たった数か月。アリルカ共和国の驚異の進撃をライソンはイーサウで聞いている。何度かアリルカにはエリンと共に行った。と言っても、国の外までだ。アリルカが自らの土地、と定めた森のずいぶん外に二人は留まったまま。
「いいのか?」
「むしろここでも近ぇんだ」
 ぼそりと言うエリンにライソンは黙って微笑むだけ。これ以上近づいてはフェリクスに感づかれる。だが本当は近くに行きたいエリンの心。
 イメルから連絡があったとき、エリンが心底から安堵したのをライソンは知っている。フェリクスに殺されはしなかった、と。だがあの吟遊詩人らしい長い髪はばっさりと落とされていた。フェリクスにやられたのだ、と聞く。それでも生きていたからいい、エリンは言った。
 イーサウとアリルカの間を何度となく隊商は往復した。戦争のための物資であり。早急に必要となるものであり。表向きは中立であるイーサウだ、他からも求められればいくらでも戦需物資は調達しただろうけれど、ヘッジは人が悪そうな笑顔で言ったものだった。
「注文がないのに押し売りに行くのは好かないのですよ」
 にんまりとしたあのときの笑みを思い出せば今でも笑ってしまうライソンだった。イーサウは隊商とその護衛が各地に飛び、いつにない活気だった。
「戦争ってのはある意味じゃとんでもない経済活動だからよ」
 苦々しげに言うエリンにライソンはうなずく。これでも傭兵隊を預かっていたのだ、それは心から納得できる。
「あんたも、好戦的なくせに戦争、嫌いだよな?」
「好きな馬鹿がいたら連れてこい。きっちりぶちのめしてくれる」
「いねぇよ、俺の知り合いにゃ」
 当たり前だ、とエリンが厳しい目をした。イーサウで、多少はその手の混乱があったのも事実。アリルカに一臂の力を貸して参戦するのが正しい、と言った手合い。ヘッジは無論、星花宮の魔導師の束ねをするエリンも断固として反対した。
「戦わなきゃならねぇときに戦うのが勇気だって、お前は言ったよな?」
 いつか魔法学院を放逐せざるを得なかった子供にライソンが言った言葉。エリンは思い出したよう、その実何度も噛みしめたのだろう目をしてそう言う。
「戦いを避けるのが智慧だとも、言ったよな? こりゃあな、避けられねぇ戦いだ。それは事実だ。俺は、だから本当は戦いてぇよ」
「でもイーサウにとっては避けられる戦い、だ」
「だな。そこらへんを勘違いした馬鹿がいる限り、俺は止める側に回るぜ。何度でもな」
 エリン個人の思いと、体制の仕組みは違う。一時の感情で動けば周囲に多大な迷惑を振りまく。
「でもな……あんた、いいのか」
「誤解されてんのは知ってる。腰抜けとでも恩知らずとでもなんとでも呼べ。俺が生き残って世代を繋ぐ方を師匠は喜ぶ」
 たとえ顔を合わせることができない師弟であっても、エリンは確かに師の心を汲んでいる。それを知らない他人が好き勝手を言う。
「エリン」
 ふ、とライソンの手が伸びてエリンの体を包み込む。周囲の噂話にどれほどエリンが傷ついているか知らないわけはない。眠れずに輾転反側しているのも、転寝の夢にすらうなされているのも、ライソンは知っている。
「俺がいる。カレンもいる。イメルも、ヘッジさんもいる。あぁ、オーランドもいるよな?」
 寡黙と言う言葉が、呆れてその地位を譲り渡しそうなほど口数の少ない魔術師ともライソンは親しくなった。一方的にライソンが喋っているようで、実はきちんと会話になっている。エリンがそれを笑ったこともあった。
「わかってる。俺は、大丈夫だ。まぁ、師匠よりはよ」
「比べる相手が悪いんだっての」
 ライソンにも聞こえているフェリクスの異常。あるいはそれは伴侶を失った彼としては正常なのかもしれない。けれどこの世界においては異質であることに違いはない。心を失ったようなフェリクス。その肩にいる、タイラントの魂の破片から成り立つという真珠色の小さな竜。見たことはないライソンだ。けれど見たくない、そう思う。想像するだに胸をかきむしられるような、そんな気がしてたまらない。エリンとのことをぽんぽんと霰のように叱りつけてくれたあの氷帝はもう、いない。
 いずれ、自分はエリンを残していく。それを実感しはじめたのがこの時期だったのかもしれない。戦争と言う大量の死者が出る行為とアリルカの快進撃。イーサウの発展。それに伴う二王国の衰退。あっという間に時間が過ぎゆき、だからこそ感じる己の身のうちに流れる時。
 死なない。ずっと側にいる。心配するな。何度口をつきそうになったことだろう。エリンを思うからこそ、容易に口にすることはできなかった言葉の数々。
「あんたが好きだよ、エリン」
 代わりにいつもそう言った。エリンは鼻で笑い、照れたようにそっぽを向き、時には真摯な目をして微笑んだ。だから全部見抜かれているな、と思う。
「なぁ、エリン」
 アリルカからの物資を売り、別の物を仕入れる隊商の護衛の際だったか。ライソンは言ったことがある。
「落ち着いたらさ、またあの砦に行かねぇ?」
 それだけでエリンにはわかるだろう。フィンレイが死んだあの砦だと。当然のよう嫌な顔をした。
「嫌がらせじゃねぇっての。たまには墓参りの気分で行けよって言ってんだ」
「彼氏が前の男の墓参りをさせんな」
