夜風になびく銀髪。繊細な、だが男性的な美貌。細身の体はその実鍛え上げられていることをエリンは知っている。タイラント・カルミナムンディ、世界の歌い手。
「お、世界の歌い手だ!」
 久しぶりに会う知人の姿にライソンが嬉しそうに走り出そうとする。だがエリンは動けなかった。なぜかは、わからない。ただ足が動かない。気づかないライソンがエリンの腕を引き、だからこそ動けたようなもの。
「……タイラント師」
 エリンの掠れ声にタイラントが微笑む。儚いようなその笑みにエリンはぞっと身を震わせた。よくないことが起きている。それが嫌と言うほどわかってしまう。
「エリン?」
 ようやく気づいたライソンの訝しげな顔。それにエリンは答えを持たなかった。自分でも予感めいたものでしかない。なにもまだわからない。それでもタイラントが否定をしていない。なにより恐ろしかった。
「遅い時間で悪いけど。招待してもらえるかな、君の家に」
「もちろんです。――すいません、気が利かなくって」
「ううん、たぶん、君も何かを感じてる。だから、仕方ないよ。エリナード」
 タイラントの声がひどく遠かった。まるでラクルーサから響いて来る魔の声。はっとしてエリンは顔を上げる。タイラントが黙って首を振った。ここでは話せない、と解釈し、ぎくしゃくとエリンは二人の家に案内をする。
「……なんだ、お前。帰ってたのかよ」
 てっきり彼女のほうが帰宅は遅いもの、と思っていたはずがカレンがいた。にやりとして紙袋を掲げて戦果を示し、タイラントに気づいたのだろう目が驚いて丸くなる。
「ようこそおいでくださいました、タイラント師」
「お前の家じゃねぇだろうが。ここは俺んち。お前は居候。いい加減に出てけよな、もう兵隊あしらえねぇ年でもねぇだろうがよ」
「若い娘になんてこと言うんですかね、この師匠は」
「うっせぇ、黙れ。カレン、茶。あと――」
 給仕が済んだら部屋に下がっていろ、言いかけたエリンの言葉をタイラントが無言で遮る。エリンはそっと背中で拳を握りしめた。何か問題が起きている、それも星花宮で。カレンの同席を求めたことでそれは確定の事実だと気づく。
「茶ァ淹れたら、お前も座れ」
 師の珍しい真剣な声にカレンがうなずく。ちらりとライソンを見やったけれど彼はなにも知らないのだろう、苦笑していた。
 しばしカレンの茶を静かに飲んでいた。薬草を扱うのだから当然と言えば当然。エリンもカレンも茶を淹れるのが巧い。だがライソンはエリンの茶のほうが好きだった。たぶんただの贔屓目だ。それでもこうしてしみじみと味わえば、ずいぶんカレンも上達したものだと思う。
「タイラント師。もういいでしょう?」
「そうだね――」
 かつり、と茶器を置く音が耳につく。ライソンも今になって緊張を隠せない。エリンは何かに気づいているらしい。けれど傭兵の情報網をもってしても異変はライソンには届いていない。
 そして気づく。相手は魔術師。ライソンの元に情報が届くより先に、彼らは転移して自ら情報を伝えることができる。ならば、異変が起きたのは直前だ。悟ったライソンの背筋が伸びた。
「タイラントさん。俺がいていいんですか。俺は、傭兵だ」
 今ここで得た情報を、自分たちのために活用する組織の長だ。ライソンは言い切る。それにタイラントは力なく微笑んだ。ずいぶんと疲れている、今頃になってようやく見て取れた。
「いいよ、隠すことじゃないから。近々、君の元にも知らせが入ると思うしね。――エリナード、これを」
 そしてタイラントは無造作に懐から取り出したものをエリンに渡した。否、渡そうとした。エリンは受け取ろうとして果たせない。体が固まって動けなかった。
「エリナード」
 再度促され、それでも動けないエリンに代わってタイラントが手の中のものを握らせてくれた。炎のような真紅の紐。それに絡む漆黒の紐。ライソンとカレンが息を飲む。
「……カロル様が、亡くなったよ」
 ぽつりとタイラントが呟いた。それからうつむいて小さく唇を噛む。その姿にエリンは身を震わせる。よもや、ありえないことではないと。
「タイラント師、まさか」
「いいや、それは違う、エリナード。大丈夫、それだけは、違うから」
「ちょい待ち。それってなんだよ? 聞かせていい話なら、説明してくれないか」
 どちらでもいいから。ライソンは言い添えて二人の魔術師を見やる。念のために見たカレンは首をかしげてライソンの問いの答えに代えた。
「ラクルーサ王だ。お前は忘れちゃいねぇだろうな、ライソン。あの国王は、魔術師が嫌いだ。うっかり俺も殺されかねなかったくらいだからな。だから?」
「……そんな。いや、違うっていま、タイラントさん、言ったよな?」
「言ったよ。大丈夫。エリナードは忘れてる、違うかな。忘れたいのかな。カロル様はもう、そういうお年だったんだよ」
