そろそろ事態が動く、そんな予感があったのかもしれない。フェリクスは今までどうしても決心のつかなかったことをしようとしていた。
「リオン」
 すらりと立ち上がったフェリクスは、まるで抜き身の剣のようだ、とリオンは思う。彼の愛剣のごとく、研ぎ澄まされていて、わずかに禍々しい気配。
「なんです?」
 あえておっとりと言う。その声音にフェリクスが苛立った。肩の上、竜がおずおずと鳴き声を上げる。それににっこりとリオンは微笑みかけ、彼もまた立ち上がった。
「ちょっと来て」
 ついてくる意思がある、と見て取ったフェリクスは振り返りもせずに食堂を後にした。足は歩き慣れた塔の中を考えることもなく進んでいく。
 リオンも同じだった。だから、次第に彼がどこに行こうとしているかが問わずともわかるようになる。目的地にリオンは首をかしげた。
「フェリクス」
「なに」
「書庫に、なんの御用です?」
 朗らかに言っても、フェリクスは答えなかった。いずれわかることだから、とリオンも大して気に留めない。
 むしろ尋ねたのはこれからのことに関しているのかを問いたかったからだった。それを察したのだろう、黙ってフェリクスが首を振る。
「おや、意外ですねぇ」
「なにが」
「こう……なんと言うか、せっかくですから破壊力抜群の魔法でもお土産にしようとしてるのかなぁ、とでも思ったんですが」
「……あなた」
「馬鹿じゃないです」
 言われる前に言い返し、リオンは前を歩くフェリクスの背中に顰め面をして見せる。肩の上で竜が振り返って目を細めた。笑みかもしれない。
「馬鹿だよ」
 フェリクスは断じる。そのきっぱりとした言い方に、カロルを思う。胸の疼きにリオンが目を伏せた。それを見たわけでもないのにフェリクスは気配を和らげる。
 リオンは再び視線を落とし、自らの指を見た。そこにはまっている、彼が作ってくれた指輪を。揃いの一方は、いまもまだカロルの指にある。そしてリオンがこらえたのは溜息ではなかった。
「あなたね、考えてから物を言いなよ」
 不意にフェリクスは既視感を覚えた。知らず視線が巡る。自分の肩の上へと。竜が頭を垂れていた。
「あぁ……」
 そうか、とうなずいた。かつて何度も口にした戯れ。この竜の、本体とでもいうべき男に言った言葉。冗談のように、時には本心として。
「どうしました、フェリクス?」
「なんでもない」
 言ったとき、慰めだろうか。ちろりと竜が頬を舐めた。それにくすぐったそうに声を上げ、けれど彼は無表情。肩を落とす竜を、見てもいなかった。
「まぁ、いいですけど。私のどこがそれほど愚かだと?」
「だって、そうじゃない? よく考えなよ。僕らはあの、カロルの教えを受けた。その意味は?」
「私の銀の星はとっても優しい人ですよ?」
「あぁ、そうだね。優しいね。いつだったっけね? ちょっとした反乱を起こした貴族がいたよね。とっても優しいカロルは、ちまちま殺すのはよくないって一網打尽にしたんじゃなかったっけ?」
「……それは誤解です」
「どこが?」
 冷ややかなフェリクスの声音に、リオンはぞくりとする。
「カロルは一網打尽にはしてませんよ。……少なくとも、生き物は。あの人は、城壁もろとも居城を吹っ飛ばしただけです。ちなみに、内部の生物はいかなるものにも損害を与えずに、です」
 どうだ、優しいだろう、と言わんばかりに胸をそらしているリオンを見たくなくて、フェリクスはあえて振り返らなかった。
「どっちでもいいけど。そんなことはどうでもいいんだよ。大事なのは、カロルにそれができたってこと。そして――」
「私たちにもできるってことですか? それは、できますけどね」
「だったら充分じゃないの。普通の魔術師に、城壁ぶち壊すなんて荒業が軽々とできると思ってるの、あなた」
「あぁ……。確かに。言われてみれば」
「ちょっと考え直したほうがいいよ。カロルに影響されすぎ。あなた、常識が麻痺してる」
 忠告めいたことを言うフェリクスの背にリオンは微笑んだ。一番に影響を受けている男が何を言うのか、と思ったのももちろんある。が、わずかにであっても他者を気遣う余裕が彼に生まれたのが、リオンは嬉しい。
「僕らに新しい、今までカロルに習ってない魔法は必要ない。そんな大量殺戮やらかす気もないしね」
「本当ですか?」
「本当。カロルに習った分だけで、大陸中殺して周ったってお釣がくるよ。別の大地を求めて人殺しをする趣味はないね」
 そういう問題か、と思ったもののリオンは口をつぐんだ。賢明だ、と言わんばかりにフェリクスがうなずく。それがカロルを思わせて、少しだけリオンをやりきれなくさせた。だからいっそ軽口を叩く。
「だって、毒を食らわば皿までもって言うじゃないですか」
「どういうこと?」
「すでに皿まで食べちゃってる気がするんです、私たち。どうせだったら……」
「皿の次はテーブル?」
「いえいえ。そんな、中途半端な。いっそ食堂まで食らい尽くしてこそ語り草、というものです」
「あのね、リオン。僕はあなたの女神様のお話好きに付き合ってあげるほど、人がよくないんだ。わかる?」
