無言のままフェリクスは塔の前に佇んでいた。肩の竜も彼の心を表すかのよう、今は静かにそこにいる。 「フェリクス。入らないんですか」 声をかけてよい雰囲気ではない。それを知りつつリオンは言う。黙っていたらこのまま二人とも彫像になってしまいそうな恐怖感があった。 「……そうだね」 返事はしたものの、フェリクスは動かない。じっと塔の扉を見つめていた。なにを考えているのだろうか。訝しく思うものの、リオンは彼を見守ろう、そう決める。それがカロルの意思に適うことだと信じる。 カロルがした最後の決断。それはフェリクスをリィ・サイファの塔の管理者に指名したことだった。 魔術師の塔は、魔術師がその魔力をもって管理する。言うまでもなくリィ・サイファの塔とはシャルマークの四英雄の一人、半エルフのリィ・サイファが建てた塔だ。 だからリィ・サイファが旅立ってしまえば、その塔は役割を終えることとなる。が、リィ・サイファはそれをよしとはしなかった。 そして彼が自らの後継者として指名したのは同族の友、サリム・メロール。彼とその恋人にして擁護者たるアルディアこそがはじめてラクルーサ王国に仕えた半エルフだ。 そのメロールが旅立つとき指名したのが、メロール・カロリナ。フェリクスと、そしてリオンの師でもある魔術師。 その彼から、フェリクスはリィ・サイファの塔の管理を任された。脈々と続くリィ・サイファの魔術の血脈とでも言うべきもの、その正当な後継者と指名されたに等しい。 カロルの決断を訝しく思う者は星花宮にもいた。ある者は言った、リオンのほうが相応しい、と。リオンは元々は神官である。と言うよりも、今現在でも神官であるのだから、神聖魔法、鍵語魔法、両魔法に通じた当代有数の使い手、と言ったほうが正しい。それゆえにリオンのほうが相応しい、と言う。闇エルフの子などよりも。 「俺がなんでテメェを指名しなかったか、わかるか?」 どこか悪戯をするように言ったカロルの顔は、元々の色の白さも相まって、透き通るように青白かった。体調の悪さを隠してカロルは笑う。 「わかりますよ」 二人きりになるなり問うてきた彼にリオンも笑った。その表情の曇りのなさにカロルはほっと息をつく。 「フェリクスと私は魔術師の常識に照らし合わせれば大差ないとは言え、彼のほうが年下です。同世代の世代交代は避けたほうが賢明じゃないですか」 「馬鹿か、テメェは。そんなんじゃねェよ」 「カロル?」 本当の答えを知っている気がリオンはしていた。わざとらしくとぼけたのも、この分では見抜かれていることだろうと思う。それでも、まだまだ未熟だと思っていたかった。思って欲しかった。 「俺は――」 「カロル!」 「……なんだよ?」 不満そうに唇を尖らせた仕種に、リオンの胸は締め付けられる。青ざめた顔をして、いつものように振舞い続けるカロルに、なにを言っていいかわからない。 「未熟です、私」 「んなこたァ、知ってらァ」 「だから――」 「俺の後追っかけたりするんじゃねェぞ。ボケ坊主」 さらりと言われた言葉。いつの間にかうつむいていた顔を上げれば、カロルが微笑んでいた。 「そんなことしません、私。精一杯生き抜いて、それから――」 あとは言葉にならなかった。黙ってカロルが抱き寄せてくれた。出逢ったときからほっそりとした体だった。健康を失った今は、すっかり肉が落ちて抱きあえば頬に彼の骨を感じてしまう。 「リオン」 「はい」 「先行ってっからな。ちゃんとあとから追っかけてこいよ」 「まだ、気が早いですよ」 必死になって笑ったリオンだったけれど、カロルが逝ったのはそれから程なくのことだった。 リオンはカロルがフェリクスを後継指名した理由を悟っている。カロルは最後までその理由を口にはしなかったけれど、リオンにはわかる。 「必要、だったんですね」 リオンには芯がある。強さがある。最愛のカロルを失っても、決して抜け殻になったりしないと彼は信じていたに違いない。 だが、フェリクスは違う。人間の間で、異種族扱いされながら、それでも死すべき定めに縛られた地上の生き物。その意味ではフェリクスもまた人間だ。 それを、フェリクスは信じきれない。自ら言う、自分は異種族だ、と。そう思い定めているのならばいい。それが自分の道だと決したならば、それでいい。 フェリクスは、自らの言葉にさえ、揺らいでいた。不安定で、脆く柔らかい魂。それがフェリクスと言う存在だった。 リオンの目に、フェリクスの本質は冷たく儚い氷に見える。ちょうどカロルが炎であったように。天から降り注ぐ一片の雪の結晶。小さく凍りついたそれが春の陽射しに解けようとする正にその一瞬を永遠にとどめたかの存在。 彼にはカロルから指名されることが必要だった。自分こそがカロルに認められた一番弟子だとの強固な確信が必要だった。 脆い魂を鎧うために必要だったのは、カロルと言う強く明るい炎。いまでもカロルに守られていることをひしひしと彼は感じているだろう。 