イーサウの魔法学院は、想像を絶する盛況だった。エリンが原因だ。フェリクス・エリナード。氷帝フェリクスの後継者、その師弟の威名を慕って各地から若い魔術師たちが集まってきた。 エリンにとって幸いだったのは、星花宮のように幼い子供がいないこと。集った魔術師たちは総じてすでに誰かの弟子だった。師の元での修行に物足りなさを感じた者、師に勧められて訪れた者、中には師弟揃って入学した者までいた。 「……なんなんだ」 エリンはぼやく。自分一人でどうしろというのか、文句の一つも言いたくなる。が、一人ではなかった。魔力は劣るものの、技術だけならば一流と言ってもいいアランがいる。いまだ若いがカレンもいる。その二人の補佐により、学校は順調に運営を続けていた。 「エリナード師! お願いします!」 カレンより年嵩に見える青年だった。実際、彼女よりはずっと年上でもある。が、カレンは魔力が大きいのだろう、あまり顔形が変わらない。それを考えれば眼前の青年の持つ才能のほどがわかるというもの。 「ダメ!」 一顧だにせずエリンは言い放ち、そのまま通り過ぎようとした。その袖をはっしとばかり若い魔術師が掴む。 「どうしてですか!?」 「お前が風系だから!」 「でも!」 「俺は水系、お前は風系。俺にはお前を導き尽すこたぁできねぇの、おわかり?」 開校当初からのエリンの宣言。自分は弟子を取るつもりはない。師弟の誓約は交わさない。 「それでも!」 「風系のいい師匠がいる。ここで基本を勉強したら、そっちに行け。いいな?」 不満そうな青年にエリンは小さく微笑む。熱意だけは認めたい。それでも青年を思うからこそ、自分の弟子にはできなかった。 カレンを引き取ったことがよかったのかもしれない、いまになってエリンは思う。毛嫌いしていた師の立場も、これはこれで悪くはない。責任はひたすらに重い。が、フェリクスの名を背負ったときにすでにそれは乗っていた重さだと気づかされた。 エリンの学校は、単純に魔法の基礎とおおよその応用を教える、いわば技術学校だった。星花宮のよう、抜きんでた魔術師を育てるものではない。 問題は、教導者がエリンしかいない、ということだった。アランやカレンではさすがにまだ荷が重い。水系魔術師一人では、いくらなんでも他系統を教え尽すことはできない。いずれ力がついたとしてもカレンだとて水系だ。アランは汎用とも言うが、一系統に特化できるほど魔力がないとも言う。いずれにせよ星花宮のよう、超一流の魔術師を育てるのは人材的に無理がある。同時に、エリンはコグサとライソンにだけ本心を語っていた。 「あのな、俺が育てた魔術師はそのあとどうなるんだ、コグサよ?」 「そりゃ、イーサウの自警団に入ったり、大陸各地に散ったり? 狼で雇うってのも手だよな、ライソン」 「望めば、ですね。俺らは戦争屋だしね、戦いたくねぇってのを雇うわけにもいかねぇでしょうよ」 「そこだ、ライソン」 ふ、とエリンの目が真面目になる。ライソンの元にエリンが帰ってきて早十年。それなのにいまだにこの深い藍色の目には吸い込まれそうな気がする。気づいたエリンがにやりと笑った。 「あー、エリンさん? 話を先にしよーな?」 言えばコグサに睨まれた。いまだに周囲が熱い、とこぼすほどに仲がいいのをコグサはなんと思っていることか。ライソンもエリンも察してはいたが尋ねたことは無論ない。 「ま、いいけどよ。あのな、狼が雇うんなら問題ねぇよ。イーサウ自警団でも一緒だ。まぁ、現状はよ。とりあえず狼がイーサウから離れることまで考えてちゃ話が進まねぇからそれは置くぜ」 「怖いこと言うんじゃねぇよ。ようやく見つけた後援者だぞ」 「うっせぇコグサ。さっさと放り出して校長先生してるお前が言うなっての」 「で、エリン。本題」 さらりとライソンが口を挟む。これも十年の間に変わったことだ、とコグサは小さく微笑んだ。その笑みが凍りつく。エリンの表情が一変していた。 「他の傭兵隊に入ったら?」 はっとコグサが息を飲む。ライソンも無言になる。暁の狼は傭兵隊。イーサウの要請によってどこへでも行き、誰とでも戦う。それが仕事だ。 そしてその相手の中に、エリンの育てた魔術師がいたならば。その場にエリンがいたならば。あるいはエリンの弟子の誰かがいたならば。それを同士討ち、とは言わないのだろうか。エリンの無言の要請に二人は黙ってうなずく。 「それは、避けるべきだな」 「エリンと違うしなぁ」 「おい若造、どう言う意味だ」 真面目なコグサと反対に、ライソンは軽やかに茶化した。冗談だ、とわかる程度には年月が過ぎている。が、エリンの目許は険しい。 「あんたは氷帝にも平気で楯突くだろうが。マジなのか冗談なのかわかんねぇような喧嘩すんだろ」 「真面目にやったら俺ゃ死ぬぞ」 「だったらありゃ全部冗談かよ。怖ぇな、あんたらは。でもな、あんたと氷帝ほど根性据わったのがそうごろごろいるか? 戦場で師匠の面見てブルつくような兵はいらねぇよ」 「――師匠じゃなきゃ喧嘩もできるってか?」 「だって隊長、そうでしょ。魔術師の師弟ってそういうもんじゃねぇの?」 「隊長はてめぇだっての、ライソン。俺は校長先生してんだよ、真面目にな」 にやりと笑い合い、二人の傭兵が話をそらしていく。