 物語を好むエイシャ女神の神官に向かって言い放ち、フェリクスはかすかな溜息をつく。いっそ、目に付くものすべてを殺してまわってもいいような気がしている。
 アルハイドに生きるすべてを殺しつくし、別のどこかを求めてまた殺戮をし。それで、少しは楽になれるのだろうか。
 不意にきゅう、と竜が鳴いた。はっとして肩に手をやれば、温かい。すがりつくよう、頭を手に擦り付けてくる小さな真珠色の竜。
「わかってるよ……」
 本当は、何もわかっていなかった。それでもこの竜を悲しませたくなかった。心の奥では、知っている。自分が幸福であることだけを、竜が願っていることを。今は無理、と首を振れば竜がうなずいた。
「僕が書庫に行くのは……」
 魔法のためではない。それはわかった。が、ならばなんだと言うのだろう。塔の書庫は、元々の所有者であった魔術師リィ・サイファの蔵書だけが収められているのではない。その師であるリィ・ウォーロックが所持していた書籍や、サリム・メロールの本、言うまでもなくカロルが集めたものもある。
 当然のよう、そのほとんどが魔法に関するものだった。既知世界での、あらゆる魔道書がここには揃っている。星花宮の蔵書は、そのすべてがここの本の写本だった。
「一人で、行きたくないからだよ」
 ぽつりとフェリクスが呟いた。それにリオンは瞬く。心底から驚いていた。フェリクスはこう言ったに等しい、心細いからついてきてくれ、と。
 だから、リオンは何も言わなかった。黙って彼の背中を追いかける。ずっとカロルを追いかけていたように。
 そうして二人、否、三人は書庫の扉をくぐった。重苦しいフェリクスの気配に、竜が肩の上で身じろぎをする。落ち着かなく足を踏みかえるものだから、フェリクスはよけいに苛立っているようだった。
「ちょっと。じっとしてて」
 ぴしり、額を指で弾いた。ずいぶん痛そうな音がする、とリオンは竜に同情したけれど、案外、痛くはないらしい。竜は、彼にできる限りにんまり、に近い顔をしてリオンに片目をつぶって見せた。
「リオン。預かって」
 笑い出したくなるのをこらえていたリオンに、放り投げられたもの。それに彼は驚いた。慌てて受け止めたけれど、体勢が悪かったらしい。腕の中で竜がもがいて抗議の声を上げた。
「うるさい。僕は用がある」
 一言だけ言い捨てて、フェリクスは後ろも見ずにどこかに行ってしまった。思わず竜と顔を見合わせる。
「いったいどうしたんでしょうねぇ。あなたを私に預けるなんて、彼らしくもない」
 まったくだ、と言うよう、竜は憤然と首を振る。それから離せ、と身じろいで飛び上がった。竜の羽ばたきが作り出す風を頬に受け、リオンは首をひねる。
「飛び続けるの、疲れるでしょう。ここを止まり木にしませんか」
 するり、とリオンが腕を振る。と、今までそこになかったはずの椅子が出現していた。竜は見慣れた様子でその背もたれに羽を休めた。
「あなた。何か、知ってるんですか?」
 問いかけても、竜が口を利くわけではない。だが、意思疎通は図れている。その態度で彼は語ろうとするだろう。
 案の定、だった。竜はそっぽを向いてそ知らぬ顔をする。それが逆説的に竜が何かを知っている、その答えだった。
「別にいいですけどねぇ。こういう黙ってみてればわかるから待ってろって態度、見慣れてますしね」
 言葉に竜が振り返った。その色違いの目に浮かんだ哀惜に、リオンは微笑む。
「大丈夫ですよ。悲しいですけど、でも、私の銀の星はここにいますから」
 胸に指し示せば、竜はうなだれる。それは自分のしたことを後悔しているかのようだった。
「あなたの採った方法は、あなたにできる限り彼にとって最適なものだったと私は思いますよ。彼には、痛みが穏やかになって行くなんて悠長なこと、できませんからね」
 軽やかに言ったけれど、それこそがフェリクスの最大の不幸かもしれない、とリオンは思っている。時の流れが解決してくれる痛み。フェリクスにはその恩寵がない、あるいは信じられない。
「フェリクスは、とっても純な人なのかもしれませんね、そう思いませんか?」
 竜がぱっと顔を上げて目を煌かせた。その目にリオンはタイラントを見る。愛しい人を褒められて喜んだあの銀の髪の吟遊詩人を。
「なに気持ち悪いこと言ってるの。僕が純だったりしたらこの世は闇だね」
 自分の言った言葉に、フェリクスは思う。もう、闇だ、と。
 あの男が死んだその日から、自分の世界に太陽は輝かない。緑は色を失い、風は止まった。歌声は、この世界から消え果た。ちらり、と竜を見やる。
「……世界の歌い手がいなくなったって意味を、僕ほど実感している存在はないだろうね」
 彼でありながら、彼ではない竜に目を向ければ、切なそうにうなだれる。それを見ていたくなくて腕を伸ばせば、苦しげな顔をして飛んできた。きつく首に巻きつく。
「苦しいよ」
 そっと言えば、蘇る過去。二人ともが目を閉じて、耐えていた。リオンは為す術もなく、立ち尽くすだけ。




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