リオンは苛立っていた。リィ・サイファの塔に来て以来、フェリクスは動かない。あれからすでに三月が経っている。 星花宮の不規則な生活で、二人は共に自炊ができる。下働きの女たちもいたし、侍女もいたのだが、なにしろ魔術師は時間の感覚が普通ではない。当然のよう、食事の時間に間に合わない者もずいぶんいた。 だから、生活に困る、と言うことはなかった。食料の確保にも問題はなかったし、食事の支度も交代でしている。フェリクスは尋常ではないほど料理が下手だが、作ることは作る。 最初は、リオンもほっとしたのだ。食事をする、すなわちそれは生きると言うこと。フェリクスが生きる意欲を見せたのだと思い込んだリオンは、彼の痛みが幾分なりとも和らいだ、そう思った。 が、それは違った。淡々と、ただフェリクスは食べている。自分で料理をしてもリオンがしても同じこと。 黙々と食べ、魔道書を読み、そうして日々が過ぎていく。魔法の研究をしているならば、まだよかった。 たとえそれが不毛な目的であろうとも、フェリクスが何かをしているならばもっとずっとリオンは安心できた。 「これではいけませんねぇ」 今日もフェリクスは黙って食事を終え、席を立った。支度はリオンがしたから、片付けはフェリクスの番だ。 困り顔で悩むリオンの元、竜が飛んできた。おや、と思って腕を伸ばしても竜は止まらない。 「前も、そうでしたね」 寂しそうな顔でリオンは微笑んだ。初めてタイラントに会ったとき、彼は今のような竜の姿だった。あのとき腕を伸ばしたのは、フェリクスの真意を知りたかったから。 「いまは、私も寂しいんですよ、タイラント」 呼べば、竜はうつむいた。意思が通じているのは、わかる。リオンの目には、これがタイラントの一部であることが視えている。 「タイラント?」 ふっと顔を上げた竜が、首を振った。それにリオンは目を瞬く。 「違う、と言うんですか。でも――」 言葉に、竜が鳴いた。そしてリオンははっとする。ちらり、とフェリクスが去っていったほうを見る。そうだ、とでも言うよう、竜が鳴く。 「あなたをその名で呼べば、フェリクスが悲しむと言うんですね。確かに、そうかもしれません。でも」 何を言っていいか、わからなくなったリオンは首を振った。軽く唇を引き締めて、竜を見る。その色違いの目にあるのは知性の光。紛れもなく、意思の疎通が図れている光。 「呼び名がないと、困りませんか。あなた、フェリクスにはなんて呼ばれてるんです?」 あえて明るく言った。竜が答えるとは思っていない。星花宮を出て以来、この竜は一言も発していない。あるのはただ、竜の鳴き声のみ。 「呼んでないよ、名前なんて」 「フェリクス! 驚いた。聞いてたんですか」 「聞かれて困る話しなら、僕の目の届かないところでして」 「別にそういうわけじゃないんですけどねぇ。それで、どうして――」 「呼ばないか? 簡単じゃない。呼び名がないから。竜は竜。それでいいじゃない。何か不都合でもあるの」 「呼び名がないのって、凄く不都合ですが」 呆れ顔で言うのがわざとだと、フェリクスはわかるだろう。親密ではないにしても、長い付き合いだ。それを理解したとの証にフェリクスは眉を上げて見せた。 「こんな変なドラゴン、他にいるわけないじゃない。ここにいるからそれでいいの。僕が呼べばわかる。だから、それでいいの。それともあなた、名前欲しい?」 語りかけた相手は竜。それまでリオンの椅子の背に止まっていた竜はフェリクスの視線に応じて彼の元へと飛び立つ。そして肩に戻った竜は喜ばしげな声を上げた。 「ほら、要らないって言ってる。今のままでいいって言ってる。そうでしょ?」 また、竜が鳴く。これではリオンも文句のつけようがない。降参した、とばかり両手を上げた。それにフェリクスは応えず椅子に腰を下ろした。 「ちょっと聞きたいとがあるんだけど」 「なんです? 私も聞きたいことがありますが」 「なに」 「あなたからどうぞ」 さらりとした言葉にフェリクスが肩をすくめれば、体の均衡を失った竜が転げ落ちそうになる。それを止めたのはフェリクスの何気ない手だった。 それが、二人が過ごしてきた時間を物語る。そんな気がしてリオンはいたたまれなくなる。閉じてしまいそうになった目を無理に開ければ、フェリクスは無表情のままこちらを見ていた。 「これって、生きてるの」 言われた言葉に、一瞬だけ理解が追いつかなかった。呆気に取られて目を丸くしてしまった照れを隠そうとリオンは瞬きをする。 「その――。ドラゴンが、ですか?」 「他に何があるの。もう少し考えてから喋ったら? ほんとあなたって愚かなんだね。どうしてこんな男がよかったんだろう、カロル。趣味が悪すぎ」 「あなたも飽きずにそれを言いますねぇ。いったい何年経ってると思ってるんですか」 「よく何年も付き合ってたな、と思ってるの」 「何年どころじゃないですけどねぇ。