ぱちぱちと焚火のはぜる音がしていた。イーサウから東に数日。遥か昔の三王国時代には、シャルマークの王都へと続く大街道だった道から少しばかり東にずれたあたりにエリンとライソンは夜営していた。 あれからすぐに出立した。自分一人で行く、と言うエリンをライソンがなんとか思いとどまらせ、カレンに旅支度を頼む。その間にも体力と気力のある吟遊詩人たちが発っていく。 ヘッジはすでに議会を招集していることだろう。ラクルーサ王による世界の歌い手タイラント・カルミナムンディの暗殺。それをイーサウはどのような立場で乗り越えるのか。エリンとしては自分たちにより良い選択をしてほしいと願うのみ。 「大丈夫かね、あいつは」 小さな溜息のような呟きに、焚火を挟んだ向こう側のライソンが小さく微笑む。イーサウを発ってから何度その台詞を聞いたことだろう。エリンが留守の間、イーサウの魔術師たちはミスティの指示を仰ぐことになる。火系の魔術師としては随一の腕を持っているミスティだ。上に立つことができないわけでもない。ただ、エリンは不安なだけだ。 「大丈夫だろ。ミスティとあんたが合わねぇだけだろうが」 「まーな。元々水系と火系は相性悪いからよ」 「でもあんまり火系って風にも見えねぇな?」 「だから不安なんだってーの」 カロルの弟子の中でミスティは抜きんでている。もしも氷帝フェリクスが師であるカロルの名を継がなかったならば、ミスティが間違いなく彼の後継者となっていたと衆人から目されるほど、彼の魔術師としての技量は凄まじい。 「でもなぁ。こう……あいつはどうも影に隠れたいっつーか。表に立つのが苦手なんだよな。火系にしちゃ珍しく控えめだしよ」 そのあたりを侮られることがなければいいのだが、とエリンは不安だ。あれでミスティも腹をくくればいかにも火系、と言いたくなるほど突っ走るのだが。 「とりあえず、人間できることとできねぇことがある。なんとか各自が全力を尽くすしかねぇだろ。あんたはできることをやってる。この会見は、あんたにしかできねぇ。だろ?」 「……まぁな。それでも」 ぼんやりとエリンは夜空を見上げる。煌めく星屑がまるで降るよう。手を伸ばせば光の粉に我が手が輝くのではないか、そんな風にも思いたくなるほど。それなのに。 「――俺は、恩で縛って、関係ない野郎を戦争に叩きこもうとしてんだぜ?」 最低だと思う。けれど打つ手がない。どうにもならない。自分一人では、イーサウだけではどうにもならない。魔術師がいくら束になっても、たぶんどうにもならない。 対ラクルーサ戦を考えたとき、星花宮の魔導師の全勢力を挙げればラクルーサに勝つこと自体は容易だ。魔術師を放逐したラクルーサは、また魔法からの加護も失った。 ましてその場合、星花宮の魔導師を率いるのは自分だろう。ならばそこにフェリクスとリオンが乗らないはずはない。彼らがいれば、彼ら二人で充分ラクルーサなど滅ぼせてしまう。 だからこそ、できない。エリンは思う。イーサウでこの十五年、過ごしてきた。元々商人の町であったイーサウはずいぶんと魔術師に対する偏見が少ない。とても住みやすい街だった。そのぶん、他の国がどれほど酷いことになっているか、肌でエリンは感じている。 その状況で魔術師の一団が一国を滅ぼしたりすれば、魔術師対常人の全面戦争になってしまう。この世界を荒廃させ、勝ってなんになる。魔術師は恐れられたいわけではない。権力など欲しくもない。ただ静かに研究をして暮らしていきたいだけだ。 「だからな、俺たちと師匠たちでラクルーサに乗り込むことだけは、できねぇ。常人のイーサウが噛む、他の勢力を噛ませる。これが絶対に必要だ」 「それが、エラルダって人か? 昔、イーサウで会ったよな、あの人だろ?」 「おうよ。俺も顔合わせた程度しか知らねぇけどな。もしかしたら、噛んでくれるかもしれねぇ。最悪、師匠に手を貸してくれるかもしれねぇ。どうにもならねぇ場合は、師匠を保護してくれるだけで充分だ」 「いま氷帝たちは、どこにいるんだ? あんたは見当ついてんだろ」 「ついてるよ。塔にいるんだろ。他に行き場なんかねぇよ」 それはそれで哀しい話だ、とライソンは聞く。長くラクルーサに仕えてきたフェリクスはいま、何を思っているのだろう。膝を折り、敬ってきた王に裏切られた彼の思いなどライソンにはわからない。わかってはいけないのだと弁えてもいた。 「本音で言えばな、ライソン。半エルフを巻き込んで、大陸全土の戦闘にしちまいてぇ。そうすりゃ、魔術師対常人の戦争じゃなくなるからな。ただでさえ色々ややこしいことになってんだ、魔術師の扱いはよ。これで迫害が決定的になった、なんてことになったら俺は歴代の師匠たちに顔向けできねぇ」 エリンの目はもしかしたらいまリィ・サイファの塔を見ているのかもしれないとライソンは思う。この大陸の魔法は、リィ・ウォーロックと言う一人の人間から始まった、とエリンは言う。その愛弟子がリィ・サイファ。塔を建てたのはその半エルフ。そして友人であったサリム・メロールが塔を引き継ぐ。彼はラクルーサに仕えた最初の半エルフ。そしてサリム・メロールからメロール・カロリナへ、メロール・カロリナからカロリナ・フェリクスへ。