「いいだろ。愛されてるって知ってるから言えんだ。俺の余裕ってやつ?」
「言ってろ」
 すげなく扱われても、いつかエリンと共に行くことになるだろうとライソンは疑っていない。エリンがなにを考えたのかまで、ライソンはわかっている。
 フィンレイが死んだよう、ライソンもエリンを残して逝く。それをいまから考えておいてほしい、ライソンがそう望んだのだとエリンは気づいている。気づかれていることに、ライソンは気づいている。
 だから、それ以上は言わない。それで充分、あとはエリンの判断に任せるつもりだった。
「――まだ、若いだろうがよ、お前は」
 ぽつりと呟いたエリンの言葉にライソンは聞こえないふりをした。若くはない、とは言えなかった、とても。
 魔術師、それも力のある魔術師とはそう言うものだとエリンは言うが、彼は変わらなかった。出逢ったころのまま、青春の盛りにいる。だが自分は。
 時折ライソンは自宅の鏡に自分の顔を映してみる。エリンが作り、定期的に手入れをしている水鏡だった。金属の薄い板の上に薄く水が張ってある。おかげで素晴らしくよく映る。
「老けたなぁ」
 砂色の髪に一本、白いものが混じっていたのまで見えてしまってライソンは苦笑する。白髪が生えるような年ではまだない、とは言い切れない。エリンが気づかないうちに、とそっと抜いた。
「なにやってんだ?」
「おう、帰ってきたか」
「早すぎて嫌味だってか? 知らねぇよ、そんなこと」
「言ってねぇっての。で、なんだって、ヘッジさん?」
 抜いた白髪をそっと隠して捨てればエリンの敏い目がなにも見なかったふりをした。小さく苦笑してライソンは疲れて帰ってきたエリンに茶を淹れてやる。
 去年、ようやくカレンは自立した。と言っても隣家に越しただけのことだったが、やっと自分の家を構える気にはなった。そのぶん、家事は二人で担当するようになってしまって、これが意外と面白かった。
「アリルカ完勝。ぐうの音も出ねぇってよ」
 戦争ではない。それはすでに終結している。その後の休戦協定のことだった。ヘッジがそう言うのだから、二王国側はずいぶんと引く羽目になったことだろう。
「イメルからの連絡じゃ、リオン師とうちの師匠でアリルカに結界張ったみてぇだな」
「結界? なんだ、そりゃ」
「アリルカに害なすものが入れねぇって強力なやつらしいぜ。イメルが興奮してた」
 その言葉にライソンは眉を顰める。あまりにも便利すぎる魔法のような気がした。悪いというのではない。だが不自然だとは思った。
「お前、ほんといい勘してるわ。あれか、俺と暮らしてるせいかな」
「かもな。なんか変じゃねぇか、その魔法。そんな便利なもんがあるんだったらなんで他は使わねぇの?」
 害なすもの、とは人間だけではない。この世界には魔族や異形がいまだあふれている。村から街まで、あらゆる集落はその対策を怠ることはできないというのに。
「――便利じゃねぇからだ。イメルはきゃっきゃと喜んでたがな。……これは、俺の想像でしかねぇ。確認が取れることじゃねぇから滅多なことは言えねぇけど」
 一度言葉を切りそれでもいいか、とエリンは目顔で尋ねる。ライソンに否やはなかった。
「――たぶん、なんか媒体を使ってはいるんだと思う。イメルが言ってた真の銀の杖ってのがそうかもしれねぇ。儀式の話を聞く限り、魔力はうちの師匠が供給したらしい」
「だったらリオンさんは?」
「……リオン師は、あれでも神官なんだ。だから、鍵語魔法と、神聖魔法の融合って考えるのが理に適ってる」
「つまり、リオンさんは祈りを捧げたってことか?」
「祈りの別名を生命とも言うがな」
「な……!」
 ぞっとした。エリンが言うことだ、推測であろうともそう間違ってはいない。おそらくエリンはリオンの弟子でありその後継者でもあるオーランドと話をしている。その上で導いた解答がそれならば。
「リオン師は、アリルカの守護のために自分の生命を捧げたんだ、たぶんな」
「……なんて人だ。なんでそんなこと。氷帝が」
「うん?」
「……リオンさんは、氷帝に残された最後のダチだろ。なんのかんの言いながら、やっぱダチだろ。――残して、逝くのかよ」
 ライソンは自らを思う。やはりエリンを残していかざるを得ない己を。エリンは無言で笑う。その目は遠くを見つつ。
「そんなにすぐ死にゃしねぇよ。二人とも、覚悟の上だ。――それだけ、師匠はアリルカを守りてぇ。いや、違うか。なんかなぁ……あの国、多種族の国だろ? すげぇ、タイラント師が喜びそう」
 だからフェリクスは守りたいのだろう、弟子のエリンはそう思う。エリンの伴侶は、だから痛ましいと思う。過ぎたことだとは決して思わない。それでも、タイラントの欠片だけを手に、愛弟子すら遠ざけて生きるフェリクスが、哀しかった。
 そして戦争終結から、平穏と発展の二十年。イーサウは大陸に欠かせない商業都市国家となった。二王国は少しばかり息を潜めた。その二十年。ライソンも髪の白いものを隠しきれなくなった二十年。
 エリンとライソンはイーサウにて、リオンの死を聞いた。




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