じっと座っていた、エリンは。黙って目の前の客たちを見ている。フェリクスの死の知らせをもたらしたのはイメル。かつてフェリクスの隣にいる、と語っていた人物であろう闇エルフが一人、そして人間の女が一人。
「……逝ったか」
 幾千万言を費やしても到底かなわない重い一言。フェリクスが逝ってしまった。たった一人、師にだけ自分たちの歩み行く先を見てほしい、そう願って始めた大同盟の結果すら見ることなく。
 エリンはフェリクスの死を、知らされるまで知らなかった。それがどう言うことなのか、わずかに考える。自分に波及するほど衝撃を伴う死ではなかったのか。衝撃を覚えることすらできないほど衰弱していたのか。否。エリンは否定した。
 ――あの、馬鹿親父め。
 内心で小さく呟く。死の衝撃を及ぼすことのないよう、手を打っていたに決まっている。何度も瞬いて睫毛に絡んだ涙を払った。
「……ごめん」
 イメルがうつむいて詫びた。詫びる意味がエリンにはわからない。イメルはイメルで精一杯様々なことをしてきたことだろう。友人としてエリンはそれを疑ってはいない。無言で首を振るエリンに代わり、ライソンがイメルの背後にまわっては軽く肩を叩く。その節くれだった手に目を留め、イメルはやはり悲しそうに首を振った。
「カレン、茶」
 重苦しいものを吹き飛ばそうと言うよう、エリンは弟子に茶を淹れるよう命ずる。とっくに別に自宅を持っているカレンなのに、こんな時ばかりはいい勘をしていると褒めるべきか、エリンの自宅にやってくる。
「それで、エリナード……」
 ようやく同行者の存在に思い至ったのだろうイメルが口を開こうとする。それをなぜかエリンに制されて小首をかしげた。
「――そう言うことか。なるほどな」
 じっと闇エルフを見ていた、エリンの目は。人間の女など眼中にないと言いたげな眼差しに彼女がぷい、と横を向く。それに気づいたカレンが彼女に向かって片目をつぶってみせる。小さく上がった笑い声は、ライソンのもの。それでもエリンと闇エルフはただじっと見合っているだけだった。
「エリナード……。そう言うことって、どう言うことなんだよ?」
 焦れたようなイメルにエリンが片手を上げて詫びた。それからもう一度闇エルフを見る。首をかしげ、どうしてわからないかな、とでも言うようイメルを見る。もう一度闇エルフに視線を戻したとき、エリンの目は少しばかり含羞んでいた。
「はじめましてって言うのもすっげぇ今更なんだけどよ。はじめまして、師匠の親父さん。お名前は? 俺は、フェリクス・エリナード」
「ファネルだ」
「へぇ、なんか声までそれっぽいのな」
「それっぽい?」
 まるで旧知のように話が進んでいく。この噛みあい具合がそこはかとなく懐かしい、エリンは思いそっと卓の下で拳を握りしめる。
「ちょっと待って!?」
 だが悲鳴が上がった。イメルであり、カレンであった。うるさい、とばかり耳を塞いで見せたエリンをライソンが笑う。
「どうしてわかるの? あぁ、私はチェイス。その人……話に聞いてるライソンさんだよね? 私、デイジーの娘です」
「……マジ? あいつに娘いたんだ。へぇ、そりゃ驚いた。似なくてよかったな、親父さんに」
 母親似なんです、と笑うチェイスもなんのその、イメルが再び悲鳴を上げる。
「だから、待って!? エリナード、どうして!? フェリクス師からなんか聞いてたの!?」
「あのなぁ、イメルよ。お前、いい年してんだ、もうちっと考えてから物を言え。あの師匠がそんなこと言うと思うか? だいたい俺は生涯顔見せんの厳禁だったんだぜ。あのクソ親父がアリルカでどう暮らしてたのかも知らねぇっての」
「それは、そうだけど……それでも、どうして!?」
 吟遊詩人の声量で悲鳴を上げるな、と渋い顔をするエリンをチェイスがなぜか微笑んでみていた。どうやら気に入ったらしい、とライソンは微笑ましげに眺めている。
 それが、切なかった。自分に残された時間が長くなどないことはライソンにはよくわかっている。衰えた体、目もよく見えないし耳も遠くなった。朝目覚めるたびに体中が軋みを上げる気すらする。昔は、とライソンは思う。エリンを気に入るような相手は女であろうと男であろうと不快であったのに。いまは孫でも眺める気分で見ている自分がいるばかり。
「ライソン」
「なんだよ?」
「別に? なんか妬いてんなぁと思っただけだ。しつっこいくらい俺は言ったと思うけどな? くたびれたジジイでも俺はお前がいい、何度言ったらわかる?」
「別に……妬いて、たかな?」
「結構すげえ目ぇしてそっちのお嬢ちゃん見てたぜ?」
 自覚などまったくなかった、ライソンは。目を瞬いて頬などこすってみる。エリンがにやにやしながら自分を見ていた。
 そこにあるのは変わらぬ思い。過ごしてきた時間に流れた日々。ライソン一人が変わってしまった。だからなんだと言うのか、エリンはそう言う。初対面の客の前、体裁も何もそっちのけにしてただライソン一人を見てそう言う。
「今更嫉妬ってのも見苦しいよなぁ」
「そんなお前が俺は好きだぜ?」
「言ってろ」
 鼻で笑って、それでもライソンは嬉しい。弾んでしまう胸の内を気取られることがただ恥ずかしくてそっぽを向く。その手の中、カレンが茶器を押し込んだ。
「一応、言っとくべきかと思いますけど。話、ずれまくってますよ、師匠。イメルさんがいまにも絶叫しそうなんですけど」
