誰に見咎められることもなく、フェリクスは王宮を後にしていた。国王のことなど忘れた顔をして、振り返りもしない。
「だめ」
 まだその手に滴った血液が気にかかるのだろうか、竜が首を伸ばす。ちろりと舌を出したところをフェリクスが制止した。
「そんなもの舐めたら、お腹壊すよ」
 思いの外に優しい声。国王や重臣たちが耳にすれば唖然とすることだろう。とても同じ男とは思えなかった。
 が、竜は悲しそうな顔をする。竜に表情というものがあるとしたならば。フェリクスは正確にそれを読み取る。だが何も言わなかった。口を開いたのは、ゆっくりと足を進めてしばしの後。
「もし、あなたが生きてここにいたなら言うだろうね、あのときみたいな顔をしてるって。僕は、どうしたらいいんだろうね。どうしたいかはわかってるつもり。でも、それも本当なのかな?」
 声音だけは楽しそうだった。自らに疑義を呈する彼は竜の背を撫で、学問上の問答でもしているかのよう。
「復讐なんか無駄だって、百も承知だよ。あなたに会うより先にそれはよく知ってた。でもね――」
 タイラント。そう呼びそうになってフェリクスは唇を噛みしめる。これは竜。彼ではない。
「僕は、どうしてだろう。泣くことも叫ぶこともできない――」
 いまだタイラントを失ったその実感がないのか。確かにそうではある。しかしそれだけとも思えない。肩にいる竜がいけないのか。だがこの竜まで失ってしまえるのか。それで泣いて叫んで、なにが残る。
「……なにも」
 何一つ残らない。ここにいるのはすでに自分ではなく、抜け殻なのかもしれない。
「ねぇ」
 竜の目を覗き込んだ。彼と同じ色違いの目。無邪気な顔をして見つめ返してくる様もよく似たもの。こんなとき彼は隠し事をしていたものだ。あるいは、悪戯を。
「なにを考えてるの」
 話しかけても、答えは返ってこない。ようやく気づいた。あるいは、気づいていたのかもしれない。やっと、実感となった。
「あなた、喋らないんだ」
 あのときのように、あのころのように。初めて出会ったとき、タイラントは竜の姿をしていた。魔法で姿を変えられた彼と共に探索をした。あの時の彼は、竜でありながらうるさいほどによく喋った。
「歌も、歌わないの」
 尋ねてみて、すでに答えを知っていた。この竜は、タイラントではない。
「同じだね」
 抜け殻かもしれない自分と、タイラントではない竜。くっと唇が吊り上る。笑みではなかった。
 竜の背を撫で、空を仰いだ。こんな日なのに、どうして空は美しく高い。タイラントがいれば、これを歌っただろう。
「ねぇ……」
 話しかけ、言葉を失くした。何も、言葉が出てこなかった。耳に届くは竜の小さな悲鳴。
「あ――。ごめん」
 知らずうち、竜の背を掴んでいた。痛みを覚えたのだろう、鳴き声を上げた竜は、けれどフェリクスの顔に向かって伸び上がる。そして愛しげに頬ずりをした。
「やめて――」
 力なく言った。本心ではない。だから竜もそのまま頭をこすりつける。
「そんなことだけ、勘がいい」
 誰に言ったのだろう、フェリクスは。竜にだろうか。それとも。
 王城内は、不思議と静かだった。国王に異変があったことが、そろそろ広まっているのではないか、とフェリクスは警戒をしているのだが、なぜか誰一人としてフェリクスを討ちにくるものはいない。
「面倒だね」
 軍隊などになられてしまっては、単身で相手をするのはいかにも面倒。竜が笑ったのだろうか、くぅ、と鳴いた。
「相手はできるさ。ただ面倒くさいの。あぁ……でも、いっそひとまとめに殺っちゃったほうが楽かも? それだと打撃にならないかな、国王には。あなた、どっちがいい?」
 楽しげに言う言葉か、これが。しかしフェリクスの表情は変わらなかった。淡々とした無表情のまま、声音だけがわずかに明るさを帯びる。
「さて、どっちがいいでしょうねぇ。私としては一時撤退をお奨めしますけど」
 飄々とした声だった。辺りを警戒していたフェリクスが、気づかなかったほどに、掴みにくい気配。こんな者は一人だけ。フェリクスは悠然と振り返った。
「撤退? 馬鹿なこと言わないで。どうして僕が逃げなきゃならないの」
 リオンだった。フェリクスの脳裏に一瞬だけ蘇る、タイラントの最期。もしもあの場にリオンがいたならば、彼は死にはしなかっただろうと感じてしまう。理不尽だとわかっていてすら。
 フェリクスの感情の波を感じ取ったのだろうか、リオンがわずかに目を伏せた。
「撤退って言うのは、逃げることじゃないですよ。もう、ほんとあなたってカロルとそっくりなんだから」
「殺されたいの? ねぇ、僕はこの城をとりあえず出ることにしたの」
「だからそれを撤退と言うのでは?」
「何度言わせるの、馬鹿なこと言わないで。逃げるんじゃない、あいつらを殺すの。そのために追わせるの」
「ですから――」
 説得しようとしてリオンははたと気づいた。自らが口にしたではないか、カロルとよく似ている、と。リオンが愛したカロルはいついかなるときにも敵に背を見せるのを酷く嫌った。そして止まることのできない人でもあった。
