エリンはぐっと拳を握る。今からの自分に、今後のすべてがかかっている。そんな気がした。後悔はいくらでもある。喚いて当り散らしたい思いもいくらでもある。だが。辺りを見回すまでもなくその場には大勢の魔術師たち。
「――イメル。お前は吟遊詩人でもある。特権があるな? 各国まわれ。ラクルーサの辺境辺りが特に危ねぇ。うちの系列の魔術師に、危険を知らせてやれ」
 こくりとイメルがうなずく。それでも不満そうだった。けれど代わって口を開いたのはイメルではない魔術師。
「なぜそんな危険なことをしなきゃならない? 辺境にわざわざラクルーサ王が兵を出すとでも。それに――」
「吟遊詩人特権があるとは言っても……危ないじゃないか」
「魔術師を討伐したい王なら、吟遊詩人特権を守るとは思えないし」
「危険を知らせたいなら、あなたがすればいいんだ」
 ざわざわと執務室の中がざわめく。かっとしたカレンが一歩を踏み出しかけ、そっとコグサの手に止められた。訝しげに彼を見れば黙って顎でエリンを示される。ぞっとするほど静かな顔をしていた。
「――かつての同僚を、我が領域に保護するのに吝かではない。ただし。逃げまどい怯えるばかりの愚か者を匿う謂れはない」
 怒鳴るのではない。声を荒らげることすらしない。淡々と、常の口の悪さがどこに行ってしまったのかと目を疑うようなエリンの言葉。
「この身はフェリクス・エリナード。星花宮を追放されたとはいえ我が師の名を負う。星花宮の魔導師に問う。いつから星花宮は愚者の集団に成り果てたか」
 青白いほどの頬。涼やかな声。目だけが爛々とかつての同僚を見据えていた。息を飲み、うつむく魔術師の中、一人が立ち直る。
「俺は働くよ。だって、俺は星花宮の魔導師だ。ラクルーサの魔術師じゃない、星花宮の魔導師だ。四魔導師に育てられた、彼らの弟子だ。その名を辱めることはしない。絶対にしない!」
 進み出たのはイメル。その彼を周囲の魔術師たちが見ていた。目をそらすもの、まじまじと凝視しているもの、それぞれの姿をカレンは観察する。
「……あいつが本気で怒る時ってのは、どうしてあれかね? 普段からまともになれるんだったらやれってーの」
 コグサの軽口にカレンの口許が小さくほころぶ。ライソンもまた目だけで笑ってみせた。そして片手を軽く上げる。
「魔術師っつーか、吟遊詩人に――」
「護衛をつけてぇところだけどよ。お前らがいねぇとこっちの手が足りねぇんだ」
「それにライソン、君らの手は借りられない。護衛付きの吟遊詩人じゃ目立って仕方ない。興味は引きたくないからね、かえって危ないし」
 エリンとイメルにたしなめられてライソンは退く。だがそう言ってくれたことそのものは嬉しいのだ、とイメルが微笑んで見せた。
「イメル。言いたいことがありゃいまのうちに言っとけ。なにが不満だ?」
「……君の目の鋭さを忘れてたわけじゃないんだけどね。――師の手伝いがしたいよ、俺は。正直、辺境にいる系統の魔術師のことなんかかまってられないくらい。各自の才覚でなんとかしろって言いたい」
「そんな才覚なんてものがありゃ星花宮に残ってるっつーの。宮廷生活に向かねぇから外の世界にいるんだろうが、その辺考えろ。技術や魔力に劣るからじゃねぇ、要は性格だ、向き不向きだ」
 大雑把なエリンの言葉に魔術師たちがわずかに不快そうな顔をする。自分たちの魔術師としての技量に誇りを持つからこそ、不快にも思うのだろうとカレンは思う。
「お前な、タイラント師にだ。同僚の弟子だけど辺境にいるんで見捨てましたって言えんのか、え? 堂々と言えるんだったら俺はもう言わねぇ。どうなんだよ、イメル」
 怒ってはいないエリンの、それでも静かな問いだった。はっとしたようイメルが姿勢を正す。エリンの言うとおりだった。
「……ごめん。頭に血が上ってる」
「当たり前だ。あのな、イメル。俺はお前がどんだけつらいかわかってやれねぇ。とりあえずうちの師匠はぶち切れながらでも生きてるからよ。でもな、経験談として言わせてもらう。とりあえず動け、何はともあれ働け。多少はマシだ」
 そっとエリンは誰からも目をそらした。誰も見ない顔をして、ただライソンの心だけを窺っていた。無言で伸びてきた指先が軽く手に触れ、そして離れる。それでよかった。
「わかった、そうする。みんなも、いいよな?」
 風系の魔術師で吟遊詩人の技術を持つものが一人、また一人とうなずいて行く。イメルはこれでも彼らに信頼を寄せられているらしい。
「おうよ。連絡の過程で、情報を集めてくれ。ラクルーサがどうなってるか、ミルテシアは関与する気があるのかどうか、俺はそれが知りたい」
 わかった、とうなずくイメルたちの向こうからヘッジが手を上げた。厳しい顔つきに魔術師たちがぎくりとする。
「ラクルーサと、全面戦争をするつもりかね」
 言葉と態度で、彼がイーサウの主立った者なのだと悟らない魔術師たちではなかった。君主制ではないイーサウだ、彼一人が絶対の権力を持つわけではなかったけれど、それでもヘッジには威があった。
「いいえ、ヘッジさん。――俺はこいつらの命を託された。うちの師匠たちにね」
 渋い顔をして当面は腰も据わりそうもない魔術師たちをエリンは見やる。一気に学校の生徒が増えた気分だ。