「え? あぁ、忘れてた。なんだっけ、イメル?」
「……なんだっけじゃないだろう!?」
 結局、絶叫を浴びる羽目になったエリンはライソンと顔を見合わせて悪戯のよう笑みをかわす。それにまた一くさり怒ろうとしたイメルの手の中、カレンがちょうどよく茶器を押しつける。
「最近凝ってるんすよ、けっこう旨いんでどうぞ?」
「え、あ。うん。ありがと」
「チェイスさんとファネルさんもどうぞ。果物の香りがつけてあるんで、気に入ってもらえるといいけどな」
 中々世渡りが巧くなったと言うべきか詐欺師めいてきたと言うべきか、昔から実に男らしかったカレンは現在ではさらに磨きをかけて口まで達者になった。おかげでいったいどこの結婚詐欺師か、と言うような態度だ。それも女を騙す方の。エリンは小さく溜息をつく。
「チェイス嬢ちゃん。見りゃわかると思うがそれ、女だからな。別に惚れた腫れたに口出すつもりはねぇけど、それ、女だからな」
「ちょっと師匠! それじゃ私が女の子だまくらかすみたいに聞こえるじゃねぇですかい!?」
「やらねぇって言い切れねぇところが怖いんだろうがよ」
 誰がやるか、とカレンが声を荒らげ、ふとイメルのじっとりとした眼差しに気づく。慌てて咳払いをして師を睨んだ。
「で?」
 これで師に話の続きを促しているのだから大笑いだ。実際ライソンはこらえきれなくなって笑っている。当のカレンも。エリンも小さく笑った。
 それでカレンがほっとしているのに、ライソンは気づく。当然だった。いま、フェリクスの死を聞いたばかりだ。何もできなかった、なんの助けにもなれなかった、そう嘆き続けるエリンを見るのは近しい人間として、つらい。雑談でいい、それに少しだけ笑ってくれればそれでいい。カレンのそんな心遣いをライソンは感じる。内心で、だから呟く。自分が逝ったときにも、そうしてエリンを笑わせてほしい、と。誰にも聞こえない声でライソンは呟いていた。
「でって言われてもなぁ」
 首をかしげてエリンがファネルを見やった。ライソンが何かを考えているらしいことはその表情で見当はつく。おそらくフェリクスの死に自分が落ち込むのではないか、と案じてくれているのだろう。
 ありがたかった。こうして大勢の人々が案じてくれる。ライソンをはじめとしてカレンもイメルも。だからこそ、先に進もうとエリンは自らを奮い立たせた。
「師匠と親父さん、似てるよな?」
「――はじめて言われた。リオンにも言われたことはない。魂の形、と言っていたか。本質と言うそうだが。それは似ているらしいがな」
「へぇ、そっちは俺はわかんねぇや。エイシャの神官の特殊能力だし。ぱっと見で似てるってだけだぜ?」
「どこがだよ!? エリナード、頼むからほんとのこと」
「俺がなんでそんな意味のわかんねぇ嘘つくんだっての。イメル、ちゃんと見てみろって。やっぱ似てるって」
 言われてイメルがファネルを見る。ついでのようチェイスも彼を見る。カレンもライソンも。だが全員が首をかしげた。
「師匠、どこが?」
「えー? 似てねぇ? なんか目の形とか、全体の雰囲気とか。師匠にもうちょっと魔法の才能がなくって育ってたら、こんな感じになったと思うけどなぁ、俺」
 右から左から眺められてもファネルは飄々としたままだった、さすがに苦笑程度はしていたけれど。そんなされるままなところも似ている、そうエリンは思う。罵詈雑言をまき散らしながらでも、結局のところは優しかった師。もういない、胸に迫った。
「フェリクスは……」
「うん、知らなかったの、師匠?」
「いいや、知ってはいた。本人と私、それにリオンだけが知っていた。あぁ、シェリ――タイラントの欠片のドラゴンも知っていたな」
「んじゃ何の問題もねぇよな。師匠が大事にしてた、最後のとこで守りたかったやつらはみんな知ってたんだし」
 アリルカの弟子たちどころか自分ですらもなく、そうエリンは言い放つ。それにファネルが形のよい眉を顰めた。
「それは――」
「いいんだよ。俺たち弟子は師匠にとって思い出で、未来だ。自分につき合わせらんねぇって師匠は思ってた。それは俺が保証する。俺は――」
 言葉を切り、エリンが遠い眼差しをした。隣に座るライソンをさえも忘れてしまったような顔をして。
「大勢いたよ、師匠の弟子は。あれで結構お笑い草なんだけどよ、意外と子供好きだったんだぜ、師匠は。四魔導師ん中で一番ガキを可愛がるのがあの人だった。自分の弟子じゃなくっても菓子くれてやったりしてな」
 エリンの言葉になぜかチェイスが驚いたような顔をし、同時に納得したような目もする。イメル一人が気づき、エリンは言葉を続ける。
「……それでも、あのクソ親父は俺だけを息子って呼んだんだ。だから――わかる」
「なにを、だ?」
「師匠の大事なもん。最後まで抱えてたもん。ダチ二人。リオン師と、あんただ。よもや俺の師匠がてめぇの父親だからって情を移すような腑抜けだなんて、あんたは思わねぇよな?」
 ファネルに、エリンのにやりとした目が向けられた。そしてエリンが驚いた顔をする。なぜだろう、ファネルがこんなにも安堵した笑みを見せるのは。それでも一つだけ、エリンに伝わったもの。アリルカでのフェリクスの日々は決してつらいだけのものではなかったと。




モドル   ススム   トップへ