 とても見えなかったけれどね。そっと首を振りタイラントは続けた。確かにエリンにも覚えがないことではない。先ごろカロルはフェリクスにリィ・サイファの塔の管理権を委譲している。すなわちそれは、フェリクスがカロルの後継者である、というだけではなく、リィ・ウォーロックからリィ・サイファへと続き、サリム・メロールの手を経て繋がってきた魔道の正統後継者がフェリクスである、ということだった。ただ、それだけだとエリンは思いたかった。喜ばしい、誇らしい事実であるだけなのだと。カロルの死期が近づいているなど、決して思いたくはなかった。
「……タイラント師、これを俺がつけて、いいんですかい。俺は」
「君が星花宮を追放されたから、なに? 君はシェイティの弟子だ。あの日、カロル様が言ったことを君は忘れたの? 君はシェイティの息子だってカロル様は仰った。ご自分の孫だと仰った。なら深い喪に服す権利が君にはある。少なくとも、俺はそう思う」
 言ってタイラントは手を伸ばし、渡したばかりの二色の紐をエリンの腕に結んだ。美しいのに禍々しく、エリンはとても目を向けられないでいる。見れば、カロルの死を受け入れる、そんな気がした。
「師匠、大丈夫なんですか。あの人、カロル師が」
「大好きだったからね。本当に尊敬してて、憧れてて、目標で。シェイティは、だから黙って耐えてる」
「――お嬢、お前ちょっと見て来いよ。お前はエリンの弟子なんだからさ。星花宮に入るのはまずいかもしれねぇけど、でもエリンの弟子ってだけで資格はあるだろ、なんつーの、弔問のさ」
「そりゃいいですね。師匠は行けねぇんですから、私が行ってきますよ」
「だめだ」
「師匠?」
「カレンにゃわかんねぇよな、会ったことほとんどねぇんだから。……うちの師匠は、一人で耐えてる。俺にはわかる。手に取るように、自分のことのように、わかる。ここでお前が顔見せて見ろ。自分は大丈夫だ、心配するなって言うに決まってらぁ。だから――そんな余計な気遣いさせんじゃねぇ。師匠は俺が心配してんのも、なんかありゃすぐに跳んでいく気でいるのも知ってるさ。いまは……そっとしといてやってくれ。悪いな」
 真っ直ぐとカレンを見て言っていたエリンだったが、最後だけはぽつりとうつむいて言う。それだけカロルの死の衝撃は大きかった、そう言うことなのだとカレンは思う。カレンはミスティの弟子で、それなのにほとんどカロルとは会ったことがない。フェリクスとなればさらに少ない。それでも強烈な個性を持った魔術師たちだと知っていた。ふと薄ら寒くなる。時代の終わりを感じた気がした。
「君は……エリナード。たまに、ちょっと妬けるよ」
「は?」
「俺にもわからないことを、君はわかる。妬いてもいいような気がする」
「なにを……馬鹿なことを……。いや、その」
 うろたえるエリンの姿にタイラントがかすかな笑い声を上げた。心配してくれてありがとう、伴侶に代わってタイラントが礼を言ったのだと気づいてしまう。無茶なやり口がほんの少し恨めしい。と、その顔が愕然となる。
「いや、タイラント師。うちの師匠より、リオン師。大丈夫なんですか」
「大丈夫なわけがない。平気な顔をなさっているよ。淡々と最後のお別れをして、葬儀の準備もなさっているよ。……そんなわけないじゃないか、エリナード」
 タイラントはその目で見てしまった。カロルが逝ったとき、リオンの魂の大切な部分もまた、逝ってしまったのだと。伴侶と共に遠いどこかに行ってしまった。後は命尽きるその日まで、ただ彼は生きて行くのだろう。
「だからね、俺たちが伝令をしてる」
 本来ならばカロルの喪はリオンが発するべきことだった。けれど彼はそれすらできないでいる。するべきだ、と気づいていない。だからタイラントがするよりなかった。
「あぁ、吟遊詩人特権か」
 吟遊詩人なら、大陸各地を咎められずにまわることができる。ただの魔術師ではそうはいかない。タイラントと、彼の弟子たちが伝令を務める、それが理由だった。
「ほんとはね――」
「タイラント師、俺んとこで最後なんですよね。タイラント師は、直接俺にこれを渡しに来てくださった。話したいと思ってくださった。だから、最後だった。違いますかね」
「ううん、違わない。――ほんとにシェイティはいい弟子を、息子を持ったね」
 ほんのりとタイラントが微笑む。魅せられるべき美貌が、いまは頼りなかった。エリンはだからこそ、力強く微笑む。
「俺が師匠の息子なら、俺はタイラントの師の息子でもあるよーな気がしますけどね?」
 にやりとすれば、珍しくタイラントが頬を染めた。何か途轍もなく見てはいけないものを見た気がする。ライソンを見やればそっぽを向いていた。なぜか彼まで照れたらしい。
「だから、タイラント師。うちの馬鹿親父の側にいてやってください。タイラント師がいるといないとじゃ大違いだ。他にしなきゃならないことがあっても、側にいてやってください。――不出来な息子からの頼みです」
「……君ほど立派な息子は中々いないと思うけどね。ありがとう、エリナード」
 微笑んでタイラントは立ち上がる。ライソンに手を差し出し握手を交わす。それからカレンの頭を、幼い娘にするように撫で、最後にエリンを両腕に抱きしめた。腕が解かれたとき、タイラントはもういなかった。




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