まぁ、それはそれとして。ドラゴンですか? そうですね、ある意味では生きていますが」 「質問を変える。これって実体?」 フェリクスの言い様にリオンはにやりとした。それに彼が不快そうな顔をする。少しだけ、かつてのフェリクスが戻ってきた気がした。気のせいだと、わかっていても。 「それも難しいです。正直に言って、実体とは言い切れませんが、完全な魔法的存在とも言い切れません」 「あなたの目で見ても?」 フェリクスは尋ねる。エイシャの神官の目をもってしても、この竜の正体がわからないのか、と。嘲りではない。純粋な疑問。 「私の目にどう視えているか、あえて言いません。あなたの気に入らないはずだから。ですが、強いて言えば、ほぼ完全な魔法的存在です」 「ほぼなの、完全なの。どっち」 「ですから、強いて言えば、なんですよ」 機嫌を損ねるのがわかっていてした物言いだったが、やはりフェリクスは険悪になる。だからリオンは取り合わない。 「少なくとも、実体であると言い切るよりは魔法的存在、と言い切ったほうがまだ正解だと思います」 「もう一つ」 こくり、とうなずいたフェリクスが目を光らせる。そしてリオンはこちらの質問のほうが重要だ、否、今までの話はこの質問のための前置きにすぎなかったと知る。 「もしこれに、誰かが矢を射掛けたとする。どうなる」 彼の言葉に、リオンは不意に微笑んだ。なんの感情もこめずに言った、そのこと自体が彼の心を物語る。 「リオン」 厳しい声に、竜の鳴き声。無論、竜はフェリクスをたしなめている。覗き込む竜の目に、視線を向けもせずフェリクスはその背を撫でた。それだけで竜は静まった。 「笑ったんじゃないですよ。安心したってところでしょうかねぇ。ちょっと待ってください、フェリクス! こんなところで魔法飛ばしたら食堂が壊れます!」 「だったら答えて」 「はいはい、わかりましたよ、もう。せっかちさんなんだから」 「リオン? 返事は一度って、カロルに躾けられてないの?」 それはできれば笑顔で言っていただきたかった、とリオンは内心で溜息をつく。真顔で言われては、まるきり冗談にならない。 それでもそれがフェリクスの軽口なのだ、と推測はできた。昔から、彼はそういうことをよく言っていたから。かつては、笑みとともに。 「わかりましたよ、まったく」 溜息と共に言えば、竜がおかしがるような目を向けてきた。色違いの目が煌いていて、竜もまた今のフェリクスの言葉を喜んでいるのを感じる。 「ドラゴンに……と言うのもなんだか変ですねぇ。まぁ、彼に、にしておきましょうか。彼に矢を射掛けたら、ですか。どうにもなりませんね」 「回答は明確に」 「ですから、どうにもならない、が正しい解答です。彼は限りなく実体ではないですから、矢は通り抜けますね」 「本当に?」 「やってみましょうか?」 「いい。必要ない」 言うなりフェリクスは肩の上から竜を引き摺り下ろして抱きかかえた。驚いた竜が眼を白黒させている。それでもその表情に喜びがあった。 「ちなみに、攻撃魔法を飛ばしても同じことです。それはあなたのほうが良くわかってますね。実体ではない、すなわち目標が明確にならない、と言うことですから、やはり効果は現れません」 「……そう」 きゅっと竜を抱いたままフェリクスはそっとうなずいた。その姿にリオンは目をそらしたくなった。まるで迷子だった。お気に入りのぬいぐるみだけを手に、道を失ってしまった子供。 「これって、死ぬの」 ぽつり、とフェリクスは言う。もしかしたら、そのことを一番に案じていたのかもしれない。 「さて、困りましたねぇ。こんな変わった存在、見たことないですし、私。なんとも言い難いですが、やはり自分の意思でここに留まっているわけですし、いわゆる寿命と言うようなものはないと思いますが」 「だったら、僕が死ぬまで死なないって、ことかな」 問いかけではなかった。あるいはそれは願い。答えなど、誰にもわからない。が、竜は鳴いた。肯定するように。 「そう、よかった。僕が死んだあとも残ってたりしたら、大変だものね」 「優しいですね、フェリクス」 「誰が? この僕に向かって優しいなんて、よく言うよ。少なくとも、あなたにだけは言われたくない」 淡々とした言葉の中、痛みが見えた。リオンは彼の傷口をえぐってしまったのだと気づく。タイラントが言っていたことだ、とようやく思い出した。二人が何度となく交わしていた会話。 「ほんと、君って優しいよな」 「誰が? 僕が優しいなんて思ってるようじゃ、あなた人間として終わってるよ」 「だってさー。俺には優しいじゃん」 そう言ってにっこり笑ったタイラントに、フェリクスは言葉もなくそっぽを向いていた。あの時間は戻ってこない、痛切にそれを感じていた。 |