悲鳴を背に、フェリクスは広間をあとにする。一瞥すら与えなかった。彼の心はすでにここにはない。否、心と言うものが彼に残っているのだろうか。
 そのフェリクスの手の中、血塊があった。禍々しく血を滴らせるそれに彼は顔を傾ける。見たものがいたならばぞっとしたことだろう。
 そのとおり、遅まきながら駆けつけた魔術師たちが一様に足を止めた。
「フェリクス師……」
 主導者を見る彼らの目は恐れに満ちている。背を凍らせたのは恐怖だろうか、それともフェリクスの魔法だろうか。
「なに」
 が、彼は手の中の血から顔を上げて彼らを見た。黒衣の魔導師、メロール・カロリナに対するよう、彼は薄色のローブを好んだ。そのあちこちに珍しくも模様が散っている。一瞬は、そう見えた。それが返り血だと気づくまでにさほど時間は要らなかった。
「いったい、なにが……」
 果敢に問うた者の顔をフェリクスが見ることはなかった。わずかに視線を向けたのは、広間の方向。
「暗殺者が入ってきた」
「なに――!」
「弟子の中に混じってたよ」
「それは……」
「すでに処分した」
 ぞくりと背を這い上がるものに、魔術師たちは顔色を失う。彼の手の中にあるもの、血の塊だと気づいた。
「子供たちが怯えてる。お前たちがなんとかして」
「フェリクス師は……」
「僕はもう戻らない」
 意味がわからなかった。彼がなにを言っているのかがわからない。唖然とした魔術師たちにフェリクスは繰り返す。
「僕はラクルーサを出る」
「ですが! リオン師、タイラント師がたが……」
「リオン? 知らないね。あれはあれで好きにしたらいい。タイラントは――死んだよ」
 言葉に、魔術師たちの腰が砕けた。その場にへたり込んだ彼らに視線もくれずフェリクスは歩き出す。目指すは。
「王宮、ね」
 鼻で笑ったように聞こえた。が、フェリクスの表情はまるで動いていない。するすると、何事もなかったかのよう歩みを進める彼の肩、悲しげに竜が一声鳴く。
「いつも、心配ばかりさせてたね」
 無茶をすると言っては悲鳴を上げ、無謀だと言っては怒った。そのタイラントがもういない。まだ、よくわからなかった。実感として、彼を失ってしまったことが身に迫ってこない。
「ねぇ」
 竜に呼びかけ、なんと呼んだものか戸惑う。タイラントでありながら、これは彼ではない。彼の魂の欠片ではあるかもしれないけれど、彼その人ではない。
「まぁ、いいか」
 するりと伸ばした手で竜の背を撫でた。気持ちよさそうに竜が体を擦り付けてくる。懐かしい過去というものが自分にもあるのだ、とフェリクスは思う。
 過去とは忌まわしいだけのものだった。タイラントに出会うまでは。
 彼を知り、彼とめぐり合い、過去は優しいものに変わった。
 いまここで、過去はまた、哀しみに変わった。悲しいなど、口に出せるものではなかった。歩みが止まりそうになる。動けなくなりそうになる。
 竜が鳴く。励まそうとでもいうのだろうか。ほんの少しフェリクスの目許が和む。ゆっくりと息を整え、歩いた。
 再び血の塊に耳を傾け、フェリクスは正しい方向へと歩き出す。王宮へ、この首謀者の下へ。
「後手を打ちたくないね」
 口許が吊り上った。笑みのようでいて、似ても似つかないもの。そっと手つきだけは優しく、竜を肩から下ろして腕の中に抱きかかえる。
「行こうか」
 そしてフェリクスの姿はかき消えた。

 悲鳴ばかり聞く日だ、とフェリクスは思う。あの瞬間に、タイラントは悲鳴を上げただろうか。聞いた覚えはなかった。それに満足して辺りを見回す。
「そう……あなたも首謀者の一人だったわけだ」
 王宮の、よもやそこだとは思いもしなかった場所。国王の執務室。愕然とした顔の王が机の向こう、立ち上がっている。その周りを軍を掌握する重臣たちが囲んでいた。
「無礼な!」
 元帥が手を剣にかける。王の前をはばかって、抜きはしなかった。甘い、とフェリクスは感じる。嘲笑った。
「ラクルーサのアレクサンダー」
 フェリクスは他の誰もが目に入っていないかのよう、国王だけを見ていた。かつり、足を進めれば怯えの気配。
「恐れるならば、僕らに手を出さなければよかったのに……」
 呟きが、妙に大きく聞こえた。そして彼らはフェリクスの手の中にあるものをようやく目にする。ひっと小さく悲鳴が漏れた。
「あぁ……あれの名はなんと言ったかな? 若い魔術師、あなたがたに取り込まれた愚か者の――心臓だよ」
 きゅっと手を握れば、豪華な絨毯にぽたりぽたりと血が滴る。それを咎めるような者は誰もいなかった。
「いったい、それで、なにを」
 掠れた声で問うたのは、国王だった。その意気だけは褒めてもいい、とフェリクスは思う。他は誰も動くことすらできなくなっていた。
