気に入らない。呟きは声にならずフェリクスの喉の奥で消えた。それでも心のうちを感じ取ったよう、竜が鳴く。その背をひと撫でし、フェリクスは寝台の上に腰を下ろした。
 一度は謝ったリオンだったが、フェリクスはそもそも彼が真実、謝罪したとは思っていなかった。悪いと思っていないのに謝る癖が彼にはある。
「あなたも、そうだったね」
 答えて鳴く竜を腕の中に抱きとった。仄かなぬくもりに顔を埋めても、少しも温かくない。温度ではなく、心が冷たかった。
 リオンは、塔の居住部分につくなり物も言わずにフェリクスを部屋に放り込んだ。それでも気を使ってはいるのだろう、いつもこの塔を訪れるときに二人が使っていた部屋ではなかった。
「それはさすがにまずいとは思ったのかもね」
 わずかに唇の端が吊り上る。笑みに似て違うもの。竜の色違いの目が何かをこらえるよう、細められた。
「同じなのにね」
 リオンは知らなかった。フェリクスも語ったことはなかった。
 確かにこの部屋は、かつてタイラントと共に使った部屋ではない。塔にはなぜこれほど部屋が必要なのか、そして必要だったことはあるのか、と疑いたくなるほど無数に居室がある。
 リオンは、確かにその一つを無作為に選んだだけだろう。
 だが、それはフェリクスに痛みをもたらすものでしかなかった。リオンは知らなかった。この部屋が、初めてタイラントをこの塔に連れてきたときに使った部屋だとは。
「あのときも、あなたはドラゴンだったね」
 腕の中で甘えた鳴き声を上げる竜に、フェリクスは語りかける。もしかしたら彼にはその声が聞こえているのだろうか。否、返事が返ってこないことを理解していながら彼は語っている。
「ほんの少しだけだったね、ここにいたの。あのときは――。そうだ、あなたがカロルだと思い込んでた敵を捜してたんだよね。僕はそれがカロルじゃないって知ってたし、あの男がカロルの魔法具を持ってるのもわかってた。だから」
 懐かしむよう、フェリクスは話しかける。時折竜は鳴き声を上げ、それがあたかも返事をしているかのよう。あるいは本当に返事だったのかもしれない。
「あなたが、僕のことを嫌いになるって、わかってたんだ、あのとき。本当のことなんか、とても話せなかった。怖くて。笑う、ねぇ?」
 この自分が、恐怖に駆られていたなど。そしてそれを認めるなど。今ここに彼がいたならば、いったい何を言うだろうか。
 タイラントはすでになく、その魂の欠片とでも言うべき竜だけが、言葉をなくしてここにいる。
「おかしいね」
 ぽつり、フェリクスは呟いた。見上げてきた竜の目に、フェリクスは今の彼にして最も微笑みに近いものを浮かべた。
「どうして、これがあなただって、僕は思ってるんだろう? あなたは、僕の前で死んだ。それはわかってる。そのあなたが、この竜を作り出したって、それもわかってる。――ほんと、変態」
 抗議の鳴き声を上げる竜の額を指先で撫でれば、あっという間に穏やかな呼吸。その変わり身の早さも、まるでタイラントだった。
「だって、変態じゃない。ねぇ、普通、魔法って本人が死んじゃったら、解けるんだよ? だったら、あなたは何? あなたが……あいつだとは思わない」
 どうしても、タイラントとは呼べなかった。彼の名が唇から先に出てこない。呼ぼうとするたび、喉の奥が凝り固まる。それに首を振り、フェリクスは続けた。
「少なくとも、彼そのものではない。それは、わかってる。だったらどうしてあなたはここに存在してるの。彼は死んだ。だったら魔法は解ける。それが常道って物でしょ。あなた、元々風変わりだった、そう言って欲しければね。僕は変態だって思うけど。だからなのかな」
 そんな言葉で済ませる問題ではない。それは理解しているのだが、今のフェリクスにとって魔法の発展だとか、研究だとか、解明だとか。そんなものはまるきり意味をなしていなかった。
 わかっているのはただ、タイラントが自分の身代わりになって死んだこと。死んでいく彼が、この竜を託していったこと。
「僕は、リオンじゃない。少しだけ、思うよ。僕に彼の目があればいいのにって」
 エイシャの神官の目。本質を見て取るその目があれば、この竜がタイラントだと確信できるかもしれない。
「違うね」
 そしてフェリクスは自らの言葉を否定した。戸惑うよう、見上げてきた竜の背を撫でてやれば安堵して膝の上で丸くなる。
「僕は、これがあなただって、知ってる。どうしてだろう……?」
 目の前で作られたからではない。あの時のタイラントと同じ竜の姿だからでもない。魂の奥底で、知っていた、これがタイラントだと。その一部だと。
「ねぇ。いっそ、全部保っておけなかったの、その魂」
 無理を言うなとばかり竜が拗ねたよう睨んだ。それにフェリクスは吐息を漏らす。もしかしたら、笑ったのかもしれない。
「その小さな体じゃ、無理だった?」
 それが正解なのだろうか。竜は答えない。彼もまた、答えを知らないかのよう。
「大きさなんて、関係あるのかな。それとも――」
 タイラントは、逝ってしまった。自分を置いて。笑って逝ったけれど、どれほど彼は無念だっただろう。
