ライソンもまた、驚いていた。あれほど師を案じていたエリンが、なぜ悪魔召喚などと言う聞くもおぞましいことを勧めるのか。ぎょっとしてエリンを見たけれど、口を開いたのはイメルだった。
「うん、わかる。わかる……と思う。ほんとにね、フェリクス師は追い詰められていた。俺が聞いてもそりゃないだろってくらい酷いこと言われてた。でも……」
 言葉を切り、イメルはうつむく。それでもイメルはフェリクスに一線を越えてほしくはなかったと。そんな彼をエリンは冷え冷えと見ていた。
「これは、だからフェリクス師のせいじゃない。俺たちみんな、アリルカの民のせい。フェリクス師は、全然悪くない。師を理解しようとしなかった他の人間が――」
「だからな、イメル。俺は理解しようともしねぇ他人のために命削った師匠なんだ。いっそ越えちまえばよかったんだって言ってんだ」
「それは……フェリクス師の側にいる人が、嫌がると思う」
「はぁ?」
 師の側に誰がいるというのだ。タイラントの魂の欠片だという小さな竜か。否、もしもそれがタイラントの欠片だというのならば、彼は決してフェリクスを否定しない。どんな悪行であれ、タイラントはフェリクスを肯定する。そして自らも共にその罪を背負う、そう言うだろう。エリンはそう確信している。
 ならば弟子たちか。星花宮の四魔導師が育て上げた魔術師たち。皆が皆、一流の腕を持つ魔術師たち。四人の師の元で手塩にかけて育てられた魔術師たち。彼らはフェリクスを止められるか、止めようという気概があるか。否。どうしていいかわからないだろう、とエリンは思う。自分だとてそうだ。その場にいなかった人間の無責任な放言だとわかっている。その場にいた魔術師たちはただただおろおろとしているしかなかっただろうことも見当がつく。ならば、誰だ。誰もいない。エリンの眼差しにイメルは首を振る、強く。
「ファネルって言う、闇エルフがいるんだ。帰還した、元闇エルフって言ったほうがたぶん正しいんだけど、でも本人が闇エルフのファネルって名乗るからね」
「だから?」
「止めたの、ファネルだ」
「は?」
 悪魔召喚を思いとどまらせた、とは思えない。なぜならば自分は衝撃を感じている。ならばファネルなる闇エルフは何をした。
「後で半エルフたちに聞いたんだけど。神聖言語だそうだよ。元々彼らの言語だから発音できるのは知ってたけど――」
「ちょっと待て、イメル。発動した、悪魔召喚を、神聖言語で、ファネルって闇エルフが、止めたって、言ってんのか、お前は?」
「うん、そう言った」
 あっけらかんと言われてエリンは頭痛がする。もう一度星花宮の幼児に戻って魔法理論を一からやり直して来いと怒鳴りたい。そんな馬鹿な、と言えたならばどれほど。
 だがしかし、悪魔召喚が途中で止められたのもまた事実。エリンの精神はそれに気づいている。もしも完遂していたならば、自分はあの程度で済まなかった。
「ずっとね、戦争中もファネルはフェリクス師を心配してた。何かって言うと必ずファネルがフェリクス師の側につく。なんだか見慣れちゃってて気にも留めてなかったけど、そうだよな。お前のほうが正しい。やっぱり驚くよな」
「驚くとか驚かないとか言う問題じゃねぇだろうが。あー、その、一応聞くけどよ?」
「あのさー、エリナード。お前さ、タイラント師とフェリクス師の絆をなんだと思ってるわけ? この期に及んで浮気ができるくらいならフェリクス師は壊れてない」
「……ごもっとも」
 それだけはきっぱり言ったイメルにエリンは苦笑する。確かにそのとおり、とも思う。だがやはり側にいないぶん、エリンには不思議で不安だ。ファネルと言う闇エルフはなぜ師の側にいるのだろう。単なる友情か。そうは思えない。現時点で師が友情に値するとは思えない。ただ生きているだけの魔術師を保護したいのだろうか。それも、考えにくい。なんと言っても相手は闇エルフだ、たとえ還ってきたのだとしても。
「わっかんねぇな」
 首を振るエリンにライソンが小さく笑った。それからぽん、と頭を叩かれる。なんだ、と見やればやはり楽しげに微笑んでいた。
「いいだろ、理由なんか。ファネルって人は氷帝を大事にしてくれてる。なんか知らねぇけど、守ってくれてる。理由なんかいらねぇよ。だろ?」
「お前ほど楽観的になれねぇよ。万が一、なんかの私欲の結果だったらどうする」
「あ、エリナード。それはない。タイラント師の欠片のドラゴン、シェリがファネルに懐いてる。だからたぶん、平気だ」
「そりゃまた素敵な理由で」
 はぁと長い溜息をつく。だが実際タイラントが認めたならば安全ではある、そう思わなくもない。最低限、師に害なすものではないと信じられる。がしがしと頭をかくエリンをカレンが笑った。
「ほんと師匠、世話焼きっつーか、あれですよね。どっちが親だかわかったもんじゃねぇって感じすよ?」
「うっせぇ。手のかかる野郎が多すぎんだ。たまには俺に楽させろ」
「残念、これでも私は女なんで野郎じゃねぇですし」
「そんなガサツな女がどこにいるよ」
「ここに?」
 ふふん、と笑ってカレンは茶の入れ替えに立つ。がさつどころかこれで意外とまめだ。態度が悪いだけで、これは師弟揃って、それどころか師弟脈々とこの調子だから伝統と言い張ってもいいだろう。
「それで、エリナード」
「おうよ?」
「これ……フェリクス師から、預かってきたんだ」
 ふ、とイメルの気配が変わる。エリンも真面目な顔に戻った。そして彼から受け取ったもの、手紙。紙に書いた、ごく普通の手紙だった。魔術師らしい何かではなく、当たり前の消息が記してあるとでも言うような。
「読むぜ?」
 こくり、とイメルがうなずく。中身を読んではいないだろう、でも見当はついている、そう言うことかもしれない。

