カロルが死んだ。 あるいはそれが引き金となった。石弓が矢を発するかのごとく、事態は急変を告げた。星花宮が感じていた危険が正に姿を現し、それはラクルーサ、あるいは魔術師だけの問題ではなくなり、世界は変わって行くことになる。 その日、フェリクスは星花宮にある自分の執務室で唇を噛んでいた。何度回避しようとしても軍部との軋轢が避けがたくなっている。 「どうして」 わかっていた。軍部の裏には国王がいる。フェリクスはいままで三代の国王に仕えている。先々代は言うに及ばず、先代とも双方にとって実りある君臣の契りを交わしてきた彼であったけれど、当代とだけは、あわない。 彼一人の問題ではなかった。今の国王は、ラクルーサ国内のみならずアルハイド大陸でいまも英雄と称えられるアレクサンダーの名を持つ。 が、この王は彼の名を持つにもかかわらず、魔法を快く思っていない。口に出すわけではない。態度に表すわけでもない。それでもわかる。 それを軍部に突かれている。剣を持ち槍を持つ輩は、魔法をなぜか嫌っている。騎士ともなればなおのこと。若い騎士たちとともに剣の腕を磨いた時代はもう還らない。それもまた、王のせい。 「どうして」 再びフェリクスの唇から呟きがもれた。同じ戦う力だというのに。なにがそれほど気に入らない。わからないことばかりで、フェリクスには打つ手がない。 カロルを失ったことが痛かった。彼が宮廷で顔を隠さないようになって以来、百年程が経っていた。その間、絶えることなくカロルは宮廷の重臣であり続けた。 魔術師を快く思っていない国王も、カロルをはばかって己が意を表すことはなかったものを。彼が逝ってからの国王は、目の端々にそれを表現した。 ラクルーサの魔術師の本拠、星花宮にいま、首席魔導師はいない。その称号は、サリム・メロールと共に去った。 「メロール師」 フェリクスは呟きの中に半エルフの姿を見る。彼らの種族の慣わしに従って彼がその擁護者と共に旅立ってから、星花宮は合議制を採っている。 すなわちカロル、フェリクス、リオン、そしてタイラント。この四人が星花宮の魔導師を主導している。 それもまた、痛かった。合議制が、ではない。半エルフが去ったことが痛かった。魔法を恐れ憎む国王は、半エルフをよりいっそう恐れたことだろうに。その重石がないいま、星花宮は風前の灯と言ってよかった。 打つ手がない。それが苛立たしいより恐ろしい、そうフェリクスは思う。宮廷魔導師は、言うまでもなく王家の臣。国王から排斥されるだけならばともかく、それ以上のことを軍部がしないとは言いがたい。溜息をつくフェリクスの視線が上がった。 「フェリクス師。そろそろおいでいただけませんか」 扉が控えめに叩かれ、若い魔術師が顔を出す。魔術師の年齢は計りにくいもの、と相場が決まっているけれど、彼はいまだ本当に若かった。 「わかった」 フェリクスは執務室を後にし、彼の先導に従う。一応、魔術師を名乗ってはいるけれどいまだ弟子と大差はない。その彼が導いていくのは、新たに弟子となりたい者たちが集まる星花宮の広間だった。 フェリクスが広間に姿を現すと、子供と呼びたいような年齢の少年少女がはっと息を飲む。フェリクスは闇エルフの子。それをここでは一切隠す気がなかった。そのような者でもラクルーサ王は慈しみを持って臣としてくださるのだ、と無言のうちにフェリクスは語っているつもりだった。 「皆は」 迎えに来た魔術師に問えば、困り顔をされた。彼もリオンとタイラントの行方は知らないらしい。心の中で呼びかけようか、と思ったそのときだった。耳が、何かを聞きつけたのは。 咄嗟に考えてしたことではなかった。体をひねったフェリクスの頬を短剣が掠めて飛んでいく。驚きはしなかった。慌てもしなかった。息を吸って呪文を唱える。その一瞬。 愕然とした。迎えにきたあの若い魔術師が、背後を取っていた。わずかに体勢が間に合わない。羽交い絞めにされたフェリクスはもがいて肘を打ち込む。 「なにをしてる! 早く――」 悲鳴じみた声をあげ、彼は弟子の一団に混じっていた暗殺者に声を張り上げた。 信じがたいものを見た、フェリクスはそう思った。自分に向かって短剣を持ち、突進してくる暗殺者、その誰もが子供だった。 「お前たちは――!」 そんなことをやらされているのか。そんなことをするために生まれてきたのか。脳裏に己の過去が去来する。魔法で討つことは易い。が、彼らを討ってなんになる。その思いがフェリクスをためらわせ。 「やれ――ェ」 遠い響きに聞こえた。背後から聞こえてくる狂気の悲鳴は。眼前に迫ってくる三本の短剣。束の間のことのはずなのに、フェリクスは永い時を感じた。 「シェイティ――!」 銀髪が、目の前をよぎった。そんな気がした。フェリクスを、その名で呼ぶ人は一人しかいない。それにもかかわらず、フェリクスはいま彼がここにいるとは考えたくなかった。 ざわり、音が響きを取り戻す。それまで絶えていたことに気づかなかった。