話を終えたエリンは黙ったままわずかにうつむいていた。同じく無言のライソンが彼の隣へと体を移し、手の傷に薬を塗ってやっているのを、エラルダもまた黙って見ていた。 どれほど凄まじい痛みか、と思う。体の傷ではない、エリンが負った心の傷を思う。そのぶん、フェリクスが案じられてならなかった。 「……フェリクスは」 大丈夫なのだろうか。尋ねようとしてなんと言う無駄な問いかと思う。大丈夫なはずはない。彼はあのタイラントを失った。 「とりあえず、生きてるのは知ってるんだがな」 苦笑するエリンに申し訳ない、とエラルダは頭を下げて見せた。それにライソンが驚き、ついで破顔する。素晴らしい笑みだった。 「とりあえず生きてはいる? あなたはどこに彼がいるか、ご存じなのでしょう?」 「知ってるよ」 「だったら、なぜ……」 せめて弟子の彼が側で支えることはできるのではないだろうか。なぜ、エリンはそれをしない。訝しげなエラルダにエリンは苦笑する。 「――師匠は、俺がどう動くか知ってるよ。知ってるってわけじゃねぇな。わかってるっつーべきかな。言ってみりゃ、俺は師匠の手足だ。怒り狂おうが嘆き悲しもうが師匠は手足の動かし方まで忘れやしねぇ」 「ですが――。あなたが側にいれば。事情も知らない者の戯言かもしれませんけれど」 控えめなエラルダの言にエリンがふと微笑んだ。他者が他者をこうして気遣うことができる世の中ならば、こんなに乱れはしなかっただろうに。そんな詮無いことを思ってしまう。 「なぁ、エラルダ。俺は何者だ? 俺はな、師匠にとっちゃ、幸福の象徴みてぇなもんなんだ。昔々あるところに幸福な一対がいました。二人とも男性でしたが、彼らには大切な一人息子がおりましたってやつだ」 ちらりと笑いながらエリンは言う。言えば言うだけ、エリンの痛みが伝わってくるようでエラルダはやりきれなくなってしまう。人間は好きではない。信用もできない。けれど考えを改めるべきなのだろうか。不意にそう思う。 「そんな俺をいまの師匠が見たらどう感じる? 師匠はタイラント師を殺された、目の前で殺された。あんただったら、感覚としてわかるんじゃねぇかな? 師匠は、自分の魂を生きたまんま引き裂かれたようなもんだ」 す、とエリンの手が自らの胸元を押さえた。まるでそこが痛みでもするかのように。ライソンの懸念の眼差しに、目顔で平気だと答えるエリン。けれどライソンは渋い顔をしていた。 「あなたはなぜ、それがわかるのです? 私はあなたの言うとおり、半エルフだ。感覚として、理解はできる。けれど――」 「人間の俺にどうしてって? そりゃ、俺が師匠の弟子だからだ。詳細は俺の恥だからな、省かせてもらうけどよ、俺はある意味ではタイラント師より師匠の心の奥を知ってんだ」 ついと目をそらしたエリンだったが、そのときにはエラルダもまた目をそらしていた。ライソンがそんな半エルフを興味深げに見ている。人間ではない。そこにある人外の美。けれど羞恥を覚えたらしい彼は、人生経験の少ない、頼りない青年に見えた。感じ方一つだ、そう思う。捉え方一つで世界はどうにでもなる。けれどライソンは現実を知ってもいる。一人一人は考え方を変えられたとしても、大衆は変わらない。国や種族の差異というものはおそらく永遠に埋まらない。だからこそ、ここにあるものが奇跡のようで胸の奥が痛くなる。 「だから、俺は師匠の側にはいかれねぇ。あっちこっちで手ぇ打って、師匠の助けになるしか方法がねぇ。エラルダ、うちの師匠を助けてくれ。頼む」 真摯な眼差しにエラルダは撃ち抜かれた。もしもここにいるエリンが同族であったのならば、一も二もなく彼の要請を受け入れただろう。けれど人間であるエリン。 「――私個人はあなたの言葉を受け入れる気持ちがないわけではありません。ですが」 「あぁ、あんたにも仲間がいるからな。わかってる。すぐにどうこうって話じゃねぇ。師匠はリィ・サイファの塔だ。安全ではあるからな、あそこにいりゃ。だからな、エラルダ。あんたの集落で、話をしてみてくれないか」 「二つに割れるとは思います。でも……もしかしたら、あなたの要請に従えるかもしれない」 「それは?」 エラルダが話したのはほんの少し前の事件だった。ラクルーサとミルテシアの国境大河で起きた闇エルフの子の惨殺事件。嬲り殺しになった子供は、エラルダにとっては仲間の子。話が進むにつれ、二人の人間が夜目にも明らかに青ざめて行った。 「我々も、もう我慢ができない、する必要はない、そう思ってもいるのです。フェリクスは、その切っ掛けになるかもしれない。ただ――」 「利用するみてぇで気が咎めるってか? 気にしなくっていいぜ、その辺は。できりゃあんたらが巻き込まれてくれるほうがありがてぇんだ、こっちは」 「気にしますよ、当然」 「いいや。気にしてくれるな、エラルダ。正直、気が咎めてるのは俺だ。あんたらを巻き込んで、最悪の場合、戦場に引きずり出すことになる。それも、師匠に人間を全滅させないためだけにな」 言葉を切ったエリンの手を、ライソンが握っていた。ただ黙ってそうしているだけで、どれほどエリンは力をもらっているのだろうとエラルダは思う。本当ならば目にするだけで恥ずかしいものであるのに、不思議と美しく見えた。 「どう言うことだよ、エリン?」 話し続けさせるためだけの言葉だと、エラルダにすらわかった。