まるでフェリクスの感情に支配されてしまったようだった。たまらない切なさを感じてリオンは必死で自らを立て直す。 やっとのことで自制して、リオンは自嘲した。神官となったばかりのごく若いころを思い出す。あのころは常にこうした至らなさを見せ付けられていたものだった。 「フェリクス、それはなんです?」 不意に彼が手に持つ本に気づいた。先ほど彼は言っていたはずだ。ここには魔法を探しにきたのではない、と。ならばそれはいったいなんだろうか。 「これ? これは――」 わずかに言いよどみ、フェリクスは手を一振りした。と、机が出現する。肩の上で竜が首をかしげた。それにちらりと視線を向けてフェリクスは唇を噛む。 「歌集だよ」 ぽん、と投げやりに本を放り出す。が、リオンは見てしまった。その指先がかすかに震えたことを。目をそらしたくて、けれどそうすればフェリクスは自分が見たことに気づいてしまうだろう。だからリオンはじっと堪える。 「歌集、ですか?」 それをここに探しにきた、と言うのだろうか、彼は。そんなもののために、とは言わないが、彼が何を意図しているのかがわからない。 そう思った瞬間に、わかった。竜の、為だ。あるいは、彼らの過去の。まるでその思考を聞き取ったかのよう、竜が鳴く。 「見てみれば?」 フェリクスが語りかけたのはリオンではなかった。詫びるよう、頭を下げて竜が彼の肩から飛び上がる。ふわりと机に舞い降りて、器用に口でページを繰った。 「……覚えてる?」 かすかな声。それは恐怖だったのかもしれない。神官の目で見ればはっきりすることだろう。が、リオンはそうしなかった。 「ここに、最初にきたとき。あなたの暇つぶしにって、見せてあげた本。それだったと思うんだけど。さすがに昔のことだね。僕も、あんまりよく覚えてないんだ。だから、あなたが忘れてても、怒らないよ」 そっと竜の背に手を伸ばす。竜は怒ったよう、目を細めた。 「覚えてるの?」 その仕種に、フェリクスの気配が和らぐ。こくり、と竜がうなずいて、次いで首を振る。 「いま思い出したってとこ?」 そうだ、とうなずいて、竜は何を案じるのだろうか、彼を見上げた。 「……あなたの魂が別たれたとき、失くしてしまったものがずいぶんあるんだね。そういうことじゃないの? 思い出したら、歌える? ねぇ」 歌って欲しいか、と問うような竜の目つきにフェリクスはうなずいた。けれど本心はわからなかった。聴きたいと思っているのかどうか。確かめるのが、怖いのかもしれない。 そんな二人を見つつ、リオンはいたたまれなくてならなかった。その中で、わずかな嬉しさを感じては、いる。 フェリクスが、自分を頼ってくれたこと。ここにいるのが自分だけだったから、致し方なくそうしたのでもかまわない。カロルの代わりになれるとは思ってもいない。 フェリクスは、一人で竜が歌うかもしれない場面に立ち会うことが、できなかった。だから、自分を選んだ。それが、嬉しかった。 不意に、声が聞こえた。竜の声だと理解するまでしばし。だが、それはなんの問題でもなかった。なだらかな、歌詞のない旋律。それを歌とはとても言えない。むしろ竜の咆哮。竜の奏でる歌に似て、歌ではないもの。 「やっぱり……」 言葉がないのだから、歌詞がないのも当然。ぽつりと呟くフェリクスの声にリオンの胸は痛む。竜の声は、できる限りの優しさをもって響き続けた。 「これは、その。彼の……歌、ですかね。少なくとも本来の部分ではそうですよね」 声を収めた竜が、二人の顔を見上げては窺う。困り顔で、頼りなくて、どことなく愛らしい。リオンは微笑みかけ、フェリクスを刺激しないようあえて代名詞を用いてそう言った。 「違うよ」 しかしフェリクスは小さくそう言って竜を抱き上げた。色違いの目を覗き込む。竜の詫びる視線に首を振り、目を閉じて額を押し当てた。 「ですが――」 「あなた、世界の歌い手の歌を知らないから、そんなこと言うんだよ」 「そうですかねぇ。彼が歌うところを何度となく見てますが?」 「違うの、リオン。あれは……、彼の歌ではあった。でも世界の歌い手の歌じゃない。あなたはあいつが遊びで歌うのしか聴いたことがない。僕は……あいつが真剣に歌うのを、聴いてる」 それほど違うものなのだろうか、とリオンは思う。そして突如として思い出した。 「あります、一度だけ。あれは……」 「リオン?」 「いつでしたか。あなた方の部屋の前を通りかがったときでした。わずかに漏れ聞こえてきた歌声に、魂が震えるのを感じました。あれが――」 「世界の歌い手の歌だよ、それが」 立ち聞きされたことを咎めるでもなくフェリクスは言う。いまだじっと目を閉じたまま。 「歌えないの、ねぇ」 小さな声で竜を責める。身じろぐ竜は、やりきれなさを感じているのだろう、鳴き声も上げなかった。 「うん……いいよ。わかってる。仕方ない。いいんだ、ごめん」 小さな声で呟き続けるフェリクスに、リオンはなんとも言えない感情を覚えていた。彼がこれほど素直に謝罪するところなど、見たことがない。驚きもあった。けれど最も強く感じたのは、感謝かもしれない。