塔の扉を見つめるフェリクスの目に映っているのは、もしかしたらカロルの姿なのかもしれない。師弟の時間を邪魔するのがはばかられて、リオンはいつまでも黙ってフェリクスを見つめ続けた。 「……行こうか」 リオンの視線を感じてしまったのだろう。フェリクスは鬱陶しそうに首を振る。ちらりとも振り返らず、扉に掌を当てた。 ゆっくりと、閉ざされた扉が開いていく。ここにきたのは久しぶりだ、とリオンは思う。塔の中から漂ってくる、時間の匂いとでもいうよりない香りに心が和む。 「リオン」 「はい?」 「先、行って」 なにを考えているのか、フェリクスはそう促した。リオンはうなずくにとどめて足を進める。背後にだけ、集中していた。そしてほっとする。フェリクスは、ちゃんとついてきていた。 それでもついてくるまでに少し間があった、リオンは感じ取っていた。それはおそらくためらいの時間だ、とリオンは思う。 「なににですかねぇ」 思わず呟けば、背後から厳しい気配。肩をすくめて恐縮したふりをしてリオンは階段を上がっていった。 考えていた。フェリクスが、この塔に入るのにためらいを感じる理由。カロルがいない塔に入る、自らが塔の支配者としてここに来る。それが理由ではあるまい。 それならば、もうすでに済ませている。カロル亡き後、これがはじめての訪問ではなかった。そしてリオンは気づいた。 「なにやってるの。さっさと上がって」 知らず止まってしまった足を無理に進めた。呼吸が、苦しいような気がした。 フェリクスがためらう理由を、感づいてしまった。気づかなければよかった、つくづく思った。それを思い知らされたのは、聞こえてきたフェリクスの呟きだった。 「ねぇ、あなた。覚えてる?」 返事を、しそうになった。問いかけられたのは自分に違いないのだから。返事をする人間は、自分しかいないのだから。だがリオンは何も言えなかった。 そのわずかに甘さを含んだ声音が、語りかけているのが誰かを知らせる。竜がくぅ、と鳴いた。 「初めてここにきたときのこと。覚えてる? あなた、泣いて騒いでうるさかったんだよね」 抗議をしているのだろうか、竜の翼が羽ばたきの音を激しく立てた。 「泣いてない? そんなことないじゃない。怯えて大騒ぎだったんだから」 かつてのフェリクスならば、そこで笑った。言い返すタイラントの声がするはずだった。華やかな悲鳴は戯れめいて、いっそ艶かしかった。今は。 「がたがた震えて、結局は僕が抱っこして上がったんじゃなかった、この階段。あなた、覚えてる?」 タイラントに。否、竜に語りかけるフェリクスの単調な声を聞きたくないとリオンは思う。耳をいっそ閉ざしてしまえたならばどれほどいいだろう。 「シャルマークの英雄が四人いたってことも知らなかったよね、あなた。ここがその一人の塔だって言ったら、怯えてるくせにさ、興味津々だったね。あんなに好奇心の強いドラゴンなんて、見たことなかった」 言った途端、肩の竜が爪を立てたのだろう、フェリクスが竜の背を叩く音がする。彼にしては優しい声音で痛い、と言った気がした。 「だってあなた、あのときはドラゴンだったじゃない。ちっちゃな可愛い手乗りドラゴン。綺麗な真珠色だったね。今みたいに? 不思議だね――」 リオンにはわかった。名を呼びかけてためらったのが。竜にもわかったのだろう。小さく鳴いた。 「あなたの本質は、そこの腐れ神官に言わせれば、風なんだってね。確かにあなたは風の魔法が得意だね。僕がちょっと驚くくらい風の魔法だけは覚えがいいもの」 決して振り返ってはならない、そう思っていてもリオンはわずかに振り向いてしまった。視界の端で捉えてしまった。映ったのは、穏やかな顔をして竜の背を撫でるフェリクスだった。 「実際、あなたを殺す気だった僕が、あなたをもう一度ドラゴンに変えたことがあったよね。忘れてないでしょ。あの時のあなたは、青いドラゴンだった。風竜の、色だよね。それなのに、どうしてだろうね、今もあなたは綺麗な真珠色してる。それって、あなたの髪の色だね。銀髪って言うより、もっとずっと綺麗な色だものね。ねぇ、どうして?」 フェリクスが立ち止まったのを感じたリオンもまた足を止める。すっと、息を吸う音がした。 「ねぇ、どうして。何か言いなよ。喋りなよ。あの時だって喋ってたじゃない。うるさいくらいお喋りなドラゴンだったじゃない。ねぇ、何か言いなよ。ねぇ――!」 振り上げた手を、咄嗟にリオンは掴んでいた。はっとして互いが見合う。 「フェリクス……」 言葉を、失った。彼は大きく目を見開き、唇を噛みしめていた。涙をこらえる仕種なのにその目にはひとしずくの涙すら浮かんではいなかった。 「離して」 「あ……。すみません」 「どうして謝るの。早く、進んで」 それきり、フェリクスは黙った。竜にも語りかけず、淡々と足を進めた。肩の上、竜が訴えかけるよう、鳴いていた。泣いているようだった。 |