三日間、エリンは黙って自宅にいた。カレンが学校にカロルの死とそれに伴う三日の休校を知らせに行った。ライソンとも話さず、エリンはじっと黙っている。なにを考えているのか、わかるようでライソンにはわからなかった。ただ一つ、どれほどいま彼が不安でいるかだけは、伝わる気がする。
「ライソンさん。頼みます」
 カレンが言ったのは、更に三日後のこと。正直に困り果てた、と顔に書いてある。ライソンも実は困っている。否、不安でいる。通常の授業を再開したエリンではあるけれど、三日というもの自宅に帰ってこない。
「エリンがなんかやらかしたか?」
「他に何があるって言うんです? まったく、あのダメ師匠。なに考えてんですかね。必要最低限程度は食べてるみたいですけど、執務室に閉じこもって授業以外じゃ出てこやしないんですよ」
「はい?」
 その状況で授業をしている、という方がライソンには不思議だ。むしろ頭を抱えたくなる。カレンとライソンの溜息が重なった。
「ったく。あの頑固者め。自分の仕事だから全うする、とか思ってんだろうが」
「でしょうね。ほんと、てめぇの体考えろってやつですよ」
「まぁ、お嬢の言い方もどーかと思うがな、俺は」
 男二人の家にごく若いころから住んでいるカレンだ。言動がどうも娘らしくなくて困ったものだった。が、本人はまったく気にしていないし、師であるエリンも気にしていない。となればライソンはたまに苦言を呈するだけで静観するしか他にない。もっとも、娘らしくなかろうともカレンらしくはあると思っているのだからライソンもずいぶんとカレンには甘い自覚はある。
「その辺はまぁ、どうでもいいことで。で、ライソンさん、頼みます。師匠を引きずり出すなりなんなりして、なんとかしてください。学生はいいですけど、私は鬱陶しい」
 酷い言い分だ、とライソンは思いつつ笑ってしまう。これでカレンは真剣にエリンを案じている。それがわからないほど短い付き合いではなかった。ライソンは片手を上げ、家を出て行く。
「って言ったってなぁ。どーしましょ」
 相手は魔術師で、なにを考えているのか本当のところではよくわからない。それでも自分の大事な恋人。思った途端にライソンの頬が赤らむ。自分でそれに気づいてしまったライソンは己の頬を無理やりにこすった。
 学校はすぐそこだ。コグサの兵学校よりまだ近い。ライソンは何の障害もなくそこまでたどり着く。それが、そもそもおかしかった。
 すでに陽は落ちている。普段ならば誰もいない学校は閉鎖されている時間だ。単に鍵をかけてある、という意味ではない。魔術的な閉鎖だった。それが機能せず、学校に入ることができる、それ自体がすでに異常事態。
「ん? 違ぇか。エリンがいるから……か?」
 ライソンにはわからないことだったけれど、カレンならば否定する。エリンがいようとも、すでに陽が落ちると共に発動するように組み立てられた魔法結界だ、機能しないのは異変だ、とカレンならば言う。ライソンはただ異常を感じただけだった、言葉とは裏腹に。
「エリンさーん、いるんだろ」
 それでも無造作に執務室の扉を開けた。エリンだった。ならば自分が恐れることだけはしない。ライソンが彼を愛しはじめたときに自らに課した誓いだった。
「……あぁ、お前か」
 来客用のソファに転がっていた、エリンは。天井を見つめ、なにを考えていたのだろう。窓から射し込む月明かりだけがエリンの頬をわずかに照らす。ひどく青白い、そんな気がした。決して月のせいだけではなく。
 ライソンは黙って立ち止まる。エリンの眼差しが、再び天井へと戻っていく。悩み事が、いまならばわかる気がした。ぞっとして、強いて自らを立て直す。余裕のふりをして、腕を組んでは扉の壁に寄りかかる。
「なぁ、エリン」
 答えはない。それでも聞いていることだけはかろうじて見当がつく。ぼんやりとした目。頭の中は凄まじい勢いで何かを考えているエリンの態度。これだけ長い間一緒に過ごしたのだ、その程度のことはわかる。
「――別れるか」
 ぎょっとしたようエリンの目がこちらを向いた。ライソンは苦笑しつつその場を動いていない。いま何を言ったのだ、と目顔で問うエリンにライソンはもう一度繰り返す、別れるか、と。
「お前……」
「あんた、星花宮に帰りてぇんだろ。氷帝の側に戻りたい。だったら俺と別れるしか、ねぇだろ」
 エリンがラクルーサを追われた直接の原因は、ライソンだ。暁の狼という傭兵隊に所属する兵と親しかったから、追われた。ならば別れれば、エリンに戻れる可能性がないわけではない。
 無論、アレクサンダー王は容易にそれを許しはしまい。嫌と言うほど追及されるはずだ。が、エリンは厭わないだろうとライソンは知っている。あの王に頭を下げ、這いつくばることすら平気でするだろう。フェリクスのためならば。
「馬鹿か、お前は」
「あんたは――」
「あのな、ライソン。俺が師匠んとこに戻ってなんになる? どーにもならねぇよ」
「ならなくっても」
「あぁ、そうだな。本音を言やぁな、せめて側にいてやりてぇよ。こんなこと言うと馬鹿にすんなって叱られそうだけどよ。でも、それが本音だ」