エリンは微笑んで彼らを見ていた。二人の脳裏にフィンレイの面影がよぎったのは間違いない。手塩にかけた弟子に攻撃することだけはしたくない、そう言うエリンの心をだからこそ、汲んでくれた二人。エリンはその日、ありがたくコグサを夕食に招待した。 だからエリンの弟子はいまだカレン一人だった。名目上は師弟ではない、と言いつつそれでも育てる相手は可愛い。できれば、戦場で相見えるなどということはしたくない、そう思う。 「エリン」 まだまだ教師――というべきだろう、師ではないのだから――の数も少ない学校だ。日中は授業をし、日暮れには全員が退去することになっていた。エリンはもちろん隣接した狼の宿営地、いまでは狼の巣、と呼ばれるようになっている町に帰る。 「おう、なんだよ、お迎えか?」 ひょい、と足取り軽く門の側で待っていたライソンの元に駆け寄る。幸いカレンはもう帰途についている。イーサウの町で買い物をする、と言っていたから自宅に戻るのは遅くなるだろうが、カレンのことは心配していなかった。 「たまにはね」 ふ、と笑ってライソンが腕を差し伸べてきた。その下に潜り込むようにしてエリンは彼に寄り添う。肩を抱かれたまま歩くのは面映ゆい。それでも幸福だった。 「そっちはどうよ? うちはずいぶん新兵も物になってきたぜ」 「隊長ぶりが板についてきたってやつだな、お前のそれ」 「よせっての。俺の隊長はコグサ隊長一人だって」 心底嫌そうに言うのは、自分の上にまだ誰かがいる、と思いたいせい。エリンにもよくわかる。独立しようが学院長などと言われようがエリンはいまだ自分はフェリクスの弟子だと思っている。師の元でまだまだ学びたいことがある、日々それを確認するような毎日だ。 「あんたもだろ、エリン?」 耳に忍び込んでくるライソンの声。狼がラクルーサを離れたあの頃、半年以上も会えずにいた。今ではとても信じられない。どうやって自分は過ごしていたのだろうと思えばこそ。 「まぁな、俺の隊長はやっぱラグナ隊長だけだな」 昔の、偉大な傭兵隊ともう語られるのみになってしまった青き竜。その最後の隊長ラグナ。隊を解散した後はひっそりと生きているのだろう。エリンはラグナの意志を汲んで探したことはない。常々引退したら農夫になりたいと言っていた人だった。 「そっちかよ!?」 「なんだよ?」 「氷帝のこと言うんじゃねぇかと思ったのによ。まさか竜の隊長持ち出すとは思わなかったぜ」 「師匠は師匠だろ。懐かしいと思うようなもんでもねぇし」 「憎まれ口叩いてるって言うんだぜ、それ。たまには氷帝に妬きたくなるけどな、俺は」 「は? なにそれ」 「だって憎まれ――」 「そっちじゃねぇよ! なんで師匠相手に妬くんだよ!? 意味わかんねぇし。この世でぜってぇ寝たくねぇ男の筆頭は師匠だぞ。次点でコグサ」 「あー、なんかわかる気がするってのがもう問題だよな」 なんとなく言いたいことがわかる気がした。エリンにとってフェリクスは父同然で、コグサは友人以外の何者でもない、そう言うことなのだろう。それでもライソンはたまにほんのり妬いて見せる。 「ライソン」 「なんだよ」 「お前、わかってる? どんだけベタ惚れか、知ってるはずっつーか、何度も言い飽きるくらい俺は言ったよな? そんでまだ妬くとか、どういう了見だって責めんぞコラ」 抱かれた肩もそのままに、エリンがより一層寄り添ってはライソンを見上げる。睨んでいるのだけれど、ライソンにとってその眼差しは甘い。それでもあえてそっぽを向いた。 「ライソン! お前なぁ。――お前だけだ。他に誰もいらねぇし欲しくねぇ。こんだけ惚れられてて何が不満だよ?」 「べつにー」 「お前な!」 エリンには疾うにライソンがじゃれているだけだとわかっている。三十歳の声をとっくに聞いた、傭兵としては熟練の年齢に達する男の態度とはとても思えない。 「だってエリンさんが好きですし? 焼きもちはその表れってことで」 にんまりとしたライソンが腕の中のエリンを見下ろす。狼の巣はもうすぐそこ。すっかり陽の落ちた道はエリンの作る魔法の明かりだけの仄暗さ。 「妙な表現するんじゃねぇよ。わかりにくいっての」 文句を言ってエリンは伸び上る。一応は、と辺りを見回せばもちろん人目などどこにもない。心得たライソンがわずかにかがみ、二人の唇がそっと重なる。それから目を見かわして照れたように笑い合う。 「なんかガキみてぇなことしてると思わねぇ?」 「同感。でもたまにはなんかどきどきしねぇ?」 「するってのが困ったとこだよな。うちのガキどもに見られたら立場ねぇわ、俺」 「そりゃ俺もだ。新兵に見られたらどうするかね」 言い合いつつ二人はそのまま歩いていた。心ならず一年近く引き離されていた過去がある。幸福は、あっという間に壊れてしまうものだと知っている二人でもある。だからこそ。 狼の巣の明かりが近づき、エリンは魔法の灯火を消した。かつては単に岩を積み上げただけだった外壁も、いまでは立派なものになっている。堅固な壁には燃えにくい木の厚い扉、しかも鋲まで打った扉がある。巣の門だ。狼の巣は、町とは呼ばれていても実質は砦だった。いまはまだ開け放たれている門は熟練兵が門衛を務める。門に掲げられた松明の明かりの中、銀髪の美しい男が立っていた。 |