 タイラントは誰よりフェリクスを知っていた。その師に似て、畳み掛けるようなさらさらとした暴言と、冷たい態度。それが彼の孤独から来ていると、タイラントは知っていた。
 フェリクスは、人間社会で暮らす闇エルフの子だった。差別され、虐げられてきた。魔術師として、力を手に入れてからも同じこと。表立って差別されなくなっただけだった。
 この広い世界の中、たった一人で彼は立っていた。進むことも退くこともできず、立っていた。それを知られるのも、屈辱だった。
 そう思っていたのに、ずかずかと人の心の内側に無造作に入ってきたタイラント。そのくせ、踏み込んで欲しくない場所だけは本能的に察知して立ち入らなかったタイラント。
「ねぇ」
 竜に呼びかけ、言葉がない。何を言いたかったのか、わからなくなっていた。竜は膝の上から伸び上がり、優雅に立ち上がって肩に手をかけた。
「猫じゃないんだから」
 呟いたフェリクスにかまわず竜がその目を覗き込んでくる。視線をそらせずフェリクスは色違いの目を見つめた。そこに、自分が映っていた。
「ねぇ」
 もう離して。そう言いたかったはずなのに、やはり言葉にならない。竜はゆっくりと首をかしげ、それから詫びるよう目をそらす。
 一瞬、嫌な予感がした。かつてタイラントもよくこんな表情をしたものだった。自分を怒らせるとわかっていても、自らの意思を貫くときにしていた顔。
「ちょっと――」
 離れて。言おうとしたときには竜が擦り寄っていた。唇に感じた、竜の牙。フェリクスは目を瞬く。何が起こったのか、わからなかった。
「……離せって言ってるでしょ。いいから。怒ってないから」
 竜は今にも落ちてくるはずの罵声を警戒して小さく縮こまっていた。フェリクスは溜息をつき、その背を平手で叩く。
「別に怒ってない。言ってるでしょ、聞きなよ」
 恐る恐る見上げてきた竜に、フェリクスは唇を吊り上げる。竜の首をかしげる仕種に、言葉を疑われているのを感じ、フェリクスは竜を抱き上げた。
 途端に上がる悲鳴めいた声。どこか甘やかな響きを帯びているから本気でないのは知れていた。それが、タイラントを思わせてやりきれない。
 そう思うことが間違いなのかもしれない、とフェリクスは思う。タイラントでありながら、タイラントではないと思うことが。けれどどうしようもなかった。この竜はタイラントの一部かもしれないけれど、タイラントではない。
「痛いことはしないから。暴れないで。――暴れると、痛いよ」
 さらりとした脅しに竜がぴたりと動きを止めた。それからそうっとフェリクスの顔を窺う。いつの間にか昔のよう、フェリクスは竜の首を掴んで持ち上げていた。
「猫の仔みたいだね。あのときみたい」
 言ってフェリクスは遠くを見た。苦しくなった竜が鳴き声を上げて訴えるまで、フェリクスはそのままだった。
「あぁ……ごめん。嘘じゃない。ほんとに痛い思いさせる気はなかったんだけど。気は、なかったんだけどね。痛かったら痛いって、言いなよ」
 無理と知りつつ無茶を言いたくなる。タイラントだったならば、自分のどんな無茶も悲鳴を上げながら聞き入れてくれていたのに。
 詮無い思いに首を振り、フェリクスは静かに竜の額にくちづけた。ひくり、と竜が動いた。
「なに、気に入らなかった? あなた、痛めつけられるほうが好みだっけ。――違うんだったら、嫌な顔しないでよ。してない? 嘘だね。今、したもの。違うんだったら、違うって、言ってよ……」
 最後は呟きだった。突如として虚しさに駆られる。こうして話していても、答えは決して返ってこない。もしや二人きりだったならば、あるいは竜は話してくれるかもしれない。そんな期待がなかったとは言わない。
「……僕だけの、秘密とか。僕だけの、特別とか。そんなこと、期待してなかったけどね。でも」
 嘘だった。そう願っていた。切望していた。慰めるよう、竜が伸び上がって頬ずりをしてくる。フェリクスは抱きかかえてその体に顔を埋めた。
「ねぇ」
 ゆっくりと、竜の胴を離す。猫のように抱かれた竜はほんの少し不満そうだった。それにフェリクスの気配が和む。竜が、その体でできる最も笑みに近いものを浮かべた。
「あなたのこと、なんて呼ぼうか」
 タイラントではない。彼その人として呼ぶことなど、とてもできない。
「なんて、呼ばれたい?」
 まだ、答えが返ってくると思っているのだろうか、自分は。自嘲してフェリクスは遠くを見る。途端に竜の鉤爪に意識を戻された。
「ここにいるよ、僕は」
 フェリクスが、自分ひとりで何かを抱え込んでしまったときにする顔。タイラントはいつも心配していた。今は彼に似た竜が心を砕く。
「どっかに行っちゃったの、あなたじゃない」
 呟いて、唇を軽く噛む。言葉が突き刺さるのに、もう傷口からは血も出ない、そんな気がした。
「ねぇ」
 呼びかけか、それとも問いかけたのか。竜は明るい目をしてフェリクスを見上げた。
「やっぱり、思いつかないね。名前」
 寂しさが、凍り付いて粉々に砕けた音がするのなら、フェリクスの声音はそれだった。




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