もしかしたら聞こえていなかっただけかもしれない。 「シェイティ?」 振り返ったタイラントの唇が笑みを刻む。白い肌が、青ざめていた。つ、と唇が赤くなる。否、血が滴る。 「なにを……」 「君は、無事? 怪我はない? そう……よかった」 「タイラント!」 ずるりと体が崩れた。三本の短剣は、無残にタイラントを切りつけ、傷をえぐっていた。支えた体が重い。 「いま、リオンを……」 魔術師でもあり、神官でもある彼を呼ぶから耐えろ。そう言ったのにタイラントは笑った。柔らかな微笑みが、胸を衝く。 「自分の体だからね。わかるよ。リオン様がきても、無駄」 「うるさいよ、黙りなよ。いいから黙ってなよ!」 「シェイティ。聞いて」 言ってタイラントは手を伸ばす。首を振りたかったフェリクスは、けれどできなかった。左右色違いの彼の目を見る。長い間ずっと見てきた彼の目。 「ごめんね、シェイティ」 指が、フェリクスの肩を掴んだ。思いの外のその強さに、フェリクスは体を強張らせる。それに気づきもしなかったよう、タイラントは続けた。 「ずっと君のそばにいる。そう誓ったのに――」 咳きこんだ。フェリクスの体にも頬にも血が飛ぶ。生暖かいタイラントの血だった。 「ここまでかな。まさか――俺のほうが先に逝くとはね。……ずっと、君を追いかけて、最期は、後追いしてやろうと、思ってたのに」 冗談のよう言い、苦痛を押し隠してタイラントは笑う。細められた色違いの目の中、自分だけが映っている。フェリクスはただそれだけを見ていた。 「寂しがり屋の君に、俺ができる最後のこと」 ふっと息が抜けた気がして、フェリクスはきつく彼の体を抱きしめる。それでも流れ出していく命をとどめようもなかった。 「シェイティ。君が好きだよ。ずっと。いままでも、これからも、ずっと。俺がいなくなっても、ずっと」 掲げた指先に魔力が凝る。やめさせたかった。そんなことをすれば、いっそう早く命の灯火が消えるだけ。それなのに見えた、見えてしまった。 「これからも、君のそばにいるよ――」 肩から、痛みが消えた。タイラントが掴んでいた肩に、すでに彼の手はなかった。だらりと下がった腕が、すべてを語る。 「タイラント……」 嘘だと言って欲しかった。誰でもいいからこれは悪い夢だと言って欲しかった。その耳に届いた一声。 「あ……」 タイラントの最期の魔法。我が目が見ているものが信じられなくて、フェリクスは目を瞬く。消えなかった。 そこにいるのはかつての白い竜。否、それによく似た小さな竜だった。体はタイラントの銀髪を思わせるかの真珠色。共に旅をした頃の苦痛も幸福をも思い出す。 「おいで」 宙に羽ばたく竜が、差し伸べたフェリクスの腕に舞い降りる。鉤爪の感触も、懐かしかった。 「馬鹿だね」 これで、フェリクスは知った。タイラントの命が消えたことを。彼が自らの手をもって彼自身の魂を打ち砕いたことを。ここにいるのは、彼ではない。この竜もまた、彼ではない。強いて言うならば、タイラントの魂の欠片。 「行こうか」 言えば甘えるよう竜は鳴き声を上げた。小さなその声にフェリクスは笑みを返しはしなかった。あとから思えば、この日からフェリクスは表情を失う。わけても、笑みを。 感情の混じらない目で、広間を見回す。とっくに去ったと思っていた暗殺者も、若い魔術師もその場に凍り付いていた。子供たちだけが、広間の壁に固まって怯えている。 「そう……」 フェリクスはうなずいて竜に頬を寄せた。 「タイラントが、やったんだね」 彼らの足を止めていたもの、それはタイラントの魔法の名残。彼の命が尽きたいま、それはすぐにも解けてしまうだろう。その時間を与えるつもりは、フェリクスにはさらさらなかった。 「覚悟はできているだろうね」 誰に向けて言ったのだろう。もしかしたら自分にかもしれない。そうフェリクスは内心に呟く。無造作な腕の一振りに、幼い暗殺者が息を飲む。それを恥じるかのよう顔をそむける。フェリクスは、見ていなかった。 「ここで。おやすみ」 出現していたのは、氷の塊、そうではなかった。切り出されたばかりの氷塊に見えたもの、それは氷の棺だった。思いのほか穏やかな顔をしているタイラントに目を向け、フェリクスは一度だけ目を閉じる。 その目が開いたとき、そこにあるのはただ苛烈さのみ。 「償えるものならば、償うがいい」 なんとか動けるようになりつつあるのを感じていた彼らが、もがいている。嘲笑うよう、フェリクスは呟く。 それと共に彼らが悲鳴を上げた。足から徐々に凍り付いていた。氷が、鳴き声を上げながら這い登ってくる。放置すれば、わずかの後にそこにあるのは氷の彫像。 「タイラントが許しても、僕は許さない。どんなにお前たちが哀れでも、決して許さない」 フェリクスが掲げた手の中、深紅の凍気が立ち上る。その手を振りぬいたとき、そこにあるのは四対の足。四散した肉体の生臭さに、肉塊に、子供たちが悲鳴を上げた。 |