タイラントに対しての。 竜の声がした。彼を悲しませないように、との明るい声。それが次第に歌声に似たものを形作る。思い出してみればリオンにも明確に差がわかる。 それは竜の声だった。紛れもない、竜の喉が作る歌。タイラントのあの歌とは、まるで違う。音質が違うなどと言うような問題ではない。これは人間としてのタイラントの歌に最も近い。だが、世界の歌い手の称号で呼ばれた吟遊詩人の歌では、決してなかった。そしてフェリクスにとっては完全に彼の歌ではない、あらゆる意味で。歌おうとすればするほどフェリクスを哀しませる。それを悟った竜が黙った。 「あなたもなくしたものが、たくさんあるんだね――」 その後、フェリクスは何を続けようとしたのだろうか。開いた目は厳しい光を宿していて、わずかに竜が怯んだ。 と、そのときだった。フェリクスの首が巡る。どこか、遠くに。同時に、リオンも。のみならず、竜までもが。 「あなた、いい勘してる。当然かな?」 最も笑みに近い表情を作ってフェリクスは竜の額を撫でた。ちらり、とリオンを見やる。 「当然、わかったよね。これにわかったことがあなたにわからないとか言ったら、カロルの弟子の名折れだからね」 「厳しい兄弟子もいたものですねぇ。まぁ、わかりましたけど」 「だったら、出迎えて」 「待ち人きたる、ですか?」 「さてね」 はぐらかしてフェリクスは本を手に取る。片付けよう、と言うのだろう。それに竜が声を上げた。 「なに、持って行っちゃだめなの? たぶん、もうすぐここを発つことになると思うけど……。どうしようか。いいか、歌集がなくても別に困らないものね」 扉のところでリオンはフェリクスがそう竜に語りかけているのを聞いていた。一つ肩をすくめることで見逃すことにする。そもそも今の塔の管理者はフェリクスだ。彼が自分の管理する本を持ち出すからと言って咎める筋合いはない。 それよりも、と歩きながらリオンは思う。彼は言った、もうすぐ発つだろう、と。彼には、あるいはすでに予感している何かがあるのかもしれない。 「誰がきているか、わかってるのかもしれませんねぇ」 魔術師は勘が鋭いもの、と言う。あながち間違いではなかったが、塔の支配者に関しては間違いだ。支配者は塔にいる限り、そこに加えられたありとあらゆる接触を感知することが可能だ。フェリクスは塔の扉を誰かが叩いたのを知ったに過ぎない。 だからこそ、フェリクスはリオンを迎えにやった。すでに扉はフェリクスの意思を受けて開いているだろう。 来客が怯えていなければいいが、とリオンは思う。たいていの人は誰もいないのに開く扉には恐怖を見せる。 「逃げ出されたりしたら、事ですからねぇ」 フェリクスのことだ。捜しに行かされるのは自分かもしれない、と思ってリオンは少しだけ笑った。あるいは、彼は捜そうとはしないかもしれない。 「根性なしはいらない、くらいのことは言いかねませんからね」 できればいて欲しい、とリオンは思っている。待つことが苦になる性格ではないが、いささか飽きはじめてもいる。塔の外扉を入ってすぐの場所に繋がる扉にリオンは触れてにっこりと笑った。驚かせないよう、ゆっくりと開ける。 「ようこそ、リィ・サイファの塔へ」 が、驚くのはリオンの方だった。おおよそ異種族を目することになるだろうことは、予想していた。だが、半エルフだとは思いもしなかった。 「はじめまして――?」 彼の種族特有の抜けるような白い肌。ほっそりとして優美な、人間ではありえない美貌が困惑を浮かべる。 「リオンです」 「リオン・アル=イリオ?」 「大仰に言えば、そういうことになります。が、できればリオンと呼んでください」 にこりと笑ってリオンは来客を手招いた。それに彼ははっとして背筋を伸ばす。 「私はエラルダ。ここに……魔術師カロリナ・フェリクスがいる、と伺って来たのですが。お目にかかれますか」 「もちろん、こちらにどうぞ」 「……聞かないのですか」 一切の不審を見せることなく塔の上階へと導いていくリオンにこそ、エラルダは驚く。 「おおよそ、アリルカの民、と言っていいのでしょうか? 彼らのご使者だと推察しますが、違ってました?」 どこかぼんやりと言うリオンにエラルダは首を傾げる。なぜか、間違ったところにきてしまったような気がしている。 「もっとぴりぴりしていると思ってました?」 明るく問われては、そうだとうなずくより他にない。隠し事が苦手なのは確かだが、すぐわかる嘘をつく気もなかった。 「それは私の役目じゃないんですよ。兄弟子、フェリクスの役目です」 その短い言葉で自分とフェリクスの役割分担を明確にリオンは語った。 「彼と手を組むつもりですか? 反対はしません、私。ですが、一つだけ忠告を」 にこにことした温顔が、一瞬だけ引き締まり、エラルダは目を瞬く。 「決してタイラントの名を口にしてはなりません。その名を口にした瞬間、交渉は決裂する、と思ってください」 厳しい声だった。が、エラルダはリオンの感情を手に取るよう感じ取った。彼は限りなくフェリクスを案じていた。 |