「うっかり首謀者が誰なのか聞く前に殺しちゃったからね。心臓に訊いた。素直だね、体から離れた心臓は」
 くっと声が漏れた。フェリクスの笑いではない。誰かが吐き気をこらえた音だった。
「魔法か――!」
「他にどうするの。魔法じゃなくて心臓に口をきかせられるんだったら、その方法を僕に教えて欲しいものだね」
「だから魔術師は滅ぶべきなんだ! なんと、忌まわしい――!」
「魔法が? 冗談はやめて。軍人が、拷問をしないとでも? 尋問と柔らかく言い換えてもかまわないけど、どっちにしても同じでしょ、あなた方だって、聞きたいことがあれば、殺して訊くじゃない。僕の趣味ではないけど、非常事態だからね」
「私はそんなことはしない!」
「そうだね、国王陛下」
 フェリクスの呼びかけに、嘲弄を感じなかったものは皆無だろう。剣を携えていたものすべてが、剣を抜いた。
「あなたは命じるだけだ」
 ぐしゃり、とフェリクスが心臓を握り潰した。今に至るまで、生命を保っていたのだろうか、その心臓は。絨毯に投げ落とされたそれは、ひくりひくりとわなないていた。
「よく聞くがいい、ラクルーサのアレクサンダー。あなたの祖父と僕は、終生の友情を誓っていた。彼は真の名君だった。彼の信頼を得た僕は、難産の末、息が絶えようとしている子を取り上げた。産婆なんかやったの、初めてだったけどね。僕とカロルが、助けた子供が、あなたの父だ。病弱だった子供を癒したのが、リオン。覚えてるだろうね、よもや忘れてはいないだろうね。父君に叱られたあなたを何度も僕やカロルが庇ったね。幼いあなたは、星花宮が大好きで、よく探検に来たものだ――」
 しんと静まり返ったことで、フェリクスが言葉を止めたのだとわかる。そこにいるのが、若年の男ではないことを、彼らは忘れていたのかもしれない。眼前にいるのは、百年以上の時を過ごした魔術師だった。
「僕は愚かだった。あなたの家族と過ごした時の流れが、あまりにも穏やかだった。あなたまで、それを共有していると錯覚した。僕の愚かさのせいで――タイラントを失った」
 気配が変わったのを察知したのはさすがだった。剣を能くする者たちが動きを見せるその寸前、フェリクスのほうが早かった。
「な――!」
 彼らは動けないことを知る。見れば足元が凍っていた。それが徐々に這い登ってくる。つい先ほど、そうして動きを止められた者たちが四散したのだと知れば、顔色をなくす程度のことではすまなかっただろう。
「あなたも知ればいい」
 フェリクスが足を踏み出す。実に穏やかな挙措だった。いっそ笑みの浮かんでいないことが、信じられないほどに。
「君主を弑するか!」
「君主? 誰が? あなたはすでに僕の君主たる資格を失った。あなたは僕の仇だ。ただ、それだけだ」
 ここにきてようやく国王は剣を抜く。それで敵うと思っているのだろうか。フェリクスは疑問に思い、否定する。
「格好をつけるのも大変だね。同情はしないけれど」
 さりげない言葉を与えつつ、軽く手を振った。室内が、凍りつく。まだ体は動いた。が、はらはらと氷の結晶が舞う室内に、彼らは唖然とするだけ。
「あなたは、魔術師を嫌った」
 無造作な一撃。彼らはいかに剣が無駄かを知った。狙い澄ました氷の矢が、国王を刺し貫くのを黙って見ていることしかできない。
「のみならず、我々を暗殺しようとした。国王ともあろう者が。汚い手を使った」
「私では――」
「あなたの手の者が、暗殺者を使ったことはわかってる。言い訳は無用に、死者の心臓は嘘をつかない。だからね、陛下」
 フェリクスの矢が再度飛ぶ。竜が高らかに鳴いた。それらは決して致命傷にはなりえず、苦痛を伸ばすだけ。
「あなたは最も汚い。自分の手を汚すことなく、我々を排除できると思うその心が、汚い」
 もがく重臣たちにも、氷の矢を見舞う。それだけで彼らは動きを止めた。死んではいない。抵抗の意思を放棄した。
「情けないね、王様。ほら、見捨てられてる」
 同意するよう、竜が鳴く。ちらりと重臣を見やった国王は、歯を食いしばって耐えていた。
「さっさと……なぶるな! さっさと、殺すがいい!」
「あなたは、僕から一番大切なものを奪った」
「それが――」
「だからね、王様」
 フェリクスの手が掲げられた。煌々と輝くそれに目を奪われ、そしてぞっとする。
「あなたの大事なものを、一つ残らず奪ってあげる。情けないね、この国は。僕にこの言葉を二度まで口にさせた。僕はあなたの誇りを打ち砕く。それまで、あなたには死すら許さない」
 投じられた魔法に目を焼かれ、次いで苦痛が襲い掛かる。重臣も国王もなかった。口々に彼らは言う、殺してくれ、と。
 それを聞くべきフェリクスは、すでにそこにはいなかった。




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