 エリンはまた天井に視線を戻す。まるでそこにフェリクスの影が映っているのだとでも言いたげに。ライソンはそんな彼を見ているしかできなかった。
「でもな、ライソン。俺にゃ、師匠の気持ちってのが嫌ってほどわかっちまう」
「それは?」
「……師匠は、自分個人としてならな、俺に帰ってきてくれ、側にいてくれるだけでいい。それで充分に支えになる。そう思ってる。でもな、星花宮の四魔導師の一人として、それは絶対に言えねぇ」
「あんたが追放されたからだろ。だったら――」
「聞けって」
 苦笑したエリンがようやくライソンをまともに見つめた。視線で自分の側に来い、と呼ぶ。横柄なやりようにライソンも苦笑して彼の横たわるソファの傍らに膝をつく。
「追放がどうのじゃねぇ。正直言って、俺がどうのでもねぇんだよ」
 一瞬、エリンは迷った。それを見逃すライソンではない。そっとエリンの唇に人差し指を当てれば、彼の目が笑う。
「別に言えねぇことじゃねぇよ。言っていいのか迷ったわけでもねぇ。憶測、推測の類だってだけだ。まぁ、ほぼ確実だろうがな」
「いいんなら、聞くぜ。あんたが話したければな」
 ほっとエリンは息をつく。魔術師の寿命は長い。転じて、常人の駆け足の様。ライソンは、出会ったころの若さを脱ぎ捨てて、いまはこんなにいい男になった。彼が憧れ続けているコグサよりずっといい男だとエリンは思う。思える自分になぜか不思議と安堵した。
「ここにいる俺はな、言ってみりゃ氷帝の手駒なんだよ」
「おい、エリン!」
「事実だぜ。ここに氷帝の手下が一人いること。それが師匠の策だ。万が一、星花宮に何かがあった場合のな。――だから、俺はここを離れられねぇ。イーサウで地歩を築かなきゃならねぇ。最悪の場合に師匠がこっちに逃げてこられるようにな」
「そんな……」
「あのときにな、ライソン。俺がイーサウについてたのは、それが理由だ」
 イーサウ独立戦争の時、暁の狼に敗戦の屈辱を与えてまでしたことが、それだとエリンは言う。ライソンは責められなかった。すでに済んだことではあるし、イーサウはラクルーサより居心地がいい。あの日を境に被った数々の不利益を、それで済ませていいはずはない。が、もう十年以上も前の話だった。
「あんたは、氷帝の手駒じゃねぇよ、エリン」
「だから――」
「考えてみな、エリン。氷帝は、ここを避難所にしたかった、だろ? そのためにあんたを選んで派遣した。あってるよな? じゃあ、なんであんただったんだ? 一番弟子だから? 確実だから? まぁ、それも間違ってねぇんだろうよ。でもな、エリン。俺は思う」
 ここでフェリクスの助けとなるべく働かねばならない。理性ではわかっていても悩むのが人間だとライソンは思う。それだけ強い絆がこの師弟の間にはある。羨むより、なぜかしら懐かしいような気持ちになる。
「氷帝は、ここが安全である可能性が一番高いから選んだ。避難所に最適だってな」
「そりゃ、まぁ。商人ってのは利益に敏いもんだからな。魔術師がどうのって、あんまり思わねぇだろ?」
 一般人の間で魔術師は忌避はされないものの敬遠はされるものだ。恐ろしい、わけのわからない力を使うもの、として。エリンはそれを言う。
「だから、イーサウは安全だ。その安全なイーサウに、あんたを派遣した氷帝の気持ちが、俺にはわかる気がする。――氷帝は、あんたの身を守りたかった。安全な場所で、あんたに生き延びてほしかった」
 まじまじとライソンを見つめたまま、エリンは唇を噛みしめる。自分でも察していたことなのだろう。それを魔術師ではないライソンに指摘され、エリンの中で確信に変わる。
「エリン」
 瞬き一つしなかった、エリンは。うっすらとその目に涙が張ったかと思う間もなく零れて行く。それでも視線は動かず。
「あんたはただの手駒なんかじゃねぇんだよ。そんなこと、俺が言わなくってもわかってんだろ、エリン」
「だから――」
「あぁ、だよな。だから、あんたは帰りたい、帰れない。悩むよな。でもな、せめて飯は食え。俺もお嬢も心配する。見えなくったって、遠くったって、氷帝だって心配すんだろ、違うか、エリン?」
 頬に流れる涙をライソンは指でぬぐっていく。荒れた傭兵の指ではずいぶん痛いのではないか、そんな懸念をしてしまうほど薄い肌。エリンはライソンを見つめて黙ってされるままになっていた。ふ、とその唇がほころぶ。
「なんだよ?」
「……いい男になったな、と思って見てた。さすが俺の男。ちょっと惚れ直した」
「ちょっとかよ?」
 ふふん、と鼻で笑うライソンに腕を伸ばそうとしてエリンは首をかしげる。どうにも力が入りにくい。それだけ食事をしていなかったということかと思えば驚いてしまう。
「お嬢は必要最低限は食ってる、なんて言ってたけど、あんた。ほんっとまともに食ってねぇな?」
「食っても吐いてたからなぁ」
 ぼそりと困り顔で言うエリンの頭を、もしも元気ならばライソンは思い切り殴りつけていたことだろう。さすがに自重して溜息で済ませたものの、エリンはやはり困り顔のままだった。




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