「フェリクス。私も同行しますよ」
 ならば自分がすることはひとつだとリオンは思う。自分が彼を追うのではなく、引いて行けばいい。
「リオン? なに考えてるの。あなたについてこられても迷惑なんだけど。そんなに仲良かった?」
 最後はからかうような口調だった。そのくせ表情が動かないのをリオンは痛ましく思う。顔には出さなかったが。
「確かにねぇ。私たちは仲良しとは程遠かったですが」
「だったら……」
「ですから、私は私の意思であなたについていく、と言うより、なんと言いましょうかねぇ。カロルの意思とでも言っておきましょうか」
「なにそれ」
「ですからね、フェリクス。考えてみてください。いまここに、カロルが生きていたとします。彼だったら、どうすると思いますか?」
 問われるまでもなかった。カロルは自分より先に激高し、城を飛び出しているだろう。だが、無駄な想像でもあった。カロルが生きていれば、このような暴挙に国王が出ることはなかった。視線を落としたフェリクスにリオンは畳み掛ける。
「もしもカロルが生きていたら、あなたを案じて飛び出すでしょう。あなたから遅れたならば、あなたの後を追うでしょう。地位や城での名誉など、彼にはなんの意味もなかった。そんなこと、私が言うまでもありませんね?」
 なにを言いたいというのだろうか、フェリクスが口を開きかける。だがリオンはそれを許さなかった。
「私、カロルを愛してます」
 そしてにっこりと笑った。フェリクスが嫌いな、純真無垢な顔。この世界には美しいものしかなくて、誰もが優しくて綺麗な心をしているのだと言わんばかりの顔。
 竜が鳴いた。甘えるようなその声に、フェリクスは思わず背を撫でる。見上げてきた竜は、リオンとよく似た表情を浮かべていた。
「……呆れるね」
 竜にだろうか、それともリオンにだろうか。呟いたフェリクスに応ずるよう、彼らが顔をほころばせる。
「ですからね、フェリクス。私は私の銀の星が、もしもいま生きていたらするだろうことをすることにします」
「……もうちょっとわかりやすく言って。どうして神官ってまどろっこしいの」
「さて? 神官一般がそうとも限りませんが、少なくとも私が知る限り――」
「いいから、結論」
「はいはい。せっかちさんですねぇ。そんなところもカロルと似てますけど。ですからね、私はあなたについていきますよ、と言っています」
「どうして」
「……しつこいですねぇ、フェリクス。私はカロルがしたかったことが、したいんです。わかりますか?」
「……死んじゃった恋人に殉じるとでも言うつもり? そんなことして、なにが楽しいの」
「私が楽しいですよ。きっとカロルはこうしたかっただろうなぁ、とか思いながら過ごすのも、悪くないですし」
 どこがだ、とフェリクスは思う。自らの傷口に爪を立てる行為に似ているとも思う。それとも、リオンにとってカロルを失ったことはもう微温湯のような痛みでしかないのだろうか。
「フェリクス」
「なに」
「カロルを失った私は、生きていたくなかったんです。……いえ、実を言えば今もそうですね。とっととくたばりたくって仕方ない」
「……それって楽しそうに言うこと?」
「いいじゃないですか」
 実に明るく言ってのけた。そのぶん、リオンの真実が透けて見えてフェリクスは舌打ちをする。
「あなたについていけば戦いの連続でしょう。そうすればカロルのところに早くいけるなぁと思うんです。どうでしょ?」
「ねぇ、リオン」
「はい」
「僕、あなたが大嫌いなの」
 しっかりと彼の目を見た。竜が案ずるよう鳴く。フェリクスは無意識にその背を撫で、指に温もりを覚えていた。
「カロルが死んで、嘆き悲しむあなたを見ても、正直同情は感じなかった」
 その報いだろうか。いまタイラントを失くしたのは。カロルの遺骸の傍らで、ひたすら無言で佇んでいたリオンを思い出す。
 あのときリオンはどんな顔をしていただろうか。泣いていただろうか。それとも。フェリクスには思い出せなかった。
「いま、思う。あなた、死んでるんじゃないの」
「フェリクス?」
「少なくとも、カロルと一緒に、あなたの最上の部分は死んだんじゃないの」
 嫌味のつもりだった。だがリオンの表情が歪んだ。泣き笑いのその顔を、見られるのを拒むようリオンが顔を伏せる。
「――嬉しいことを、言いますね。フェリクス」
 答える言葉を失ったフェリクスの腕の中、竜が悦ばしげに鳴いた。だから、それで決まったようなものだった。フェリクスは溜息を一つ。
「抜け殻が三人か。それで王国ひとつ相手にしようって、ちょっと常軌を逸してるね。でも――」
「悪くないです」
 にっと笑ったリオンは、すでにいつものよう、飄々とした顔をしていた。




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