには、いささか不思議な言葉だった。 「はい」 表情を引き締め、エラルダはうなずく。先ほどのリオンの忠告を、胸に刻んで忘れない。 元々、それを知ったからこそエラルダはフェリクスの元に遣わされてきた。最愛の人を失ったいまこそ、彼が自分たちの勢力に与することを期待して。 まるで痛みにつけこむようだ、とエラルダは不快を覚えては、いる。しかしそれが仲間の意思ならば、無視はできなかった。それが自分たち、アリルカの民の生き方だった。 「こちらへ」 かしこまってリオンが扉に手をかけた。ゆっくりと開けば、そこに光が見えた気がした。すぐさま錯覚だ、とエラルダは気づく。それでもまるでフェリクスが光のよう、見えていた。 感嘆に立ち尽くした半エルフを、フェリクスは淡々とした目で見ている。何度か会ったことがあった。アリルカからの使者としては、一番馴染みが深い、と言ってもいい。それでいて、エラルダはいま、初めて会ったような顔をしているのが不審だった。 「エラルダ?」 呼びかけに、リオンは二人が初対面でないのを知る。それがどことなく寂しい。確かに親密な関係ではなかったけれど、彼に自分の知らない交遊があるとは思ってもいなかったのだ。 不意に思う。カロルは、知っていたのだろうか、と。フェリクスが、どちらかといえば自分の同族、と考えているらしいアリルカの民と交流を持っていることを、もしも知っていたならばカロルはどうしていただろう。 たぶん、とリオンは思う。何もしなかったはずだ。きっと、知っていて黙って見つめていたのだろう。ならばタイラントは、とも思う。 彼は確実に、知っていたはずだ。そのリオンの思いを裏付けるよう、フェリクスの肩の上で竜が鳴く。歓迎の声に聞こえた。 「……久しぶりですね」 「そうだね」 「少し、お変わりになった」 「そうかもね」 取り付く島もない、とはこのことかもしれない。フェリクスは格別冷たくしているつもりはないだろう。いまの彼にとっては自然な態度ですらある。 エラルダは、どう感じただろうか。案じてリオンはちらりと客人を見やる。そしてほっとした。彼は仄かな沈痛を顔に浮かべ、決してフェリクスの態度を非難してはいなかった。 「えー。お茶でも淹れましょうかねぇ」 どことなく強張った雰囲気を和ませようと、軽口めいて言ったものの、リオンの胸に痛みが走った。自分の口調が、タイラントのそれを模したものだと、気づいてしまった。 「それ、やめて」 厳しい声ではなかった。叩きつけるようでもなかった。それでもリオンはそう感じた。だから、謝らない。詫びれば、自分がタイラントのことを思っていたのだと、フェリクスに認めることになる。それはいっそう彼を傷つける。 「なんのことでしょうねぇ。別にいいですけど。エラルダ、あなたもお飲みになりますか」 尋ねれば、息をついたのだろう、半エルフがうなずいた。リオンには、彼が考えていることがわからない。 わからないなりに、想像していることは、あった。リオンは半エルフを知っていた。カロルの師、サリム・メロールとその擁護者であり恋人でもあったアルディアを知っていた。彼らは言っていた。半エルフにとって記憶は去るものではない、と。忘れるものではなく、いつまでも心のうちにあるものだ、そして愛する人こそ、至上なのだ、と。そう語ったメロールは、つまり間接的に惚気ていたわけだが、リオンは今も続けて言ったメロールの言葉が忘れられない。 「もしも愛する者を失ったならば、私ならばどうしていいかわからなくなるだろう。闇に堕ちることも充分考えられる。その、失い方によっては」 あの時の彼は、仮定の話ではなく、想像ですらない。まったくの架空の話として語っていた。だが、いまフェリクスはメロールが語った状態に置かれている。 フェリクスは、半エルフではない。血を同じゅうする闇エルフの子だ。幾許なりとも、メロールと同じ血を引いている。 だからこそ、エラルダは彼の心の痛みを思っているのかもしれない。フェリクスがそれを、どう思うかはわからないとしても。 「喜ぶとは、思えませんけどねぇ」 一人下がって茶を淹れつつ溜息をつく。こんなときには甘い菓子が欲しくなる。メロール手製のそれは、実に旨かった、と手の届かないことに思いを馳せてリオンはもう一度溜息をついた。 静かに茶を運んでいけば、二人は語るあうでもなく睨みあうでもない。黙って座っているものだから、竜が所在なげにおろおろしていた。 「おいでなさい、あなたの分もありますよ」 呼びかければ、竜がほっとした気がした。そのぶん、フェリクスがかすかに嫌な顔をする。それにリオンは安堵する。嫌な顔でもいい、無表情よりはずっとましだった。 