旭はどうして須田についてきてしまったのか、それもわからない。
 なにもかもがぼうっとかすんでいるようでなんだか生きている、という感覚さえ、ない。
「飲めよ」
 シャワーを浴びた後に借りた須田のパジャマはずいぶんと大きくて。
「ありがとう」
 渡されたグラスの酒でも飲まない事には体が冷えて仕方なかった。
「あ」
 ただのウィスキーだと思っていたその酒はなんだかほのかに強い甘味がして。
「美味いだろ」
 そう、彼は笑った。
 旭よりずっと体格もよくて二十三歳にしてすでに頼れる男の雰囲気を漂わせている。
 英司より、あの情けなくも恋しい男よりずっと、男っぽい。
 そんな須田が子供がいたずらに成功したみたいに、笑う。
「ラスティネイルって言うんだ」
「さびた釘?」
「そ。ドランブイっつーリキュールとスコッチのカクテル」
 だからけっこう強いぜ。
 にやり、また笑う。
 どうして須田はこんなに良く笑うんだろう。
 旭は不思議でしょうがない。
 でもこの酒は心地よかった。
 グラスを重ねるごとに青ざめていた頬に唇に血の気が戻る。
 ほんのりと、次第に。紅く。
「ねぇ須田さん」
 とろり、自分の声が甘えている。
「どうしてそんなによく笑うの」
「ん?」
 一瞬、須田の手が止まる。
 唇にグラスを当てたままふと考え込む。
「旭がいるからじゃないか」
 考えた末に彼は。
 そう言ってまた、笑った。
「そういう……」
「冗談言ってるわけじゃないぜ?」
「須田さ……」
 語尾が途絶えた。
 言葉の最後は須田の腕に捕らえられて、消えた。
 腕に抱きすくめられ旭は自分の体がより小さくなってしまったような錯覚を、覚える。
 驚いた足が蹴ったグラスの酒が飛び散って甘く強い酒の香が辺りに立ち上っていた。
「旭」
 指が。
 須田の、英司とは比べ物にならない無骨な指が。
 旭の顎にそっとかかる。
 震えていた。
 なんだかそれが。
 妙に可愛くて。
 旭は自分から須田の唇に自分のそれを重ねていた。
「なにがあったか……話せない?」
 言う声も少し震えて。
「言ったらきっと僕のこと嫌いになるよ」
「嫌われたいか?」
 聞き返されて旭は言いよどむ。
「嫌いになんて、ならない」
 旭の答えなんてどうでもいい。
 須田はそうとでも言うように言った。
「言ってみろよ」
 言う気になったのは、酔っていたからかもしれない。
 旭は醒めた頭のどこかでそう、自分に言い訳をしている。
「男とベットにいたときに奥さんが帰ってきちゃって、ね」
 ほら、軽蔑したでしょう?
 腕の中から旭がそんな目で彼を見上げる。
 その旭に。
 彼は黙ってもう一度唇をあわせ。
「それで別れた?」
「ん……だってその男って父親だもん」
 一瞬。
 彼の息を飲む音がした。
「そりゃあ……修羅場だわなぁ」
 ふっと。
 彼の腕から力が抜けて、きつく抱きしめられていたのだと知る。
 腕が旭の背を優しく撫ぜはじめ。
「須田さん……」
「惚れちまったならしゃあねぇだろうが。俺も旭に惚れてる」
 そう言っては唇が髪に寄せられ。
「親兄弟だろうが同性だろうがそんな属性に惚れるわけじゃねぇからな」
 耳元で言う、声。
 須田の声はこんな声だったろうか。
 旭は少し、不思議で。
「それで……母親に追い出された、とか?」
「ううん」

 あの後。
 英司は言った。
 旭に、美咲の前で言った。
「お前は美咲の身代わりだ」
 と。
「美咲がいないのが寂しくて、そっくりだったから」
 抱いた。
 とも。
「俺が愛してるのは美咲だけだ」
 だから捨てないでくれ。
 そうやって妻に哀願する男を見ていたらなんだかすべてがどうでも良くなった。
「旭が誘って……」
 まだ言い訳をしている男の声が遠くで聞こえている。
 汗の引いたからだが、寒くて。
 身を震わせたら英司の、力を失った男が体からずるりと抜けた。
 こんなに言い訳をしている男のものがまだ自分の中にいたままだったのがおかしくて哀しくて。
 旭は嗤い続け。

「だから馬鹿馬鹿しくて……出てきた」
 須田の腕の中、旭が嗤う。
「旭……」
 言った須田の声の震えに見上げればぼろり。
 彼の目から落ちる涙が頬に、熱かった。
「須田さん、泣いて……」
 自分の為に泣いてくれるのか、と。
 泣けなかった自分の代わりに。嗤うしかなかった自分の代わりに。
「うるさい」
 力ない声とは裏腹に抱く腕の、強さ。
「須田さん……」
 抱き返した背中のその、確かさ。
 須田はここに、いる。



 二日酔いに痛む頭を抱えて目を覚ます。
「……っつぅ」
 身じろぎして温かいものに、触れた。
「あ……」
 初めて気づく。
 裸のまま、隣に須田がいる。
「須田さん」
 呼びかけてはやめ。
 そうっと自分の体を抱いた。
 大事に扱われたと、それはわかっているのにどうしてこんなに。
 なにがどう不満なのか。
「……」
 呟きかけた名が誰の名だったか、気づき旭は暗澹となる。


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