エリンは苦笑してぼんやりしかけた自分を叱咤するよう頭を振る。 「いまな、師匠。怒り狂ってるぜ。俗によ、悲しみのあまり狂気に陥るとかって言うだろ。マジでそれだ。いまの師匠だったら、ラクルーサの人間もミルテシアの人間も区別なんかつくもんか。当然だよな。タイラント師を殺したのは人間なんだからよ。誰がどうのなんか関係ねぇやな。人間だってだけでいまの師匠には仇だ。全部ぶっ殺して、それもできるだけ残酷にぶっ殺して、最後に自分を殺しかねねぇ」 「エリン!」 「やりかねねぇんだよ、あの馬鹿親父はよ」 溜息が、エラルダには悲哀に聞こえた。側に行くことができたならば、いくらでも支えよう。けれど側に行くことがかなわない。遠くから、大勢の他人を巻き込んで、エリンが望むのはただ一つ。 「俺は……師匠を死なせたくねぇ」 ライソンに握られていない片手が、自らの顔を覆った。隠しきれないその表情からエラルダは丁重に目をそらす。 「本当は、死んだ方が師匠は楽だ。んなこたぁわかってる。それでも生きてんだからよ、生きててほしいじゃねぇか」 自分の我が儘で、他人をこれほど巻き込む。ここにいるのは、そんなどうしようもない人間だ。エリンは真っ直ぐとエラルダを見た。それでも協力してくれるのか、と。 「あなたは、それでも止めようとしている。そんな気がします」 「……さすが長生きって言うべきかな? いい目をしてるぜ、あんた。俺は師匠から、うちの連中を託された。星花宮の魔導師の大半はいま、イーサウにいる」 「そう、なんですか?」 「あぁ、脱出してきたのがな。だから、俺はあいつらの命に責任がある。師匠が殺戮してまわったりして見ろ。迫害されんのはあいつらだ」 「だから、止めようとしている?」 「止めて止まるもんでもねぇからよ、被害を最小限に抑えてぇってところだな、精々。師匠が王国の人間を全滅させるってんなら、体張って止めるのが弟子の役目ってもんだ」 からりとエリンが笑った。それでも笑えるエリンを、エラルダは強いと思う。これが人間の、善き強さかと思う。決して粗暴で凶暴なだけではない人間がこの世界にはいる。たぶん、いる。エリンは、その一人なのかもしれない。あるいは、もしかしたら。 「俺は、イーサウも巻き込むつもりでいる。あっちはあっちで色々あるからな、表立って師匠の支援はできねぇとは思う。それでも裏で目一杯動かすぜ。イーサウが動かないんなら、俺とうちの連中が動く」 「それから、俺らもな」 「おい」 「最悪の場合、狼隊はまた暁の狼に戻る。俺はあんたの手足になるつもりだぜ、エリン。置いて行ったりしたらただじゃおかねぇからな」 今のいままで黙っていたことをライソンはこの場で言う。すでに出発前に狼の主立った者には通達してある。どこまでも、エリンにつくと。 「……馬鹿か、お前は。せっかくのいい仕事じゃねぇか」 「なに言ってんだ? 俺らは元々傭兵だ。戦争屋が安楽な仕事にぬくぬくしてるってなぁどうかと思うぜ?」 エラルダは一瞬眉を顰めかけた。暴虐で粗雑な人間の言葉に聞こえかけた。だが違う。ライソンの言葉は、決定的に何かが違う。それが何、とわかればもしかしたら人間を信頼することができるのかもしれない、そんなことを不意に思った。 「エリナード? もしかしたら、その彼が……」 聞いてはいけないことかもしれないけど。そう言い添えたエラルダにエリンが微笑む。ちらりとライソンを見やってもう一度笑った。内心で切なさを抑えつつ。半エルフのエラルダが、忘却をするはずはない。だがエラルダはライソンがわからなかった。イーサウ独立戦争時に、エラルダはライソンを見ているというのに。わからなかった理由はただ一つ。時間。人間のライソンは、風貌が変わっていた。あの日の若き傭兵ではなく。 「あぁ、あのとき守ってやったガキだぜ。いまじゃいい年のおっさんになった」 「エリン、そりゃねぇだろ!?」 「どう見ても俺より年上になったよな、ライソン?」 くつくつと笑うエリン。笑ってみせているだけで、否、笑っていること自体は真実。それでも彼の心の芯に痛みがある。おそらくは消えない、消すつもりもない師を思う痛みが。それをエラルダは見て取っていた。 「イーサウ独立戦の時、私もあの場にいました。あなたはあちらに?」 「あぁ、俺は狼の傭兵だからな。エリンの魔法でこてんぱんにやられた」 「守ってやったんだってーの」 「はいはい、守られましたそうでした」 笑い話にできるくらいの時間が人間の間では流れているのだとエラルダは気づく。ほんの少し前の話であるのに。つい昨日、イーサウの外壁の上に立ったような気がしているのに。だからこそ、今ここで手を差し伸べる。エラルダの心が不意に決まった。 「エリナード。仲間を説得してみます。どうにもならなかったら、私個人がフェリクスに手を貸します。それまでは仲間も止めないから。あなたの求める助けにはなり得ないだろうけれど」 「無茶はやめてくれ。どうにもならなかったらそれでいいんだ。それこそな、最悪の時にゃ俺がマジで体張るしかねぇんだ」 その命でフェリクスを止めて見せる。人間の、儚い人間の命を持つエリンが明日の天気でも話すように口にした。エラルダは、だからこそ心に決める。 「私にできる限り、最善を尽くします」 三月の後、エリンはイーサウである情報を受け取る。氷帝が半エルフの集落に入った、と。 |