「だから、正面切っては戦えねぇ」
 それでも。言いかけたエリンが黙る。同時にヘッジがエリンを制するよう手を上げ、すでに言葉を切っていることに気づいては苦笑する。
「それ以上は聞かない方がいいだろう。我々にも立場がある。イーサウが、そして君たちが、どのような態度を取るにせよ、聞いてしまえば黙認はしがたいのでね」
「――ありがてぇ。感謝しますよ、ヘッジさん。とりあえずは俺が勝手に動きます。情報は漏らしますんでその辺よろしく」
 わかった、と苦笑しつつヘッジは退席しようとした。それをエリンが慌てて止める。まだ聞きたいことがあった。
「雑談なんですけどね、ヘッジさん?」
「なにかね?」
「半エルフのエラルダと、知り合いでしたよね? 連絡、取る方法がありゃ教えてもらえますかね」
 もしも教えていいものならば。エリンは言い添えてヘッジを見つめる。それにヘッジは不思議と綺麗に微笑した。エリンとて連絡法を知らないわけはない。だからこれは漏らすべき最初の情報の一つ。
「かまわないよ」
 そして半エルフの暮らす地と連絡方法をエリンに伝える。一切、事情は尋ねずに。エラルダになんの用があるのか、ヘッジは気になっていることだろう。それでも彼はそうした。その態度の見事さにライソンが背筋を伸ばす。
「ヘッジさん、狼隊はあんたを信頼してる」
「わかっているよ、ありがとう。光栄だ」
「なんかあったら言ってくれ。言われなくても勝手に動いちまいそうだけどよ」
「それは勘弁してくれ。私は専制君主ではないのだからな」
 にやりと笑いヘッジは今度こそ退席した。誰からともなくほっと息をつく。そして今度はコグサとライソンが気になるのだろう、ちらちらと彼らを見ている。
「一応、紹介しとくか? さっきのはヘッジ・サマルガード氏。イーサウ自由都市連盟の議長だ」
「それ紹介って言うのかよ、エリン」
「本人がいるところで言うと色々まずいんだよ。あの人は俺らの会話はまだ知らねぇことになってんだからよ」
「それは……そう、なのかな? イーサウも色々あるんだね」
 あるに決まっている、とイメルを切って捨てる。それに誰かが小さく笑い声を上げた。少しだけ、安堵したらしい。ここは安全だと理解したのだろう。
「で。こいつがコグサ。暁の狼の初代隊長。そっちがライソン。二代目隊長。いまはイーサウ自警団の一部だがな」
「だったら……」
「いまなんか言いかけたの誰だ? 別に誰でもいいんだけどよ。こんなこと言うと体中がかゆくなりそうで嫌なんだがな。コグサとライソンは完全に俺個人の味方だ。イーサウに楯突いても俺につく」
 言いながらエリンはそっぽを向いていた。呆れてカレンがコグサを見れば、こちらもあらぬ方を見ている。溜息をつくカレンを大きな声でライソンが笑った。
「時々あんたを疑うべきか隊長に妬くべきか俺は悩むぜ?」
「やめろ。前にも言ったよな、ライソン? 世界中で一番寝たくねぇ男はうちの師匠だ。二番目はコグサだ!」
「……この状況でそれが言えるお前の神経ってもんが俺はどうかと思うがな。俺こそ願い下げだっての。なにが悲しくて野郎に手ぇ出さなきゃならねぇんだ」
「隊長? そりゃ、俺に喧嘩売ってますかね?」
「人の趣味はそれぞれだな、ライソン」
 にこりとコグサが笑い、ライソンの戯れの拳を掌で受ける。ぷっと吹き出してしまったのはカレン。まだ日常の続きのような気がしてしまった。
 昨日と同じ今日が、今日と同じ明日が続くのだと思いたくなる。子供たちの笑い声、悪戯をする声、泣いたり遊んだり。その中で魔法を覚えて進んでいく彼らの姿。昨日も今日も明日も続いて行くと疑わなかったものが。
「なぁ、お嬢。現実って怖いよな? あると思っていたもんがすぐなくなっちまうんだぜ。絶対にこれだけは同じって思ってたもんがなくなっちまう。でもな、それが現実なんだ。――そこで止まっちまうか、それでも進むか、それで人間の価値ってもんは決まるんだと、俺は思うぜ」
「ライソンさん……」
「お前なぁ、ライソン。それは師匠の俺が言う台詞だろうが。取るんじゃねぇよ。いいか、カレン。うちの師匠がその師匠からもらったありがてぇ言葉をお前にも教えてやる。――馬鹿が止まんな、とりあえず進め。なぁ、ミスティ? こんな時にぴったりだよな」
「どうしてこっちに振るんだ、お前は。我が師はそんな風には――」
「言ったんだろ?」
「……遺憾ながら」
 小さく溜息をつくミスティを笑ったのは火系の魔術師の誰かだろう。エリンは当然のように全員が顔見知りだろうけれど、カレンはかろうじてミスティに近しい人間がわかる程度だった。
「つーわけだ、お客さん方? 吟遊詩人は体やすめたらとっとと出発してくれ。地系は一応、念のためだ。国境付近の監視を頼む、ここからでいい。水系はイーサウの情報封鎖、火系は風系の残りと協力してイーサウに広域結界張っといてくれ。俺? ――半エルフの里を表敬訪問だ」
 まるで四魔導師がその一身に宿ったかのようなエリンの姿に魔術師たちは直ちに従う。彼らを掌握したエリンは毅然と前だけを見ていた。無理をして、四魔導師のようなふりをして、懸命なエリンのその拳が背中で握られているのをライソンだけが知りつつ。




モドル   ススム   トップへ