 ――イメルから事情は聞いたと思うんだけど。色々しでかしたからね、そろそろ最後かと思って。本当は顔を見に行こうかと思ったんだけど、あなたは僕がどう感じるかわかってるから僕に会いには来なかったね。だから、僕もやめておくよ。
 会って顔見て、何が言いたかったのかな、僕は。あなたにはわかるんじゃないかと思う。だから、それでいいかな。ごめんね、それからありがとう。色々助けてくれたのは知ってるよ。僕にはもったいないほどいい弟子だよ、あなたは。
 だから顔見せないよ。あなたには僕が生きていた顔を覚えていてほしいからね。語弊があるのはわかってるけど、あなたには通じるよね。会って言いたかったことはたぶん一つだけ。元気で幸せになりなさい、可愛いエリィ。
 こんな心のこもらない言葉が師の最後の言葉って、あなたも災難だね。わかってくれてると思うから甘えさせてもらうよ。僕の代わりになんて思わなくていい。あなたはあなたで幸せになるんだよ。
 元気でね、可愛いエリィ。――

 長いのだろうか、短いのだろうか。エリンにはわからない。音信不通だった師からの手紙ならば短すぎる。師の遺言ならば長すぎる。
「エリン、おい。エリン」
 うろたえたライソンの声に顔を上げれば手元で手紙が音を立てる。思わず握ってしまったらしい。慌てて力を緩めれば、卓の上に水の滴り。
「え……。なんだ、これ」
「ちょっと、こっち向け。いいから、なんにも考えないで俺を見ろ。それだけでいいから、エリン!」
「おい、ライソン……」
 戸惑った挙句、彼の言葉に従った。それでもまだ内心に首をかしげつつ。それなのに、胸に抱かれた途端、息が詰まった。どうにもならない激情が体の中に吹き荒れる。
「……あの、馬鹿。ダメ師匠――クソ親父――! なに考えてやがる。なんでこんな手紙。どうして、いま!」
 わかっていた。いまだから。いまだからこそ。タイラントの死に痛めつけられたフェリクスの魂。戦争で、その後の過程で、そしてアリルカの強固な結界を構築する上で。どれほど師は魔力を濫用したのだろう。そして悪魔召喚までした。最後まで発動しきらなかっただけで、発動自体はしていたとエリンは確信している。だからこそ、痛めつけられた師の生命。
「エリナード……。俺は、後悔してる。もう二十年も前になるよな。アリルカに行って、タイラント師の敵討ちするんだって燃えてた俺はなんにも見えてなかった。どれほどフェリクス師がつらいかなんて考えられなかった」
 そう忠告されていたのに。イメルは続ける。エリンは聞いているのかどうか。ただライソンの胸に顔を埋め、彼の肩に爪を立て。
「ようやく、あの日にお前に言われたことがわかるようになってきた。今更だと思う」
「――今更でも、わかりゃマシだろ」
「……エリナード。フェリクス師も同じことを言うんだ」
 涙声のイメルにエリンは顔を上げなかった。ライソンも止めなかった。こんな話をしに来たイメルを以前ならばライソンは止めただろう。少しだけ、時間の流れをエリンは思う。
「前はさ、お前が少し薄情なんじゃないかと思ったこともある。フェリクス師だってそうだ。お前のことなんか一言も、存在なんかしてませんって顔してさ。酷いと思った」
「馬鹿か、お前は」
「うん、馬鹿だった。――お前だけだ、エリナード。フェリクス師の本当の心を思いやったのは、お前ひとりだ。お前だけが、フェリクス師の心を汲んで、フェリクス師を助けたんだ。俺は、そう思ってる」
 そっと紙を押しやる音がした。エリンは見なくともイメルがあの手紙をこちらに押し出したのだとわかる。フェリクスの遺書を。最後の手紙を。
「あのダメ師匠が……! 会いたくなかったわけがねぇだろうが!? 跳んでいきたくなかったわけねぇだろうが!? あのクソ親父が! あぁ、クソ! だから俺は最後まであんたの顔が見らんねぇんだ! 最期くらい看取らせやがれ、馬鹿野郎!」
 叶わないエリンの願いにイメルが顔を伏せる。カレンがそっと目許を拭った。ライソンはただじっとエリンを抱き続ける。師は弟子の幸福を祈り、弟子は師を思い、それなのに、それだからこそ、顔を合わせることのできない二人を悼んで。ただエリンを抱き続けた。




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