脈々と続いてきた魔術師たちの歴史。考えるだけでライソンはくらりと眩暈を感じた。 「ただ、それだけの理由で半エルフを巻き込む。利己的だ? 結構。俺は卑俗でくだらねぇ人間だ。自分勝手? そのとおり。返す言葉もねぇな。好きに言えばいい。俺は――師匠を死なせねぇ」 エリンの目がライソンに戻る。こんな自分を許すのか、まるでそう問うかのように。ライソンはただ黙って笑みを浮かべていた。 「おい」 「あのな、エリン。俺はこれでもあんたを知ってるつもりだ。あんたは、氷帝に命を助けられた。氷帝は命がけであんたを救った。ただあんたを死なせたくねぇだけで、自分の命をかけた。そうだよな? だったらあんたが氷帝を死なせたくねぇのは当然だろうがよ」 「師匠がかけたのはてめぇの命だ。俺は他人の命を賭場に出してんだ」 「だからなんだ? 本人合意なら何の問題もねぇよ。俺は傭兵だぜ、エリン? 契約に則って、他人のために縁もゆかりもねぇ相手と戦って死んでも文句が言えねぇ商売してたんだ」 「……そう言う問題か?」 「そう言う問題だってことにしとけ。あんたが悩みがちなことは知ってるけどよ、まずはそのエラルダって人がどこまで乗ってくれるかわかんなきゃ話にならねぇだろうが」 からりと笑ってライソンは焚火に枯れ木を足した。ぽっと火の粉が上がる。美しいそれに照らされて、それでもエリンの顔は晴れなかった。 「本当は、誰も巻き込みたくねぇんだよ」 ぽつりと呟いたエリンの声。自分一人で、あるいは師と二人で何もかもができたならば。そんなことはできようはずもないとわかる程度に世間を知る自分が疎ましい。ふ、とエリンが目を上げた。 「巻き込まれる、とは思っていません」 闇から影が剥がれ、人の形になる。驚いたのだろうライソンが自分でも気づかぬうちに剣の柄を握っていた。 「ライソン!」 エリンにたしなめられ、ようやくそれに気づくありさま。すまない、と訪問者に目顔で言えば硬い笑みが返ってきた。 「久しぶりだな、と言うべきかな。エラルダ?」 「我々にとってはそれほどでも。ですが人間のあなたにとっては長い時間が経ったことでしょう」 「それなりにね」 座ってくれ、とエリンはエラルダに言う。無造作なのに優雅な挙措でその半エルフは彼らと同じ焚火を囲んだ。エリンがライソンを紹介すれば半エルフが彼を向いて軽く目礼をして微笑む。 ライソンは息を飲む。火明かりに照らされた半エルフの美というものをはじめて目にした。思わずエリンと見比べてしまう。そしてほっと息をつく。 「なんだよ?」 「いや、半エルフってのはなんとも言えねぇ美形なんだけどよ。あんたのほうが俺にゃ美人に見えるなと思ってほっとした」 「……お前なぁ。状況がわかってんのかよ?」 溜息をつくエリンに、けれどエラルダが小さな笑い声を上げた。それすらも天の星屑が重なり合って響いたかの声。ライソンは知らず身を震わせる。美しいというのは凶器にもなり得るのだと知った。 「申し訳ない。あなたのような人間が、私は嫌いではない。――人間は、根本的に信用に値しない種族、と思ってはいますが」 申し訳なさそうに、それでも嘘をつくよりずっといいだろうとばかりエラルダが言う。ライソンはふ、と笑みを浮かべた。 「わかるよ。俺も人間は信用できねぇと思ってる。信用すると痛い目に合うからな。ただ……」 「信用できる人間ってのがいないわけでもねぇってのが難しいところでな」 ライソンとエリンの言葉にエラルダの目が丸くなる。エラルダにとってはほんの少し前に共に戦ったエリンだった。あれ以来、人間の時間ではずいぶん経っているはず。人間の変わりやすさを知る半エルフは、エリンもまた当時とは変わってしまったことだろうと覚悟をしていた。 「裏切られた、と言うべきでしょうか」 「うん?」 「あなたは変わりませんね、エリナード」 「そうか? まぁ、普通の人間じゃねぇからな、俺も。魔術師は外見が変わりにくいもんだ」 「違います。あなたの心が変わらない。私は、それを知っただけで少し、人間を見直しました」 実は彼らのことは陽のあるうちから観察していたエラルダだった。二人のかわす言葉をずっと聞いていた。ためらいと戸惑いと、自分がするだろう行為が起こす災厄に恐怖するエリンを見ていた。それでもそこにあったのは、愛だった。 「見直してくれたのにつけ込むようだけどよ、エラルダ。うちの師匠に手ぇ貸してくれ」 「たとえばどんな?」 エラルダはすでにエリンがどんな要求をするかわかっている。それでも問うたのは、やはり人間を信頼できないから。二人きりで話すときと、半エルフを前に話す言葉は違うだろう、そう思う。 「タイラント師がどうなったかは、知ってるか?」 「いえ?」 「……殺されたんだ、ラクルーサ王の手の者に」 「――え?」 二人の間ではもう自明の話だったのだろう、エラルダは本当に初耳だった。驚愕が、言葉にならない。そして同時に納得した。だからこそエリンはこれほどのことをしようとしているのかと。 淡々と語られる話の間、エラルダはエリンをじっと見ていた。時折ライソンの懸念の眼差しがエリンに注がれる。はっと気づいたとき、冷静そのもののエリンの拳に血が滲んでいた。 |