「お口にあうといいんですけどねぇ。どうぞ召し上がれ」 エラルダに茶を勧め、フェリクスの前にも置く。小さな器によく冷ました茶を注いだものを置けば、竜がテーブルに舞い降りる。 「生意気だね。飲む気なの」 茶化すようフェリクスは言う。竜の背を撫でる指先は殊の外に優しい。エラルダが不思議そうな顔をして問いかけそうになるのを、リオンは無言のうちに制した。 「せっかくだから、冷めないうちに飲んだら? 特においしいってわけでもないけど」 「人に淹れさせておいてよく言いますよ」 「兄弟子のために働くのは筋ってものじゃないの」 軽い言い合いに、エラルダの気配が和らぐ。竜が茶を勧めるよう、自らさも旨そうに飲んで半エルフを見上げた。 こくり、と一口飲んでエラルダは息を入れる。ふと、気づいた。ここに竜がいる不思議さには、当然気づいていたのだが、そしてその竜が腕の長さほどの大きさである不可思議さにも気づいていたのだが、今更わかったことがある。 竜の体色に、見覚えがあった。銀と言うよりは真珠色。甘い優しい色合いかと思えば、一転して冷たくなる。その色に、見覚えがあった。 「エラルダ」 厳しい声にはっとする。リオンにたしなめれたのかと思った。が、声はフェリクスのもの。 「あなたがなにを考えてるか、想像はつく。でも言わないで。僕は聞きたくない」 それが、エラルダの想像に確信を与えた。ならば、これはあの世界の歌い手の変わってしまった姿なのだ。彼は死んだ、と聞く。それは間違いだったのか。 思った瞬間、否定した。もしも彼が生きてここに姿を変えたままいるならば、フェリクスはこれほど痛ましい顔をしてはいないはずだった。エラルダは、言葉をなくす。 「あなた、なんの用事だったの」 「フェリクス。お客様にそういう言い方はないんじゃないですか。遥々わざわざきてくださったのに」 「まどろっこしい忠告はやめて。言いたいことがあるならはっきり言いなよ。あなたのそういうところが嫌いなんだ」 「でははっきり聞きますが。気に入るところがどこかあるんですか、私に?」 「あるわけないでしょ。なに馬鹿なこと言ってるの。頭に悪いものでもまわったんじゃないの。本当に愚か。ねぇ、聞いた?」 あてつけがましく竜に最後は問いかけてフェリクスは竜の顔を覗き込む。茶をすすっていた竜は、困り顔で曖昧にうなずいた。 「そういうところ、器用だよね。ほんと」 ぽつりと呟き、そしてフェリクスはエラルダの存在を思い出す。引き締めた顔からは、表情が消えてしまったようだった。先ほどから、ほとんど動いていないにもかかわらず、エラルダにはそう見えた。 「率直に言って――」 フェリクスの変化を感じ取り、エラルダは語りかける。どう話していいものか、迷ったけれど結局は飾らず話すことに決めた。 「あなたの力が欲しい。我々に手を貸して欲しいのです」 「どんな?」 「魔法の力を」 「それはわかってる。僕の魔法で何をしたいの。僕に何を見返りにくれるの」 「あなたには、戦力を。あなたが為したいと思っているだろうことに、我々は全面的に協力します。人間と、戦いたがっているものは、多い。我々が欲しいのは、あなたの戦力です。人間と戦う、その機運は我らにも高まっている。だからこそ戦力を高めたい」 「人間と戦うの。僕はラクルーサ王を殺したいだけだけど。あの男の大事にしてるものを一つ残らず叩き壊してから、殺したい。それだけだ」 「それで、済みますか?」 エラルダはそう言ってリオンを見た。竜が不安そうに首をかしげている。 「エラルダの仰るとおりでしょうねぇ。ラクルーサを相手取れば、ましてアリルカの民の力を借りれば、ミルテシアも出てきますよ。ですが、正直に言って私たち二人でラクルーサ王国を相手取るとちょっと死者が出すぎますし、同盟相手としてアリルカの民は最適でしょうね。さて、どうします、フェリクス?」 「エラルダ、はっきり言って。僕が聞きたいのは、アリルカがどうしたいかってことなの。この先に」 「戦いが終わったあとの、ことですか」 その問いに、エラルダは戸惑った。それほど先のことを考えていないと言えば嘘になる。が、アリルカでも確実に決まっている話ではなかった。 「仲間のうちには、気が済んだら旅に出よう、という者もあります。この大地で、ひっそり暮らしていこうという者もあります」 「要するに僕はそのひっそり暮らす派の手助けをすればいいって事だね」 あっさり言ったフェリクスに、なぜか痛みが走ったのリオンは見た。彼にはわからなかったけれど、半エルフのエラルダは気づく。すべてを捨てて、何もかもを忘れて旅立つことすらできない自分を、あるいはフェリクスは思ったのかもしれない、と。 |